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樺美智子

樺 美智子(かんば みちこ、1937年11月8日 - 1960年6月15日)は、学生運動家。安保闘争で死亡した東京大学の女子学生。曽祖父は鳥取県出身の数学者樺正董。父は社会学者の樺俊雄。東京に生まれた。2人の兄がいる。中学から父の神戸大学赴任にともない兵庫県の芦屋に移る。芦屋市立山手中学校、兵庫県立神戸高等学校を卒業後、、1957年に東京大学文科二類に入学(同級生には歴史学者の長崎暢子などがいる)。1957年11月の誕生日に日本共産党に入党した。その後共産主義者同盟(ブント)の活動家(書記局員)として1960年の安保闘争に参加する。なお、高木正幸は樺がブント創設以来の活動家であったことを自著で紹介している。76名が検挙された1960年1月26日の全学連羽田空港占拠事件の時に検挙され拘置所に入った事があるがこの時は不起訴処分となっていた(東京大学文学部自治会副委員長として参加している)。同年6月15日のデモで全学連主流派が衆議院南通用門から国会に突入して警官隊と衝突した際に死亡した。。死亡当日は、淡いクリーム色のカーディガンに白のブラウス、濃紺のスラックス姿だった。警察病院の検死では死因は胸部圧迫及び頭部内出血となっている。これについて警察側は転倒が原因の圧死と主張し、学生側は機動隊の暴行による死亡と主張した。落合信彦は、著書の中でソ連KGBによる謀略工作(樺を標的に殺害したとする)の経緯を詳しく述べている。。6月15日の事件はラジオでも実況中継され、樺美智子の死は多くの人に衝撃を与えることとなった。事件当日に、樺が所属していた国史研究室の先輩にあたる伊藤隆(当時修士2回生)と、「卒論の準備は進んでいるか」「今日を最後にするからデモに行かせてほしい」「じゃあ、それが終わったら卒論について話をしよう」という会話を交わしている。樺の死因について山本夏彦はコラムで以下のように述べている。中略した部分は山崎博昭の死因について触れた部分である。石原慎太郎は樺の死について雑誌『展望』に寄稿した際、「自分で自分を踏み殺した女子学生」と表現したところ、その論旨にいかにも共鳴したといっていた編集者が、この言い回しだけはどうしても抵抗を感じると言い出した。石原は譲らずに通したが、出来上がった雑誌にはこの部分が削除されていたことを回想している。なお、いくつかの文献では、樺が活動家であったことを記述せず、単に「女子学生」「女子東大生」としか記していない。母・光子による遺稿集『人しれず微笑まん』(1960年)と書簡集『友へ―樺美智子の手紙』がある。また雑誌『マドモアゼル』が生前の樺美智子に最後のインタビューを行った。光子は、デモに向かう美智子に対して「警官を憎んではいけない。自分たちよりも条件の悪い、貧しい育ちの青年が多い。その人たちを敵と思ってはいけない」と諭したと、鶴見俊輔が元『朝日ジャーナル』編集部員である村上義雄のインタビューで語っている。当時、全学連主流派と対立していた日本共産党は、樺の死に際して「樺美智子さん(共産主義者同盟の指導分子)の死は、官憲の虐殺という側面とトロツキスト樺さんへの批判を混同してはいけない。樺さんの死には全学連主流派の冒険主義にも責任がある」と述べ、政府・警察と全学連側の行動の双方を非難した。日中友好協会幹部であった橋爪利次は中国側に対して、「日本海をこえた日本での問題の評価は、私たちが決める問題です。特に樺さんは、本人やご家族に取っては気毒な結果になったが運動の破壊となる過激分子のなかでおこった問題であって、民族英雄とはいえない…」と抗議した。毛沢東は樺の死について、「樺美智子は全世界にその名を知られる日本の民族的英雄になった」と述べた。保阪正康によると、樺の死に対し中国からカンパが寄せられた(当時の日本円で約1,000万円)が、日本共産党が全額手中に収め、「これは前衛政党に送られたもの」と主張した。もめた挙句に救援会が作られたが、樺の霊前に供えられた香典はわずかに5万円であったという。松本健一によれば、右翼活動家、歌人でもある影山正治は日米安保に反対する立場から樺の死について、「樺美智子さんの死に対しては、心から哀悼の言葉を述べたい。私は彼女こそ日本のためになくなった愛国者だと思う。こういう人が私達右翼陣営から出なかったことを残念に思う」と評した 。

出典:wikipedia

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