ファルマン III(Farman III)は、フランスで製作された推進式の複葉機。1909年(明治42年)にアンリ・ファルマンにより設計・製作され、第一次大戦前の世界各国で広く導入された。日本では、購入された同型の1機が「アンリ・ファルマン複葉機」などの通称で知られ、この機体は1910年(明治43年)12月に行われた日本初の試験飛行に使用された機体のひとつである。ファルマン三兄弟の次兄、アンリ・ファルマン(フランス語圏では:Henri (アンリ)、英語圏では:Henry (ヘンリー) )による最初の飛行機体験は、1907年(明治40年)6月にヴォアザン兄弟から複葉機を購入したことに始まる。後に航空機製造会社を設立し広く知られることになる彼は、当時は自転車レース・自動車レースの選手として活躍した後、飛行船に搭乗したことをきっかけに航空への興味を持ち始めていた。 同年9月30日に初飛行を体験した彼は、すぐに自分で機体の改造を始める。この機体が後に「ヴォアザン-ファルマンⅠ()」、またはファルマンI()と呼ばれている。翌1908年(明治41年)、彼はゴム引布を用意し、翼面など機体全体の布部を貼り直すなどの改良を重ね、同機の呼称を「Farman I-bis」(ファルマン1号(改)の意)と改めた。一方、同1908年内に彼は独自に別の単葉機の製作を試み、これがファルマンII()と呼ばれたが製作は成功せず破棄された。さらに同年11月、彼は新たにヴォアザン兄弟に大型で改良された機体を注文し、乗り慣れた前述の Farman I-bis は売却し、同機の到着を待った。だが、ヴォアザン兄弟はこの機体を当時パリに着いたばかりの裕福な青年、ジョン・ムーア=ブラバゾン()に売却してしまった。転売されたこの機体はその後も複数のオーナーの手を渡り歩くことになったため 「"Bird of Passage"」(渡り鳥)と呼ばれている。この出来事をきっかけにファルマンとヴォアザンの親交は途絶え、以降ファルマンは機体の自作に傾倒して行く。 1909年(明治42年)、アンリ・ファルマンは自ら航空機の製造業を開始した。ファルマンIでの改良の経験を生かし、弟のモーリスと共に製作所(のちの「ファルマン航空社」)を設立し、そして最初に製作されたのが「ファルマンIII」だった。この機体は、先端に突き出した一枚の昇降舵と、尾翼には方向舵があり、そして4翼すべての後縁に補助翼が搭載された推進式の複葉機だった。下翼面の中央前縁に座席するパイロットの後背に燃料タンク、エンジンとプロペラが後向きに配置された。木製の骨組にはパイン材が使用され、翼面などの布部には白色のゴム引布が、また各接続部には組立て・解体を容易にするためごく簡単なボルトやナットで連結され、これらの間を約160本以上のワイヤ金具で張り締めた。同1909年4月6日には、まず社製の直列4気筒エンジン(50hp,37kW)を搭載して初飛行が行われた。その後まもなくエンジンは後述の競技会出場に際し 8月には当時最新のグノーム (Gnome)社製の50hp(37kW)空冷7気筒星型回転式エンジンに載せ換えられた。 さらにその後も細部の改良は重ねられ以下のような変遷がみられる。すなわち、前翼の大きな昇降舵は支柱の幅内に縮小し、より軽量化された4輪着陸ギアを導入し、等幅だった上下の翼幅は下翼を縮小・上翼が拡張された。また尾翼部は(英語圏でしばしば "I"-tailと通称される)"エ"型の方向舵1枚のもの()と、開放型で2枚が連動する方式のものとが特に初期のモデルでは混在している。※1909年スタンダードタイプ。出典:による。(同年式でも頻繁な改良により細部は異なる)ファルマンIIIは後に航空史上、または飛行機のデザインの変容の歴史上において、その後の方向性を決定付けた重要な型の一つとして高く評価されている。特に、初めて実用的に補助翼を導入し、降着装置に車輪を取付けた最初の航空機であったとされている。アンリ・ファルマンが補助翼を初めて導入したのは1908年夏、前述のファルマンIの改造の最終過程で試験的に導入し、成功したこの独自のデザインを当機にも採用した。ファルマンIIIの補助翼は、下方向からのケーブルのみ接続されていて駐機時は、つまり飛んでいない時は補助翼は重力に引かれ自然に垂直に垂れ下がった状態となる(写真)。