照ノ富士 春雄(てるのふじ はるお、1991年11月29日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は間垣部屋)所属の現役大相撲力士。本名はガントルガ・ガンエルデネ(モンゴル語キリル文字表記: )。身長192cm、体重185kg、血液型はO型。最高位は大関(2015年7月場所 - )。独身。母国モンゴルにいた頃は横綱の白鵬の父でもある、ジグジドゥ・ムンフバトに素質を見出され、柔道などを習っていた。母と日本に観光旅行をした折に、偶然相撲部屋関係者に声をかけられて連日稽古を見学したことで、大相撲の世界に魅了された。学業成績も優秀で飛び級を認められ、17才で技術大学に合格。両親も技術者になることを望んだが、相撲留学を決断。2009年3月26日に来日して鳥取城北高校に編入し、高校3年次の全国高等学校総合体育大会相撲競技で、鳥取城北高校の団体メンバーの一人として優勝に貢献した。高校卒業を控えて2010年に間垣部屋に入門した。2011年1月場所前の新弟子検査を受けたが、興行ビザの取得が必要なため、初土俵は翌5月技量審査場所となった。5月技量審査場所で共に初土俵を踏んだ力士は、幕下15枚目格付出の千代大龍の他、前相撲から取った常幸龍らがいる。初土俵を踏んでから関取に昇進するまで名乗っていた「若三勝」の四股名は、入門時の師匠である間垣親方(第56代横綱・2代目若乃花)が大関時代まで名乗っていた「若三杉」にちなんでいる。幕下昇進まで全ての段を1場所で通過するなど順調な出世を見せ、初めての幕下の場所であった2012年1月場所は、関取経験者の出羽鳳を相手に、豪快に吊り出して勝利するなど幕下でも実力十分なことを証明する5勝2敗の成績であった。東幕下15枚目だった同年7月場所では3勝4敗と入門して初の負け越しを喫した。2013年3月場所限りで間垣部屋が閉鎖されて伊勢ヶ濱部屋に移籍すると、稽古環境が一気に充実したこともあって2場所連続で6勝1敗の成績を上げ、場所後の番付編成会議で9月場所での新十両昇進が決定した。新十両昇進と同時に四股名を今の師匠の旭富士(伊勢ヶ濱親方)と、現役時代は伊勢ヶ濱部屋(ただし今の伊勢ヶ濱部屋とは系統的つながりはない)の所属だった照國という2人の横綱にちなんだ「照ノ富士」と改める。会見では「立ち合いが相撲の70%を占めると言われる。それを頭に入れて稽古してますが、まだまだ足りない。もっと頑張らないとだめです」と取り口についての課題を語った。新十両として迎えた9月場所も勢いは止まらず千秋楽に鏡桜に勝って12勝3敗で鏡桜と相星となり、優勝決定戦でも鏡桜を破り十両優勝を果たした。前場所に遠藤が新十両優勝を果たしており、2011年11月場所の勢、2012年1月場所の千代大龍以来3度目の2場所連続新十両力士の優勝が記録された。翌11月場所は8日目の大道戦では組み合った状態から鼻血が出て「行司待った」が懸かるハプニングも起こった(この取組の結果は上手投げで勝利)。2014年1月場所は西十両筆頭で12勝3敗の好成績を挙げ、翌3月場所で新入幕を果たした。その3月場所は9日目に7敗目を喫したがそれ以降6連勝して8勝7敗と勝ち越した。5月場所は、場所前に蜂窩織炎を患い初日の朝に退院するという苦しい状況だったが、9勝6敗とまたしても勝ち越した。三役目前となる東前頭筆頭まで最高位を更新した同年9月場所は、初日の大関琴奨菊戦で自ら「あり得ないですよね」と意外性を認める立ち合い変化を行い、大関戦初挑戦にして白星を挙げる。取組直後に「今までやってなかったから、一度やってみたかった」と語っていた一方で「相手が食っても食わなくても親方には怒られる」とも心配していた。しかし2日目から6連敗とその後は振るわず場所成績は6勝9敗の負け越しに終わった。2015年1月場所は東前頭2枚目で8勝7敗となり、敢闘賞の候補となり異例の再投票の結果、自身初の三賞となる敢闘賞を受賞した。翌3月場所は新三役、小結の地位を通り越して関脇昇進を果たす。モンゴルからの新三役(関脇)は、2014年11月場所の逸ノ城以来。初土俵以来所要23場所で新関脇は、1958年以降初土俵(幕下付け出しを除く)としては9位のスピード昇進となった。新関脇の3月場所は初日から7連勝し、13日目にはそれまで36連勝だった横綱の白鵬を破るなど13勝2敗で殊勲賞、敢闘賞を受賞した。