内藤 國雄(ないとう くにお、1939年11月15日-)は、将棋棋士。棋士番号77。兵庫県神戸市出身。藤内金吾八段門下。演歌歌手、詰将棋作家としても活動。レコードジャケット、音楽配信での氏名の表記は「内藤国雄」。棋聖、王位のタイトルを通算4期(各2期)獲得。竜王戦1組通算3期。順位戦A級通算17期。内藤の師匠の藤内金吾(ふじうち きんご)は阪田三吉の弟子であるので、内藤は阪田の孫弟子である。内藤は、これを誇りにしており、ことあるごとに「阪田先生の孫弟子」と語る。当初内藤は、藤内の将棋道場の看板に横書きされた「藤内」(ふじうち)の文字を逆向きに読み、同じ苗字の人がやっている道場だと誤解。これが藤内の道場に通い始めるきっかけとなった。ちなみに、後々になって内藤は、師匠と姓が同字異音の藤内忍(とうない しのぶ)という弟子を持つことになる(藤内忍は、その後、奨励会三段リーグで年齢制限を迎え、指導棋士となる)。藤内の弟子で、棋士は内藤を含め8名。藤内一門は関西将棋界に一大勢力を築いた。藤内の将棋道場が神戸市の三宮にあったため、一門は「神戸組」と呼ばれた。藤内の死後、内藤は一門の総帥的存在となり、「神戸組のドン」と呼ばれるようになった。ただし、有望な少年が関西に現れても自身の弟子にせず、弟分に委ねることがほとんどであった。内藤は棋士となってから2013年に至るまで、前述藤内忍を含め僅か4人しか弟子を取っていないものの、そのうち神吉宏充及び三枚堂達也をプロの棋士(四段以上)に育て上げた。尚、神吉は2005年9月に吉田正和を弟子に取り、その吉田は2008年10月に棋士となったため、内藤は現役中に孫弟子を棋士に育て上げるという、非常に珍しい“快挙”を成し遂げた、内藤と吉田は2012年4月17日の公式戦で対局し、千日手の末に吉田が勝ち、内藤は更に珍しい“孫弟子からの恩返し”を受ける結果となった。2005年6月から2010年5月まで、日本将棋連盟関西本部長を務めた。余技である演歌歌手としては、1976年から1977年にかけて「おゆき」が100万枚以上(CBS・ソニー、初発SOLB-409・、品番・価格改定06SH-606)を売り上げる大ヒットとなった(レコードのジャケットや音楽ダウンロードサイトでの氏名は「内藤国雄」となっている)。この曲は後に演歌界の第一人者となる弦哲也にとって作曲家として初の作品でもある。当時「棋士の中で最も歌が上手く、歌手の中で最も将棋が強い人物」と称された。若きころの内藤のカラオケをたまたまバーで聴き、その歌声にすっかり惚れ込んだ「流し」のボスが、「月10万円出すから(流しの歌い手の)プロになれ」と口説いた逸話もある。また、クイズ集の「最も将棋が強い芸能人」という問いで答えが「内藤国雄」となっているものがあった。内藤はおゆきの他にも「ああ雪列車」や「男の酒場」などをリリースしている。2010年9月21日、「NHK歌謡コンサート」に出演、「おゆき」を熱唱する。また、歌番組への出演だけに留まらず、テレビドラマ(ふたりっ子)、CM(のほほん茶)などにも出演した。藤内門下に入ったときは13歳にしてようやく藤内よりアマ13級とみなされるなど将棋指しとしては遅咲きであったが、猛勉強の末1年足らずで初段格の実力をつけ、奨励会では「西の内藤」と誉れ高く1958年10月に18歳で瞬く間にプロ入りを果たす。順位戦でも勝ち進み、プロ8年目にしてA級八段となる。以降、A級とB級1組の間を3度往復する。1964年度の最強者決定戦で棋戦初優勝。同棋戦では、1966、1970年度にも優勝する。1965年度の東西対抗勝継戦では、同棋戦史上1位の15連勝の成績で優勝する。初のタイトル戦登場は、1968年度の王将戦七番勝負である。しかし、大山康晴三冠(王将・名人・王位)に力及ばず、0勝4敗のストレートで敗れる。2度目のタイトル戦は、1969年度後期の棋聖戦(第15期棋聖戦)五番勝負・中原誠棋聖との戦いであった。後手番での2局で得意の横歩取り空中戦法を披露して勝利するなどし、初タイトルとなる棋聖位に就く。この年度は、NHK杯戦でも優勝する。1971年度、日本将棋連盟杯戦で優勝する。1972年度の第13期王位戦七番勝負における大山康晴王位との戦いでは、第3局と第5局で大山得意の振り飛車に対し「鳥刺し」戦法含みの序盤戦術を見せて、いずれも勝利。これを含み4-1で奪取し、大山の王位連覇を12で止める。