これが飛行時には前方からの風で翼面と平行に持ち上がり、パイロットの右手に配置された長大な操縦桿を左右に倒すことで補助翼が下方に引張られる。補助翼が引かれると補助翼に当たる風の抵抗によって翼下面に圧力が生じ、機体のロール(傾転)が行われる。操縦桿がオフセット配置されたこの形式ではパイロットにとって体の外方へ開く動作(右旋回)よりも体の中側へ引き込む動作(左旋回)の方が楽に行えたとされている。また同操縦桿の前後の傾きは、機体最前部の前翼(大きな1枚の昇降舵)と、機体後尾の尾翼上面に配置された小さな1枚の舵とが(ちょうどプロペラ・操縦席の頭上でX字状に交差して)ワイヤ接続されており、この両者と連動する。操縦桿を前後に倒して機首の上げ下げを、左右に傾ければバンク(ロール)操作を、また足元の横棒を踏めば尾翼の方向舵が左右に振れて機体の旋回(ヨーイング)を行うというこの方式は、現代の航空機でも標準となっている。降着装置としてスキッドの代わりに車輪をメインに使用するというアイデア自体は、ライト兄弟の先例から得たものだった。一方ライト兄弟もそれまでのたわみ翼の代わりに、以降はより優れたファルマン兄弟デザインの補助翼を採用した。この着陸脚は、スキー板状に反った2本の脚と、その両側に取り付けられた車輪との接続部にばね式サスペンションがあり、ハードな着陸の際には車輪およびサスペンションがショックを分散・緩和する。この構造が後述の野外飛行を(充分に整備されていない地表での離着陸を)可能にした要因のひとつとされている。操縦性能に優れる各翼への動翼配置と離着陸用の車輪、というこの組み合わせは、以降現在に至るまでほとんどの航空機でも採用されている。同1909年中に当機によりアンリ・ファルマン自身が当時の長距離飛行・航続時間の世界記録を2度更新している。数々の競技会出場や記録樹立などの影響もあり、当時ファルマン社には、イギリス・ドイツ・デンマーク・日本・ベルギーなど国外からの注文や視察・買い付けなども殺到し始めた。特に1910年型のファルマンIIIは合計130機が生産され、うち75機はフランス国外に販売された。さらに、フランスのファルマン社以外でも当機のライセンス生産または(ライセンスの無い)複製機が各国で作られ、細部はそれぞれ独自に改良が加えられた。中でもイギリスでライセンス生産されたブリストル ボックスカイト(箱凧の意)や、ドイツのファルマン・アルバトロスなどは広く知られている。当時のロシアでも軍の標準の飛行機として当初ファルマンIIIを採用する予定だったが、実際には後続の型ファルマンIVが大量に採用された。雪深い気候のため車輪の下にスキーを履いたものや、骨組にはパイン材の替わりに竹を使ったものなど、独自の変遷がみられる。こうしてファルマンIIIは各国で当時のベストセラーとなり(アメリカのライトフライヤー号などとならび)、第一次大戦以前のヨーロッパ機としては最も広く知られた機種となった。1911年(明治44年)10月23日、イタリア・トルコ戦争(伊土戦争)中のリビアでは、ファルマンIIIが空中写真による前線偵察を行う写真偵察機として使用された。これは歴史上初めて飛行機が戦争で使用された例として知られる。(一方、厳密にはこれはブレリオ XI(Blériot XI)機による前日の22日が最初とする記述もある。)日本では、1910年式の機体1機が8月頃フランスで購入され、この機体はグラーデII単葉機とともに、同年12月に行われた日本初の公式動力飛行に使用された機体のひとつとして広く知られている。なお日本語の航空史などの関連資料中では「アンリ・ファルマン複葉機」(複座式複葉機)、「アンリ・ファルマン号」、または「アンリー・ファルマン機」、「ファルマン機」などといった記述の場合は同機種全体ではなく以下に述べる固有の機体(日本での初飛行の公式記録を持つこの1機)のみを指す場合が多い。以下ではこの機体について述べる。1910年(明治43年)、臨時軍用気球研究会の委員であった日野熊蔵(当時31歳、陸軍歩兵大尉)と、徳川好敏(27歳、同気球隊付工兵大尉)は、機体の選定・買い付けと操縦技術習得のためフランス・ドイツに派遣された。