Ta 152は、第二次世界大戦末期にドイツの航空機メーカー フォッケウルフによって製造されたクルト・タンク設計による高高度戦闘機。空冷エンジンを搭載しメッサーシュミット Bf109と並んで主力戦闘機として活躍した フォッケウルフ Fw190に液冷エンジンを搭載し高々度性能を改善させたFw190D-9をさらに発展させた、より本格的な高々度戦闘機であり、「究極のレシプロ戦闘機」と紹介されることもある(詳しくは後述)。ただし開発は遅れ、生産数も少数にとどまり、戦局には寄与しなかった。ある程度量産され実戦にも投入された、全幅14.44mと高いアスペクト比を持った主翼を装備する高々度戦闘機型のH-0、H-1型の他に、11mと従来のFw190と大差のない幅の主翼を持った標準戦闘機型のC型なども開発された。クルト・タンク設計によるFw190はドイツ空軍主力であった液冷エンジン搭載のBf109の補助として開発された空冷エンジン搭載の戦闘機であり、初飛行は1939年6月1日、実戦デビューが1941年8月である。だが、当時のBf109E型が搭載していたDB601Aが離昇出力1075馬力にすぎなかったところ、初期の量産型Fw190A-3では離昇出力1700馬力を発揮するBMW 801Dを装備しており、また設計の優秀さも相まって特に低高度 - 中高度では優れた飛行性能を発揮し、一時期は連合軍機を圧倒した。余裕のある馬力と頑丈な機体は戦闘爆撃機型や突撃機型など様々な発展型を産み、頑丈でスパンの広い降着装置は重量の増加に対応したほか、前線の飛行場での運用も容易であった。まさしくタンクの期待したとおり、Fw190はさながら軍馬の様に各地の戦場で活躍を見、当初の補助戦闘機との枠を越え、ドイツ空軍の第二の主力戦闘機として大いに活躍した。だがFw190には弱点があった。搭載するエンジン、BMW801は、一段二速の過給器を備え高度 5600m-5700mで1440馬力を発揮したが、高度6000-7000mを超えると出力が急激に低下した。これらはデビュー当時には問題にならなかったが、将来的に連合軍の重爆撃機の迎撃やその護衛戦闘機との戦闘を考えると憂慮すべき問題であった。この為タンクは1941年初めから高々度性能改善の必要性を訴え、3つの改善のプランが練られた。一つはBMW 801の性能強化を図ったFw190Bであったが、これは液体亜酸化窒素を使用する出力強化装置GM-1では全く所期の性能が得られず、さりとて排気タービンの早期の実用化は見込み薄と言うことで廃案になった。液冷倒立V型12気筒DB603エンジンを搭載したFw190Cは排気タービンの耐久性・信頼性に難がありさらに操縦性もよくないと言うことでやはり廃案。最終的に液冷倒立V型12気筒Jumo213A-1エンジン(離昇出力1776馬力、高度5800mで1600馬力)を搭載し胴体を若干延長したたFw190D-9「ドーラ Dora」が採用され、1944年8月より量産されることとなった。この型は相当な性能向上を果たし連合軍の新鋭機に十分対抗できるものではあったものの、排気タービンも、与圧キャビンも装備しておらず、本格的な高々度戦闘機とは言えなかった。そこでタンクはさらなる改良型を計画していた。本格的な高々度戦闘機、計画名称Fw190Ra-4こと、Ta-152である。なお、クルト・タンクはこれまでの功績を認められ、機体名に設計者のイニシャルを付与する栄誉を得ている。一説にはDB603エンジンの使用を希望するタンクに空軍側がJumo213使用をもちかける上での取引の結果とも言われる。いずれにせよこの型の機体名はTa-であるが、あくまでもFw190の発展形である。"フラッペ & ローラン"によれば、1942年の秋、先に述べたFw190の性能向上策(短期プログラム)が検討された時、長期プログラムとして、現有の戦闘機の改良ではない、新たな高々度戦闘機の開発も計画されていた。この際メッサーシュミットはMe155Bを提案したが、フォッケウルフはFw190Cで採用が見送られたDB603を搭載した、Fw190の更なる改善型を検討した。計画名称はFw190Ra-4。また、Bf109にDB601、Fw190AにBMW801、Fw190DにJumo213が採用されていたことから、これらと競合しないDB603の採用はエンジンの供給面でも有利と考えられた。だが空軍はJumo213の使用を指示し、1943年5月または8月に計画は承認、Ta152もそれを搭載して「特殊高々度戦闘機」の開発が行われることとなった。"野原 (2009)" によれば、1942年初め頃、タンクはFw190Dをさらに改良した新型機、計画名称Fw190Ra-4を空軍に提案する。また別の文献によれば1942年末頃に空軍から出された要求は新技術を用い全面的に設計を改めた高性能戦闘機、などと言った感じの、漠然としたものであったという。計画は承認され、Ta-153として、メッサーシュミット Me209との競争試作が始まった。