ボーイング 377 ストラトクルーザー(Boeing 377 Stratocruiser)は、アメリカ合衆国のボーイング社が開発した大型プロペラ旅客機。ボーイング社ではB-29爆撃機を原型としてC-97ストラトフレイター輸送機が開発され、第二次世界大戦中の1944年11月9日に初飛行している。C-97ストラトフレイターはB-29から主翼や構造の設計は流用しているが尾翼面積や胴体は拡大され、エンジンもB-50・C-97と同じプラット・アンド・ホイットニー R-4360エンジンに更新されている。ボーイング377はこのC-97を基に大型・長距離旅客機として開発され、大戦後の1947年7月8日に初飛行し、パンアメリカン航空のニューヨーク - ロンドン線に就航したほか、太平洋横断路線をはじめとする主要長距離路線に投入された。「最後の大型プロペラ旅客機」という呼称はレシプロエンジン機でダグラスDC-7の派生型DC-7Cなどにも使われるが、DC-7CはDC-4(C-54)の改良型で基本設計は変わらず、ボーイング377ストラトクルーザーはB-29爆撃機派生でより進んだ技術と設計で航空機用大型レシプロエンジンの最終進化とされるR-4360エンジンを搭載した。レシプロエンジン旅客機のスピードアップ時代に短い期間、長距離用旅客機の主流としてダグラスDC-7、ロッキード・スーパーコンステレーションと共にエンジン選択は錯綜が続き、次代ジェット機のボーイング707、ダグラスDC-8以降現在に至るまで燃料消費と航続距離でエンジンの錯誤は続いている。「最後の大型プロペラ旅客機」の名にふさわしく、その装備は後に語り草になるほど豪華なものであった。国際線仕様の場合、2階構造の客室内にはベッド(折畳式寝台)や男女別の洗面室を、また、1階客室にはバー用のギャレーやソファを併設した豪華なラウンジを装備することができ全社この仕様を採って、乗客は優雅な空の旅を楽しむことができた。このような特徴から「空飛ぶホテル」との異名も持つ。映画評論家の淀川長治が1951年にアカデミー賞の授賞式に、映画監督の黒澤明の代理として出席するためアメリカを訪れた際に、パンアメリカン航空のボーイング377に羽田 - ホノルル間で搭乗し、ベッドで就寝しラウンジで同乗した映画監督のクラレンス・ブラウンらと歓談した思い出がその自伝に綴られている。また、1954年2月1日に、ハリウッド女優のマリリン・モンローと元大リーガーのジョー・ディマジオが新婚旅行で日本を訪れた際には、パンアメリカン航空の寝台つきのボーイング377が使用された。軍用の「C-97」を民間仕様「377ストラトクルーザー」として発表し注文受付を開始した際には1階客室を寝台か座席の大量輸送機として同時に売り込みを開始したが当時は運用できる空港が少なくキャパシティを持て余す事情から初期は専ら大洋を渡る長々距離航路専用機材として使用し、機内レイアウトをファースト・クラスのモノクラスで運行していた。ベルリン大空輸の経験からMATSなどへ準同型の軍用C-97型機量産が進められ民間型の377型の販売は56機の生産にとどまった。377型は当時の民間用旅客機々体では最大級、長距離用旅客機仕様からオペレーターは限られ航空機の進化同様に空港のインフラ整備は発展途上で就航できる空港も限定された。幹線定期便から外された以降は機体のサイズが災いし運用できる空港が限られDC-4やDC-6のようにローカル線の運航に廻されることもなく、1960年代初頭には中古を引き取ったトランスオーシャン航空を除き旅客定期便から退役、南アメリカで数機が旅客チャーター便、不定期便に使用された以外はボーイング707の下取りで引き取られ、モハーヴェ砂漠に留め置かれ後述の派生型貨物機へ改造されるか解体されたため、旅客機当時の状態で現存する機体は皆無である。