両大尉は新橋から4月11日に出発、敦賀-ウラジオストク間を船で渡りシベリア鉄道経由でパリに渡った。5月末、アンリ・ファルマン飛行学校3校目のエタンプ校が開校し、両大尉は各国(女性1人含むフランス人4名、ロシア人3名、ほかイギリス、ドイツ、イタリア、ポーランドなど)から派遣された飛行学生ら計10数名と共に学んだ。この飛行学校での授業内容は、1日1人につき5分間のみ、全10数回の高度約30mほどでの同乗飛行を繰り返し、生徒はインストラクターの背中に張り付くようにして同乗し右手を肩越しに伸ばして一緒に操縦桿に添え、体感で操縦を覚え、その後は単独での飛行を3回成功させれば卒業となるものだった。徳川大尉はオートバイを購入し毎朝1番に通ってこの5分間だけの飛行をこなした後は、大使館などを訪ねて機体の選定・買い付けのための情報収集や準備に奔走していたとされる。8月8日に彼は初めての単独飛行に成功し、同月10日・11日で3回を終えて卒業となり、(当時、実質上"国際"飛行免許ともされた)フランス飛行クラブ()発行の飛行機操縦免状を取得のため、シャロン演習場()内のアンリ・ファルマン飛行学校(本校)に移動した。彼はここで日本からの発注で製作されたばかりの機体を受け取った(これが後に日本でアンリ・ファルマン号と呼ばれる)。厳密には当時の三井物産が1機を購入し、これを臨時軍用気球研究会に納入するという形がとられた。当時の購入価格は2本の予備プロペラ付き(後述)で18,800円(または18,832円)と記録されている。 購入されたこの1910年式の機体は、2人乗り用の後部座席が標準装備され、機首の昇降舵は支柱幅内に収まり、上・下翼は等幅でエルロンは4枚、足下の(しばしばT-pedalと呼ばれる)補助棒はスライド式で、尾翼下には補助輪に替わり1本のかぎ状の曲棒(スキッド)があり、尾翼方向舵は2枚でその両側にロゴ文字:「H.FARMAN Constructeur Camp de Châlons MARNE 」の記載がある。8月25日に同機で免許試験に臨んだ彼は、一周6kmのコースを離陸から着陸まで3周の飛行を成功させ、着陸するとすぐに写真を1枚撮られた。合格者の書類に添付する写真だった。彼はこうして飛行機操縦者免許状(第289号)を取得した(この免許状は実物が現存している。発行日は11月8日付)。その後は、機体は分解・梱包され9月15日にフランスから日本へ向かう「安藝丸」に積載の上船便で日本に送られた。徳川大尉は同演習場内のアントワネット飛行学校に入校し、ブレリオ機を発注し、その操縦訓練を受け始めて間もなく帰国命令が出た。延期を要請したが許可されず、ドイツに行っていた日野大尉とパリで落ち合い帰国、10月25日朝には再び新橋に到着した。 帰国後11月8日、横浜港に到着していたファルマン機の梱包を確認、これを東京中野の気球隊に運んで組み立てることになったが、当時この輸送には牛4頭と50人を動員して丸4日間かかったとされている。また発送時に徳川大尉は立ち会っていないため、組立も困難であったとされている。一方これを飛ばすための飛行場は、当時の日本にはまだ存在していなかった。機体の買い付けと平行して所沢に準備が進められていたが、予算の不足などもあり工事が遅れたため代々木錬兵場を整地して使用した。 同年12月、代々木錬兵場の一角(現在の代々木第一体育館東側「原宿駅入口」バス停付近)に2基の天幕式格納庫が設置され、ファルマン、グラーデ両機が中野気球隊から運び込まれた。主催者の臨時軍用気球研究会は公開飛行試験の日程を新聞などに公表した。当時、多くの一般の日本人にとって、飛行機が空を飛ぶということはまだ信じ難い出来事だった。飛行実施日は、同月15日と16日、また当日が悪天候になった時のため17日・18日は予備日とされ、19日・20日には撤収や輸送が完了するという予定だった。このため15日から19日にかけての5日間で約50万人の観衆が集まり、会場の周囲には屋台なども出店する賑わいとなった。結果的に公式な記録として、日本における初の動力飛行(エンジン付航空機による飛行)の日付、すなわち日本で初めて飛行機が飛んだ日は、1910年(明治43年)12月19日とされている。