諫早 茂図(いさはや しげつぐ、延享3年12月7日(1747年1月17日) - 文化12年7月22日(1815年8月26日))は、肥前国佐賀藩請役で、第11代諫早邑主。第8代諫早邑主諫早茂行の第三子。兄に行孝(第9代邑主)、茂成(第10代邑主)。通称は豊前。同じく諫早豊前を称した子の敬輝、孫の茂洪はそれぞれ鍋島直与の姉、娘を妻に迎えている。兄の茂成が没したため、明和4年(1767年)に家督を継ぐ。明和6年(1769年)、寛延3年(1750年)に上地された諫早領4000石が返還されたのは諫早一揆の盟主若杉春后のおかげであるとして、若杉霊神を建立した。天明3年(1783年)、執行一介の支援を得て郷校「好古館」を開校する。文化元年(1804年)、ロシア使節レザノフが長崎来航し、矢上屯所より出兵し警備を務めた。防備のため、文化4年(1807年)に領内海岸5ヶ所に砲台(台場)を設置した。文化5年(1808年)、長崎警備に就いたが英国軍艦フェートン号侵入(フェートン号事件)を阻止できなかった。文化12年(1815年)、70歳で没した。墓所は諫早氏代々の墓がある諫早市天祐寺。子に敬輝がいたが早世したため、孫の茂洪(しげひろ)が継いだ。ほかに子に真敏、明雅がいる。
出典:wikipedia
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