LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

藤原常嗣

藤原 常嗣(ふじわら の つねつぐ、延暦15年(796年) - 承和7年4月23日(840年5月27日))は、平安時代前期の公卿。藤原北家、中納言・藤原葛野麻呂の七男。官位は従三位・参議。右京少進・式部大丞などを経て、弘仁14年(823年)従五位下に叙せられる。淳和朝では、天長3年(826年)従五位上、天長5年(828年)正五位下と順調に昇進する。天長7年(830年)正月に刑部少輔に左遷されるが、8月には蔵人頭に抜擢、天長8年(831年)には従四位下・参議に叙任され公卿に列す。また、議政官として勘解由長官・右大弁を兼ねた。なお、この間『令義解』の編纂にも携わっている。仁明朝に入ると、天長10年(833年)従四位上に叙せられ、翌承和元年(834年)にはかつて父・葛野麻呂も任ぜられた遣唐大使に任じられる。父子二代続けて大使に任命されたことについて「唯一門而已」(唯一門のみ)と評された。しかし、承和3年(836年)・承和4年(837年)と二度に亘り渡航に失敗、この間に左大弁・大宰権帥に任じられている。承和5年(838年)三度目の渡航の際、それまでの渡航失敗により乗船であった第1船が破損していたために、遣唐副使・小野篁が乗船する予定であった第2船に乗り換えようとしたことから篁と対立、篁は病気を理由に渡航を拒否してしまう。結局、三度目の渡航は成功するが、この渡航は悲惨を極め、その様子が同行した円仁の『入唐求法巡礼行記』に記されている。翌承和6年(839年)常嗣は長安で文宗に拝謁したのち、新たに新羅船を手配し、8月に帰国する。なお、これが実際に渡海した最後の遣唐使となった。同年9月渡海の労により従三位に昇叙されるが、翌承和7年(840年)4月23日に薨去した。享年45。最終官位は参議左大弁従三位。若い頃より大学で学び、『史記』や『漢書』を読みあさり、『文選』を暗誦した。作文を好み、隷書が得意であった。生まれつき物事を見通して取り仕切る才覚があり、また、礼式に適った挙措動作は称賛に値した。遣唐大使を務めた際には、円仁の天台山留学のために奔走したことが知られる一方で、副使の小野篁のみならず、知乗船事の伴有仁ら4名も乗船を拒否して処罰を受けていること、さらには帰国時にも渡航ルートを巡って判官の長岑高名と対立して高名の主張に敗れるなどトラブルが続発しており、常嗣の判断能力や統率力の欠如を指摘する見解もある。『経国集』に漢詩作品が採録されている。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。