この日、代々木錬兵場(現在の代々木公園)において、徳川好敏大尉がフランス製の当ファルマンIII型複葉機を操縦し、日野熊蔵大尉がドイツ製のグラーデII型単葉機を操縦し、日本初の公式動力飛行に成功した。これを記念して12月19日は「日本初飛行の日」とされている。一方、その成功に至るまでの数日間には度重なるトラブルや悪天候による延期などの紆余曲折があった。この経緯の詳細(や飛行記録の細かな数値)については、資料により多少異なっている。特に、数日間の地上滑走演習中(14日や16日)などに日野大尉のグラーデ機の方が少し先に"初飛行"を成功させた(と記録するべきではなかったか)、との観点で論じられることも多く、これについては様々な説がある(また航空力学的には「飛行」としなかった当時の公式記録が妥当であるとする見方もある)。これらの点については約100年が経過した今日でも多少見解が分かれている。 ただし、ともすれば徳川・日野大尉 本人同士が当時あたかもライバル心を剥き出しにして"初飛行"の功名を争奪し競り合っていたかのようにイメージされることがあるが、これはおもに当時の一部の新聞などが大衆の興味をそそるため一部脚色を交えて報じたことなどに起因しており事実ではない。ともあれ、度重なるトラブルや悪天候による延期などの紆余曲折を経て、19日には両者そろって飛行に成功し、公式記録とされた。今日の錬兵場跡(代々木公園内の南門付近)には、これを記念して「日本初飛行離陸之地」・「日本航空發始之地」の石碑や、徳川・日野両大尉の銅製胸像が東京都による解説板とともに立てられている。また19日当日に撮影された写真などの関連資料は東京上野の国立科学博物館に展示されている(後述も参照)。1911年(明治44年)4月1日、日本で最初の飛行場である臨時軍用気球研究会所沢試験場が所沢(当時埼玉県入間郡所沢町)に完成した。同所での初飛行は天候の関係で同5日に行われこの日ファルマン機は800mの距離を高度約10mで1分20秒間飛行したと記録されている。同年6月3日、徳川大尉の操縦で後席に山瀬中尉が同乗し、所沢-川越間の30.03kmを高度150m程で32分45秒で飛行した。これが日本国内初の都市間野外飛行とされている。 また、開設当初の所沢飛行場には当機を含め前述の両大尉が買い付けた全4機の輸入機しか無かったため、同年10月には当機を元に国内で会式一号飛行機が製作された。この機体は軍用機としては、初の国産飛行機とされている。当機体の正確な退役年月日は不明であるが、所沢飛行場でおよそ1916年(大正5年)頃までは何度も修理を重ねながらも現役で使われていたとされている。その後は飛行不能になり、分解され同飛行場の格納庫内に保管されていた。当時の武蔵野鉄道・旧西武鉄道所沢駅付近(現・西武所沢車両工場跡地)の陸軍航空技術学校分講堂に「所沢航空参考館」(通称:南倉庫)が開館すると、再び組み立て復元され、陸軍の「記念飛行機」として歴代の軍用機やその他の輸入機とともに展示されていた。終戦後はアメリカに分解された状態で(戦利品または戦争資料などとして)接収され、ライト・パターソン空軍基地の米空軍博物館に収蔵されていたが、1960年(昭和35年)に日米修好100周年および日本航空50周年を記念し日本に返還され、同年5月20日に航空自衛隊入間基地(在旧陸軍航空士官学校)に空輸で到着した。この日、約50年振りにファルマン号の操縦桿を握った77歳の徳川好敏元陸軍中将は、まるで我が子に再会したような気分だと述べ、感涙に及んだ。返還直後には、一時的に羽田空港で同年9月18日に行われた航空ページェントや、かつて池袋西武デパートの屋上に存在していた屋上ヘリポート「西武スカイステーション」のイベント時にも当機が貸し出され、他の航空機とともに子供たちの写生大会のモチーフにもなっている。その後は2006年(平成18年)5月まで、東京都千代田区の交通博物館に展示され、今日では入間基地内の旧「修武台記念館」が「航空歴史資料館 修武台記念館」としてリニューアルオープンされたため、2012年(平成24年)3月から同館内に展示されている。各出典・参考サイト参照。
出典:wikipedia
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