しかし1943年5月に競争試作は中止され、戦況を鑑み、つまり連合軍の新型爆撃機に対抗するための高々度迎撃戦闘機が必要であったため、Ta152として、改めて「特殊高々度戦闘機」として開発が行われることとなった。いずれにしても1944年7月頃より既存のFw190を改造し、高々度戦闘機型のH型を優先して試作および飛行テストが始まったが、2機続けて墜落。その後も事故は発生したが開発は進み、1945年1月からは第301戦闘航空団(JG301)にTa152H-1が配備され、実戦テストが開始された。原型機は高度12000m付近でMW50を使用して750km/h、13800m付近でも737km/hの速度を発揮した。なお、"フラッペ & ローラン"によれば、Ta152の最初の型は、A型ではなくB型である。これはFw190A型との混同を避けるためであるとしている。また"野原(2006)"によれば、B型は地上攻撃型としている。なおD型、F型、G型もFw190と混同してしまうため使用されず。さらにC型は将来のDB603搭載機の為に、E型は戦闘偵察機型の為に予約されていた。このような理由でTa152の初の量産機の型式はH型となったのである。また1944年8月、空軍はようやくDB603の使用許可を下し、1944年12月から翌1月にかけにはDB603LまたはLAエンジン(離昇出力2100馬力))を搭載し翼を全幅11mに切り詰めた中高度型のC1型が初飛行を行い、またC11型までが計画され相当数が試作されたが、原型機その他少数機(一説には17機)が生産されたにすぎない。総生産機数は文献により全く異なっており、参考文献に挙げた文献の内でも、終戦までにH-0型20機およびH-1型34機、1945年2月までに各型合計で67機、H-1型が約60機、H型160機ほど、百数十機、H-0が18機、H-1が24機かつ全型合計で67機、少なくとも150機、護衛戦闘機型H-2を含めH型が150機、などとされている。全ての型で、主翼は新規設計である。B/C型では全幅11.0mと、Fw190D-9の10.5mとあまり変わらない幅のものを装備していたが、高々度型のH型では主翼は全幅14.44m、アスペクト比8.87と言うものを採用。またこれまでの戦訓を取り入れ、"フラッペ&ローラン"によれば翼内に増加燃料タンクを装備している(6つ用意されており、5つは通常の燃料用で計400リットル、1つは水メタノール用)。300リットルの増槽を装備すれば、胴体内の595リットルと合わせて航続時間は4時間以上。"『ドイツ空軍全史』"によれば、翼内384リットル、胴体内592リットルで航続距離1550kmである。フラップの動力は従来の電気式から、油圧式とされた。Ta152 H-1では、2段3速過給器を装備したJumo213E(離昇出力1730または1750馬力、または2230馬力(MW50)を装備。これは過給器を1段2速だったものを2段3速と改め高々度性能の改善を図ったもので、離昇出力は1750馬力のままだが、高度9800mにおいての出力は1020馬力から1420馬力へと大きく向上している。その際、新しいエンジン支持架はFw190D-9より77.2cm前方に、新たに新設された。ただしエンジン支持架自体を短縮したため、機首の延長は61cmにとどまっている。この機首延長は主として、機首にMG151およびモーターカノンとしてのMK108などの30mm機関砲の装備のために執られた措置である。これに伴い主翼の取り付け位置も35cm(主桁取り付け位置で)前方に移動されている。また液冷エンジンはラジエーターを要するため、一般に重量は増加する。機体の重量増(全備状態でFw190A-8の4750kgに対して5217kg)に対応し、主脚の強化がなされ、タイヤの直径も740mmに増加、電動式だったものが油圧式に改められ、主翼の設計変更に伴いトレッドも3.5mから3.954mに拡大された。また垂直尾翼はFw190D-9とほぼ同じ面積ながら、内部設計を改めている。また木製のものも製作されており、実際の機体に装備されていた可能性もある。キャノピー正面の防弾ガラスの厚さは50mmから70に、パイロット頭部背面の防弾鋼板も12mmから20mmに増厚された。Jumo213Eは高度10600mにおいても1260馬力を発揮し、その高度でも操縦になんら問題はなかった。最高速度は高度9000mで750km/h。それも、ドイツ製の必ずしも品質が良いとは言えない87オクタンの燃料を使用してである。また2種の出力増強装置を装備し、MW50水メタノール出力増加装置用タンクは70リットル、28分分を用意、GM-1出力増加装置用亜酸化窒素は60秒ないし150秒分搭載、使用時にはエンジン出力は410馬力向上する、または85リットルを搭載し高度8000 - 9000mで200馬力の向上。MW50を使用すれば、高度12500mで765km/hを発揮できた。なお武装は、MK108 30mm モーターカノン (弾数90発)と、両翼の内翼にMG151 20mm 機関砲が計2門(弾数各150発)である。