河原 純一(かわはら じゅんいち、1973年1月22日 - )は、神奈川県川崎市中原区出身の元プロ野球選手(投手)。神奈川県立川崎北高等学校3年時に出場した神奈川県大会準々決勝(対神奈川県立厚木高等学校戦)で、後に横浜へ入団する川村丈夫と延長16回の投手戦の末に投げ勝っている。卒業後は駒澤大学へ進学し同期生に本間満、東都大学野球連盟の記録(当時)となる3度の最高殊勲選手に輝くなど、エースとして活躍した。リーグ通算53試合に登板し23勝10敗、防御率1.66、258奪三振。最優秀投手に2度、ベストナインに2度選ばれた。また2年次の第21回日米大学野球から3年連続で日本代表に選出され、全日本大学野球選手権大会を制した4年次には全日本アマチュア野球王座決定戦で社会人王者の日本通運を破って最高殊勲選手に選ばれ、日米大学野球でも最優秀投手となった。1994年のプロ野球ドラフト会議において、読売ジャイアンツから1位指名(逆指名)を受け入団。福岡ダイエーホークスとの大争奪戦の末、交渉権を獲得しての入団だった。6月3日の対広島東洋カープ9回戦(東京ドーム)でのプロ初登板・初先発に際しては、野村謙二郎に初回先頭打者本塁打を浴びるなどした。この年は右肘側副靱帯断裂で離脱した桑田真澄をカバーする形で先発陣に入って新人ながら8勝、そのうち対阪神タイガース戦で3試合連続完封を含む6勝をあげる。翌、開幕からローテーションに入ったが5月末に右肘痛で一軍登録を抹消されるとその後一軍復帰できず、チームは優勝したが自身はシーズン未勝利に終わった。に、主に中継ぎで復帰し6月5日の対中日ドラゴンズ戦で616日ぶりに勝利し、11日の対横浜ベイスターズ戦ではプロ初セーブを挙げた。しかしに登板過多から肘を手術しこの年は一軍・二軍の登板が無く全休に終わる。長いリハビリテーションを経て8月8日の対広島戦に先発登板し勝利。先発での勝利は1995年9月23日の対阪神戦以来で1461日ぶりであった。しかし好調は長続きできずわずか2勝に終わる。、シーズン途中から先発入りし、3試合完封勝利を挙げるなどの成績を挙げていたが、この年も途中で故障離脱してしまい河原が在籍中2度チームは優勝しているが一度も日本シリーズに登板できなかった。、5月末からローテーションに加わりルーキーイヤー以来となる12試合に先発登板するが結果が残せず終盤にリリーフに廻り、この間に2セーブを記録し翌年のストッパー転向の足掛かりとなる。から原辰徳が監督に就任すると抑え投手に抜擢され、7月は9試合に登板して1勝7セーブ・防御率0.00を記録するなど、28セーブを記録。巨人のリーグ優勝・日本一に大きく貢献した。オールスターゲームにファン投票で選出され、日本シリーズにも初登板を果たし第4戦では胴上げ投手になった。しかし、当時の投球フォームが2段モーション(後に禁止となった)だったためか、走者を出した時の投球が極端に安定しない弱点が見え隠れしており、翌年以降は救援失敗を繰り返す。3月27日に、後藤光貴との交換トレードで西武ライオンズへ移籍。同年4月9日の対福岡ソフトバンクホークス戦(福岡ドーム)で移籍後初先発初勝利を挙げると、6月11日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)で勝利投手となったが、その後は自身も調子を崩して大きく負け越した。シーズン終了直前の対福岡ソフトバンクホークス戦で右膝靭帯を損傷し、オフに手術を受ける。は手術の影響により一軍登板はなかった。は2度先発登板したものの0勝2敗、防御率12.19と不振で、オフに球団から戦力外通告を受けた。その後、同年11月17日に12球団合同トライアウトへ参加するも獲得球団は現れず、12月に浪人を決意。駒澤大学で翌年のトライアウトに向けてトレーニングを行ない、この間に膝の故障を完治させている。10月1日、大学の先輩でもある森繁和と連絡をとって中日ドラゴンズの入団テストを受験し合格。1年ぶりの現役復帰を果たした。5月15日に2年ぶりに昇格。5月24日の対北海道日本ハムファイターズ戦に2番手として登板し1回を0点に抑え、初ホールドを記録。以降は中継ぎとしてチームを支え、7月10日の対広島東洋カープ戦(ナゴヤドーム)で、2005年6月11日以来となる勝利を挙げた。このシーズンは15ホールド・防御率1点台と「復活」と呼ぶに相応しい結果を残した。は調整の遅れなどから7月に一軍入りを果たし、落合博満監督が「アイツ(河原)をずっと待っていたんだ」とコメントするなど期待されたが怪我で再降格。終盤に再昇格するがレギュラーシーズンは4試合の登板にとどまった。ポストシーズン(巨人とのクライマックスシリーズ、ロッテとの日本シリーズ)ではレギュラーシーズンを上回る計5試合に登板した。は30試合に登板し、1勝4敗・防御率2.65の成績だったが、10月19日に球団から戦力外通告を受けていたことが明らかになり、10月29日に球団から正式に発表された。その後も日本シリーズ終了までチームに帯同し、ヤクルトとのクライマックスシリーズとソフトバンクとの日本シリーズ、計3試合でリリーフ登板した。その後12球団合同トライアウトに参加。プロ野球珍プレー・好プレー大賞の2011年度大賞を、9回裏・三塁線のバント処理で三塁へ送球するも無人だったため、三塁悪送球・走者生還しサヨナラ負けになった内容(2011年4月20日、対東京ヤクルトスワローズ戦)に対し、受賞した。2012年2月22日、愛媛マンダリンパイレーツとの入団に合意。3月13日に入団会見が行われた。背番号は70。2013年、2014年とも10試合程度の登板であった。2014年はシーズン中に数度、契約解除(練習生への降格)と再契約を受けている。2015年は肩痛のため、シーズン開始直後の4月9日付で練習生に降格。公式戦への登板がないまま、10月27日に球団を通じて引退を発表した。2015年のシーズン中に愛媛球団主催の小中学生向け「投力向上プロジェクト」でメイン講師を務めた縁で、愛媛球団の薬師神績から「愛媛県内の野球の底辺拡大に手を貸して欲しい」と打診された。1月に、星企画株式会社(薬師神が経営する地元の広告会社)へ入社。「More Baseball Project プロジェクトリーダー」という肩書で、県内の小中学生が怪我をせずに野球を続けられるような取り組みや、協賛企業の募集を始めている。
出典:wikipedia
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