岡本 文弥(おかもと ぶんや)は、浄瑠璃太夫の名跡。(1633年(寛永10年) - 1694年2月4日(元禄7年1月11日))古浄瑠璃太夫。伊藤出羽掾藤原信勝。大坂最初の太夫といわれ道頓堀を拠点に操り芝居を興行。出羽座の座本を兼ねた。カラクリや糸繰を駆使した舞台演出は特に人気を呼び大阪名物とまで言われ、寛文-延宝年間(1661-81)を最盛期として井上播磨掾と芸をきそった。門下に二代目岡本文弥(文弥泣き節)、山本土佐掾、山本飛騨掾ら。(1633年(寛永10年) - 1694年2月4日(元禄7年1月11日))古浄瑠璃太夫。大坂出身。道頓堀の伊藤出羽掾座で活躍。文弥の泣き節といわれる文弥節の始祖。弟子に三代目岡本文弥(元禄中期-末期)。都越後掾。(元禄中期 - 元禄末期)古浄瑠璃太夫。大坂出身。二代目岡本文弥に師事。(1895年1月1日 - 1996年10月6日)東京出身。本名・井上猛一。父は煉瓦職人、母は新内流しの鶴賀若吉(のちに3代目岡本宮染を名乗る)。幼少時より母親から浄瑠璃を習う。1913年、富士松加賀路太夫を名のる。早稲田大学中退後、文芸誌の編集者をしていたが、新内に専念し、流しを始める。1923年独立して岡本派を再興、4代目家元岡本宮太夫となる。永井荷風の元妻、藤蔭静樹と組んで新内舞踊を復活させるなど、作詞・作曲と新内舞踊の開拓に尽くした。また、反戦と労働者のための新内節を歌い、「赤い新内」「左翼新内」とも呼ばれて、中国へも毎年訪れた。1956年芸術選奨受賞。1957年新内節で国選択の記録無形文化財保持者。1969年から1970年まで『中央公論』に自伝「芸流し人生流し」を連載。101歳の長命を保ち、新内に関する著作、民衆芸能に関する随筆など多数の著作があり、句集、歌集もあり、晩年はテレビに出て人気があった。妻は5代目岡本宮染。 次郎吉ざんげ/行倒れ淀君/ふるあめりか/お吉人情本/おさん茂兵衛/滝の白糸/耳なし芳一/むじな/河童の道行/たぬき/十三夜/雁/にごりえ/月夜の題目舟/ 鶴女房/富本豊志賀/絵島生島/宮古路豊後掾/今戸心中/おその六三
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