1973年度後期の棋聖戦(第23期棋聖戦)では、米長邦雄を相手に2連敗から3連勝でタイトル奪取。タイトル通算3期の規定により、奪取を決めた日付(1974年2月4日)をもって九段に昇段した。この規定で九段昇段したのは、内藤が初めてである。ちなみに、米長との対戦は、両者の名の読みが同じであることから「クニオ対決」と呼ばれたり、駄洒落で「くにをあげての一局」と言われたりした。同年度は日本将棋連盟杯戦で、2度目の優勝もし、第1回将棋大賞の技能賞を受賞した。1974-1981年度は、タイトル獲得がないものの、1974年度に第1回棋王戦(タイトル戦昇格の前年)で優勝、1977年度には名将戦で優勝、1980年度には第3回オールスター勝ち抜き戦で7連勝(5勝以上は優勝扱い)をする。4度目のタイトル獲得を果たしたのは、1982年度の王位戦であった。中原王位の先手番の2局で矢倉を受けて立って勝つなどして、王位を奪取。8年半ぶりのタイトル獲得となった。同年度は、王座戦でも優勝する活躍もあり、将棋大賞の技能賞(2度目)を受賞した。なお、王座戦は翌年にタイトル戦に昇格したが、防衛に失敗し、タイトルとしての王座を獲得するチャンスを生かせなかった。1983、1984年度の名将戦では連続優勝し、通算優勝回数を3とする。以降、タイトル戦登場と優勝はない。以上のように、内藤の棋歴には優勝は多いものの、5回のタイトル防衛戦ですべて防衛に失敗しているため、タイトルの獲得数が多くない。また、これほどの棋歴にもかかわらず名人戦七番勝負への登場が一度もない。第56期(1997年度)順位戦B級1組で成績が振るわず、4勝8敗に終わる。その最終局(8敗目)の相手は丸山忠久であり、内藤が負けたことによって丸山は史上初の「B級1組12戦全勝」の記録を作った。このとき内藤と有吉道夫が同時にB級2組へ降級したことは、世代交代の象徴と見る向きもあった。しかし、内藤は翌期のB級2組順位戦で、最終局を残して9戦全勝とし、その時点でB級1組への即復帰を決める(最終局は負け)。しかし、その頃にNHKラジオ第1放送に出演した際、「もう1敗しても昇級できたんですよ」と述べ、巡り合せの悪さをコメントしている。第64期(2005年度)順位戦B級2組で、最終局を残して6勝3敗とし、自力昇級の可能性を残す。最終局に勝てば順位戦昇級の最年長記録(66歳。従来の記録は花村元司の60歳)を達成するところだったが、田中寅彦に逆転負けを喫し、昇級を逃した。2000年9月、史上5人目となる公式戦1000勝(特別将棋栄誉賞)を達成。そして、2009年1月26日には、史上6人目となる公式戦1100勝を達成している。ちなみに、1000勝が「5人目」、1100勝が「6人目」になっているが、これは、その間に谷川浩司に勝数を追い越されたからである。なお、名人戦七番勝負出場歴が無い棋士としてはいずれも史上初であった。2010年5月24日、有吉道夫の引退に伴い、現役最年長棋士となる。(最古参は加藤一二三であるが、出生日は内藤の方が2ヶ月ほど早い)2014年3月11日、第72期順位戦C級2組で牧野光則に勝利することにより、3勝7敗で降級点を回避し、第73期は、同じ昭和14年度生まれの加藤一二三と並んで、降級点なしの状態でC級2組に在籍することになった。この時点で、内藤が順位戦を全うすれば丸田祐三が持つ現役最年長記録(77歳0か月)を更新する(第73期から3期連続して降級点がついても、内藤は77歳4か月、加藤は77歳2か月まで現役を続けることができる)ことが確定していたが、2015年1月、内藤は「腰痛と膝痛などで長時間の対局が難しくなってきたことと、私の棋風が(コンピュータ全盛の)現代の将棋と合わなくなってきた」ことなどを理由に、2014年度の順位戦リーグが終了する3月末で現役を引退することを表明した。そして迎えた2015年3月12日、加藤一二三(同日時点で1136敗)・有吉道夫(2010年5月24日の引退時点で1002敗)に続く史上3人目となる、公式戦通算1000敗目を喫した第28期竜王戦6組昇級者決定戦における対中田功戦を最後の対局として、引退を正式に表明(登録上の引退は3月31日付)。同年度には同じ藤内門下の淡路仁茂もフリークラス規定により引退したことで、藤内門下の棋士8人は全員退役もしくは物故となった。