なお、Fw190系戦闘機の主翼内翼武装は主翼のほぼ付け根に搭載されており、プロペラ圏内であるため、プロペラ同調式となっている。また、H型は"野原 (2009)"など多くの文献では与圧式キャビンを持っており、高度8000mで差圧を0.23に維持できる能力があったとされるが、"フラッペ&ローラン (1999)"では与圧室は無いとされている(編注:これは開発途中の機体の事なのかもしれない)。なお与圧キャビンの搭載により気密を確保する必要から発射孔が廃止されたため、従来より活用されていた、専用ピストルによる信号弾や照明弾の発射が行えなくなった。このため本機では胴体後部内にAZA10と言う4発の信号弾を装填しておける発射機を、2基備えていた。これはMe262にも搭載されていたという。主として既に実用化され配備されていたジェット戦闘機、メッサーシュミット Me262の離着陸時の護衛に用いられたと言う説が一般的である。ただしこのような運用であれば結果的にはわざわざ高々度戦闘機としてTa152を開発せずともFw190D型で十分だったのではないかとの指摘もある。また、ヨーゼフ・カイル上級曹長は、 1945年2月21日のB-17撃墜を皮切りに、P-51、P-47各1機、Yak-9を2機撃墜し、Ta152で唯一のエースとなった。他にも、僅かながら実戦に参加した機が、終戦までに戦果を記録している。また、敵機に撃墜されたTa152は存在しないとする文献もあるが、1944年7月にフランス人エースのピエール・クロステルマンの操縦するスピットファイアがガーン上空で撃墜したともいう。なお有名な逸話として、設計者のクルト・タンク自身による報告談ではあるが、次の様なものがある。終戦間際、ベルリン南部のコットブスでの会議に出席するため、Ta152を操縦していたクルト・タンクは、2機のP-51に遭遇した。襲いかかられそうになったが、水メタノール噴射装置を作動させると、完全に振り切った。田中義夫(他)はこれはH-0型だったとしている。長谷川 (2007) では、タンクは自身はあくまで民間人であるので戦闘はしない、との信条から逃走を選んだとしているが、『栄光のドイツ空軍』では、タンクが自身を民間人と認識していると同時に、そもそもこの機体は武装はされていたものの実弾を搭載していなかったとされている。日本においては、本機は時折「究極のレシプロ戦闘機」と呼ばれることがあり、21世紀においてもいまだ散見される。確かにカタログスペックとしては高い物があるものの、何をもって究極とするかの根拠が明確ではない。この文句には「究極の成層圏戦闘機」、「世界最強のレシプロ戦闘機」、と言ったバリエーションもある。なお矢吹ら (2005) と 河野 (2009)は一般向けの三次資料、渡辺 (1999) は二次資料である。そうでなくとも本機はそのカタログスペック故か一部非常に高評価を与える文献が有る。鈴木五郎 (1975または2006) 第8章では同世代の列強戦闘機のカタログスペックを並べ「世界最強の戦闘機」、「第2次大戦最強の戦闘機」などとしており、野原 (2009) p.77でも当時の列強の主力戦闘機とカタログデータを並べ比較しており、野原 (1990) では、レシプロ戦闘機の極限とも言える高性能機である、としている。反面歴史群像編集部 (2010) ではこの文句に触れながらも、唯一の量産型であるH型では発動機の不調が多発しておりMW 50も使用できず、(機械・兵器にはつきものの)初期不良も頻発し稼働率は低迷、中低高度での飛行性能は旋回性能以外はFw190D-9に劣るものであったと言及している。また同書ではドイツ空軍は1945年3月末以降、本機の生産を打ち切り、Fw190D-12の量産を決定したともしている。なおFw190D-12のエンジンはJumo 213Fである。RAE空力テスト飛行隊主席パイロットであるエリック・ブラウンは20種近いドイツ機を操縦した経験を持つが、彼はその著書『Wings of Luftwaffe』の中でTa152 H-1を操縦した時のことを「高度10700m以上では速度・上昇力・運動性においてスピットファイアMk.XIXを凌駕するが、横転性能はFw190Aより低下しており、また操縦に力が必要で安定性もよくないため操縦に疲れた。」と述懐している。戦後、アメリカがイギリス経由で入手したTa 152の1機(H-0)が、スミソニアン博物館のポール・ガーバー施設倉庫に保管されている。"※ H-1型の諸元は特記無き限り、"フラッペ&ローラン (1999)" p.451による。数値は文献によって若干の違いが見られる。C-1/R11については同様に"田中ら"の文献に準拠する。なお"田中ら"によればH-1の全長も10.82mであり、"野原 (2006)"でも10.810mであるため、正確な値は不明。" "227492
出典:wikipedia
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