ボーイング377は基本設計がC-97「ストラトフレイター」と同じであった為、アメリカのによりアポロ計画のためのサターンロケット部品の空輸に従事する目的で、同機の発展型として開発された「プレグナントグッピー(妊娠したグッピー、377PG型)」と「スーパーグッピー(377SG型)」、「(377MG型)」への改装のベース機としても使用された。これらの機体への改装には、主にパンアメリカン航空へ納入された377-10-26型の中古機が用いられ、特にスーパーグッピーとミニグッピーは「タービン」のサブネームを持つターボプロップエンジンへの換装機も存在し、このうちスーパーグッピー・タービンはその後エアバス・インダストリー社でも、後継のエアバス ベルーガへの更新まで使用されていた。グッピーシリーズ以外では、1960年代にイスラエル空軍がボーイング377を改装した輸送機を導入している。当時イスラエル空軍は就役間もないC-130 ハーキュリーズの導入を目指したが、機体価格が余りにも高価であり、アメリカ政府の輸出承認も得られなかった事から、1964年に自国のイスラエル・エアロスペース・インダストリーズ社の提案を受け入れる形で、ボーイング377を大幅に改造した機体を377M の名称で導入する事とした。377MはC-97と同形状のテールセクションと後部貨物ドアを有した形状を基礎としており、3機が更にに類似したスイングテール型貨物ドアが装備された。2機は翼下にプローブアンドドローグ方式給油装置を装着された空中給油機として、更に他の2機は電子諜報(ELINT)や電子攻撃(ECM)を主任務とする電子戦機としての改装と運用が行われた。後に4機がKC-97Gと同様のフライングブーム方式給油装置に改装されて追加導入された。ボーイング377型機は事故率も高く、引き起こした航空事故は、ローンチ・カスタマーであるパンアメリカン航空の運航中に起きた下記の3件が代表的、いずれも巡航中の事故であった。エンジンやプロペラなどの構造、材質上トラブルが原因で起きた事故とされ、他社もオーバーランといった操縦ミスによる事故、損失が相次いだ。運用面では離着陸で長い滑走距離、整備コストに当初から高価な機体価格と遅い納期は克服出来ず、相次ぐ事故で信頼性は地に落ちボーイング377型機販売に大きな悪影響を与える結果となりスカンジナビア航空は発注を取り消している。ユナイテッド航空 は「アメリカ本土ーハワイ州便」用中心に据えて導入したが1951年9月12日訓練飛行中サンフランシスコ湾へ墜落する事故が発生、運用面は短い整備サイクルから高コストで就航できる路線が限られ1954年には退役し全てを英国海外航空が引き取った。増産はコメット連続墜落事故でフリート不足に陥った 英国海外航空が原契約にスカンジナビア航空キャンセル分を引き取りさらに追加した販売に留まった。日本航空は、ボーイング377を採用することはなかった。それまでDC-4を使用していた流れから、世界の航空各社が広く使用しているライバルのダグラスDC-6およびDC-7を導入し、のちに国内線へ転用した。パンアメリカン航空やノースウエスト航空が1940年代後半から日本への乗り入れに使用した。その後1950年代後半に両社がボーイング707やダグラスDC-8を相次いで日本路線に導入したため、1960年代初頭にボーイング377は日本の空から姿を消した。オークランドベースのトランスオーシャン航空(TAL)()が1959-1960年に占領下の沖縄県那覇空港に乗り入れていたが短期で運行を停止した。1959年8月5日羽田空港でパンアメリカン航空機(c/n15957、登録番号N90941、1949年3月初飛行、旧アメリカン・オーバーシーズ航空所属)が着陸に失敗、ランディング・ギアが正常に動作せず胴体着陸状態になった。犠牲者は無かったが機体残骸は空港内で移動後に管轄行政機関が検証調査後に解体処分されたが作業進捗は遅く完了まで1年以上の時間を費やした。
出典:wikipedia
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