内藤と有吉は長年関西のライバルとしてしのぎを削った間柄とされ、事実、両者が現役棋士であった約51年間で、93局もの公式戦を対局し、内藤49勝・有吉44勝であった。引退直後の2015年3月20日に、関西将棋会館において記者会見を開いた際にも、内藤自身が有吉をライバル視していた旨を述懐し、「有吉が対局において顔を紅潮させ、闘志をあらわにすることで、自身も闘志をかきたてられたこと。」「現在の自分があるのは有吉のおかげである。」として、有吉に対する感謝の趣旨を述べた。尚、有吉が引退後も、非公式戦ではあるものの、2012年1月2日にNHK・Eテレで放送された「新春お好み将棋対局 ドリームマッチ2012 東西巨匠ライバル対決」においても、両者の対局が行われた(結果は有吉勝ち)。棋風は伸びやかで、居飛車、振り飛車という一くくりの言葉だけでは表せないほど様々な戦法をこなし、敬愛していた原田泰夫の命名による「自在流」と呼ばれていた。その自由奔放な戦術・棋風はタイトル戦の大舞台でも披露され、かつ、実績を挙げた。特に、「空中戦法」の名称で知られる「横歩取り3三角戦法」は、将棋大賞で1994年度から新設の「升田幸三賞」の第1回受賞対象となり、また、後に流行する「横歩取り8五飛」にも影響を与えた。また人と同じ将棋を指す事や、いつも同じ図面が新聞に載るのが嫌だったと言う内藤は、1969年頃からただ一人(本人談)「横歩を取らせて」指す作戦を採用しており、1969年の第19回NHK杯テレビ将棋トーナメント決勝戦の将棋が得意の「空中戦」のはしりであると言う。詰将棋作家としても活動しており、本人曰く「詰将棋は実戦の終盤から発生したものだが、それだけで十分楽しめる小さな楽園のようなものだと思っている」という感想を述べている。また、ストーリーやメロディがある点で歌とも相通ずるものがあるとも答えている。発表作品は数千以上に上っており、緻密な作風が売りである。代表作に「玉方(ぎょくかた)実戦初形」、「攻方(せめかた)実戦初形」、「ベン・ハー」がある。12歳で、「級」がつかないほど将棋が弱かったとき、江戸時代の棋士・伊藤看寿が著した詰将棋集「将棋図巧」(全100題)と出会う。そして、その第1番(第1題)を見て、「こんなにすごいのがあったのか」と驚く。それが将棋の道に進むきっかけになった。しかし、第97番の玉方実戦初形詰将棋については、「(詰将棋の)神様の作品にしてはレベルが落ちる」と思ったという。その第97番とは、20枚の完全な実戦初形ではなく、6枚の歩(4三-9三の歩)がないものであった。そこで、奨励会時代に検討してみるが、「20枚は無理そうだ」と断念する。それからだいぶ経って九段まで上りつめた後、「一度挑戦してみようか」と思い、1981年に玉方の20枚の駒全てが実戦初形の詰将棋を完成させる。しかし、これは、内藤本人によれば「それほど大変なことではなかった」らしい。次に、1990年代後半に「攻方実戦初形」の詰将棋の創作に取り組むことになるが、上述の玉方実戦初形とは大違いで、詰将棋の作品としてのルールである「全ての駒に意味を持たせる」ことは困難を極めた。いったんできたと思えば不詰めで作り直し、あるいは、余詰めを発見して作り直しという試行錯誤の連続で、延べ500時間を要したという。あきらめかけていたある日、‘ひらめき’があり、ついに攻方実戦初形詰将棋は完成する。できあがった作品は、73手詰めであった。詰め手順中、攻め方の自陣にある全ての駒に意味を持たせるため、相手玉は、盤上で自陣近くの左から右へ大きく移動する。左右2枚の香車も、それがなければ詰まないということで役割を果たす。7九の銀は、だいぶ後になってその場所に角を引く空間を作るための邪魔駒として、2手をかけて消去される。飛車を成り込んで角の開き王手をするときには、後でその竜を横に転換して王手するときに歩の中合いという受けの妙手を許さない場所へ成り込む。これらのように、単に実戦初形ということだけではなく、詰将棋としての面白みもある作品として仕上がった。この「攻方実戦初形」で、1998年度(表彰年は1999年)の看寿賞特別賞を受賞した。ちなみに内藤本人の感想は、「長編詰将棋の作成に必要なのは、体力、少しの才能、そして、幸運」であった。2132戦 1132勝1000敗 勝率 0.5310
出典:wikipedia
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