新関脇での13勝は史上最多タイ記録で、過去には1940年5月場所の五ツ嶌、1950年9月場所の吉葉山、2005年9月場所の琴欧州がいる。翌5月場所では12勝3敗で初の幕内最高優勝を果たし、5月27日の番付編成会議および理事会において、満場一致で平成生まれ初の大関が誕生した。但し審判委員の一部には「大関昇進の3場所前は平幕の地位が引っ掛かる」「慌てて上げる必要は無い。もう一場所待つべきでは」との声もあったが、「直前場所での優勝は大きい」と北の湖理事長らが重視した結果、最終的に新大関への異論は出ずに決定する。なお三役2場所での大関昇進は年6場所制になった1958年以降では初めて。年6場所以前では1951年1月場所後に大関昇進の吉葉山以来64年ぶりとなった。大関昇進直後、2015年6月に行われた弥彦村の村おこしイベントで、「どんな大関になりたいか?」と質問された照ノ富士は「どんな大関ではなく、上を目指していますから。」と答え、更なる昇進への意欲を示した。2015年7月場所、新大関として初登場。初日から6連勝と好調だったが、7日目に豪栄道に敗れ初黒星。9日目稀勢の里に勝ち8勝1敗と勝ち越したが、その後11日目に白鵬、12日目に鶴竜の両横綱に敗れて優勝争いから脱落。千秋楽は大関角番脱出を賭ける7勝7敗の琴奨菊に勝ち越しを許し、結果11勝4敗の成績だった。元大関の鳴戸(琴欧洲)・二子山(雅山)・藤島(武双山)各親方らは、照ノ富士の新大関場所に「100点満点、十分の内容。大関昇進で多忙となる中、硬くなる初日に勝てたのは大きい。大関の責任は果たした」と称賛。但し玉ノ井親方(栃東)は「優勝を逃したので90点。今後も最後まで優勝戦線に加わって欲しい」と奮起を促していた。2015年9月場所は横綱白鵬が3日目から途中休場となる中、初日から一人11連勝していた。しかし12日目の栃煌山戦で初黒星、翌13日目の稀勢の里戦で寄り倒された時、右膝を負傷。14日目の豪栄道戦に強行出場するもあっさり寄り切られ3連敗。それでも千秋楽結びの一番では、過去4戦4敗だった単独トップの横綱鶴竜を寄り切って初勝利。12勝3敗同士の優勝決定戦へもつれ込んだが、鶴竜に上手出し投げで敗れ、惜しくも2回目の幕内優勝はならなかった。場所後の精密検査で「右膝の前十字靱帯損傷・外側半月板損傷などで1か月の加療を要する」との診断書が下され、秋巡業は休場する予定。また翌11月場所、照ノ富士の綱獲りについて北の湖理事長は「優勝又は13勝以上ならともかく、12勝の優勝同点では軽過ぎる」と否定的な意見を表明した。2015年11月場所、右膝の怪我が完治しない中強行出場するも、9日目の大関稀勢の里戦で4勝5敗と黒星が先行。その後は12日目・豊ノ島戦で敗れるも、13日目の横綱鶴竜戦で叩き込んで7勝6敗とし、翌14日目に日馬富士と優勝を争った横綱白鵬を大相撲の末寄り切り、ようやく勝ち越し。結果9勝6敗で取り終えたが、同2015年の年間最多勝(65勝25敗)は、白鵬(66勝12敗12休)に僅か1勝届かず初受賞を逃した。2016年1月場所、4日目の碧山戦で寄り切りで勝った際に右肩を負傷。5日目の旭秀鵬戦では右腕が全く使えないまま寄り切られ、苦悶の表情を浮かべる。翌6日目の栃煌山戦は不戦敗、右鎖骨骨折(全治不明)により自身初土俵以降初めての休場となった。1月18日には以前から傷めている左膝の内視鏡手術を決行。次の3月場所は、自身初の大関角番となる。3月場所も膝の状態は完全ではなく、中日までに平幕相手に3敗を喫する苦しい場所となったが、12日目に鶴竜を下しなんとかカド番を脱出。しかしその後は3連敗で8勝7敗で取り終えた。5月場所は膝の状態が3月場所よりも悪く、初日から2連勝した後、格下相手に踏ん張りが効かず6連敗。続けて2横綱にも敗れ、10日目にして次場所での2度目のカド番が決まった。その後も連敗は続き1968年秋場所の豊山以来、48年ぶりの大関1場所10連敗を記録してしまった。本人は不名誉な記録を「いいんじゃない」と、やや投げやりな口調で受け止めていた。だがさらに翌日、大関琴奨菊にも敗れ大関としては69年ぶりとなる同一場所での11連敗を喫した。これは年6場所15日制定着後では初めての事態となった(不戦敗、休場を含まない場合)。15日制以前でも相撲協会広報部によると年2場所の47年11月場所に11日制で11戦全敗した大関名寄岩の例のみとのこと。途中休場ありの一場所15日制の記録では年3場所の51年に春場所で途中3日間の休場を挟んで12連敗(12敗3休み不戦敗あり)した汐ノ海に次ぐ記録となった。この日は「頑張ります」と繰り返すのが精いっぱいで「今場所は長く感じるか」と聞かれると「そうですね」と肩を落としていた。そして11連敗の翌日。大関豪栄道に押し出され不戦敗、休場無しで汐ノ海と1946年11月場所~47年11月場所の名寄岩(休場あり)の2人の大関連敗歴代ワースト記録に並んでしまった。この日はショックの色を隠せずに付け人が両手でバツをつくり取材を断った。連敗のまま迎えた千秋楽。関脇琴勇輝に押し出しで敗れ皆勤で大関歴代ワースト記録を更新する13連敗を記録してしまった。さらに大関の一場所皆勤13敗は2009年3月場所の千代大海に並ぶ歴代ワーストタイ記録になった。照ノ富士は記者に「強い大関と言われたこともあるが、これで弱い大関とも言われる。ずっと負けていたら楽しくない」「こういう時でも応援してくれる人がいるのはうれしい。いい時もくる。来場所を見てください」と語っていた。2度目の角番で迎えた翌7月場所は初日に白星を記録し先場所からの連敗を止め、その後4連勝を記録。しかし、その後3連敗を喫した。その後、8日目に豪栄道に勝利し連敗を止めるが翌日から再び連敗。11日目から白鵬に勝利するなど連勝するも再び13日目から連敗。14日目の敗戦後「しょうがない。できることをやって、できないものはいい」と現状を受け入れ、千秋楽に先場所敗れており、ここまで7勝7敗の同じく勝ち越しをかける魁聖との対戦を伝えられると「大丈夫」と自分に言い聞かせていた。そして、迎えた千秋楽で魁聖に小股掬いで勝利し、大関の地位を保持した。照ノ富士は「今場所は長かった。来場所はけがを治してまた」と安堵の様子だった。9月場所は初日に嘉風に黒星。その後連勝し、隠岐の海に敗れたあと再び連勝と4勝2敗で白星が先行していた。しかしその後7日目から長期連敗し、この場所で幕内全勝優勝を果たした豪栄道等に何もできずに負けるなど精彩を欠く相撲が目立ち、12日目に碧山に押し出しで敗れ6連敗で負け越しとなった。これにより来場所は自身3度目の角番となる。また取組後、過去10戦全勝の碧山に何もできず負けたことについて「弱くなってるな、俺」と語り寂しげな笑みを浮かべていた。さらにそのまま連敗を続け、横綱鶴竜に寄り切りで敗れ8連敗で10敗目を喫し、結局千秋楽も立ち合い変化するも寄り切りで稀勢の里に敗れて9連敗の4勝11敗で場所を終えた。11月場所は2016年内で3度目の角番となるが、同一年内に角番を3場所経験するのは、2005年の魁皇と千代大海以来。照ノ富士は2015年2月の健康診断時の公式測定で180kgに達しており、モンゴル人力士としてはかなり重い部類に入る体重を活かした寄りが得意手である。基本的に正攻法の寄りに徹し、右四つに組み止めて左上手を引き付けて胸を合わせる相撲が照ノ富士の型でもある。一方で上手投げも得意としており、慎重な相撲ぶりから引き技にも強い。一方で裏を返せば引っ張り込む癖や立合いが甘いという弱点を持っているとも言える。相手十分の体勢を許しておきながら、腰の重さで凌ぎ、そのうちに自分の体勢にもっていくのが巧い。2014年1月場所後に照ノ富士が「下がってからという感じで、自分から一気に攻める相撲が全然なかった」と振り返るように積極性を欠く部分もある。右四つからの寄りのほか、極め出しも得意としており、2015年3月場所の豊ノ島戦などで極め出しで決めている。『大相撲ジャーナル』2015年4月号55頁では相撲ジャーナリストの荒井太郎が照ノ富士について「意外とテクニシャンですね。相手の右かいなを手繰って左上手を取ったり、左上手を引きつけながら右のかいなを返して寄る相撲も強烈ですし」と評している。しかし大関昇進後は大きい相撲を取ることや攻めの遅さなどから鎖骨、膝などの怪我に襲われており、高崎もそれを指摘している。2016年7月場所終了現在 2016年7月場所終了現在(カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数、太文字は2016年7月場所終了現在、現役力士)
出典:wikipedia
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