豊田 有恒(とよた ありつね、1938年5月25日 - )は、日本の作家。SF作家、推理作家、翻訳家、脚本家、評論家。本名の表記は同一だが、豊田の読みが「とよだ」と濁る。ただし、姓に「とよだ」とルビがふられた著作もある。日本SF作家クラブ会員。群馬県前橋市の医家の生まれ。父親は京都帝国大学医学部出身であったが、在学中は短歌会で若山牧水と交際があり、卒業後は『創作』誌に小説を発表し、開業医になってからは自宅に高浜虚子を逗留させるなど、文学に理解のある人物だったという。こうした家庭環境の中で、有恒も群馬大学教育学部附属小学校在学中から父の蔵書を読み耽り、俳句や講談や落語に熱中していた。のちにSF作家仲間になる高斎正は小学校・中学校の同級生。中学時代は『読売新聞』の作文コンテストで群馬県下2位に入賞。中学卒業後に上京し、武蔵高等学校に進む。中学時代の同級生には高木仁三郎と堤富男がおり、仲が良かったという。高校時代は同校の寮に住み、演劇部に関係していた。校内の札付きの不良生徒とばかり交際して問題も起こしていたが、優等生であるため免罪されたという。高校2年のとき、医師だった兄が脊髄腫瘍でギプスベッドに入ったきりになった上、父の急死に遭い、家業を継ぐ必要に迫られて医学部進学を決める。1957年、現役で東京大学理科二類(医学科進学課程を含む。当時、理科三類は存在しなかった)に合格したが、東大に悪印象を抱いたために慶應義塾大学医学部に進学。しかし入学直後に兄が快復したため家業を継ぐ義務から解放され、高校時代の猛勉強の反動で麻雀やハワイアンバンド等に熱中して一度も進級できぬまま留年を繰り返し、放校処分を受ける。このころ、同郷同学の高齋正を通じて元々社のSFシリーズや『SFマガジン』創刊号に触れ、SFに熱中し始める。のち、武蔵大学経済学部に入学。在学中、1960年、『オール讀物』新人賞に『モンゴルの残光』を応募し落選。1961年、『時間砲』で第1回空想科学小説コンテスト(後のハヤカワ・SFコンテスト)の佳作に入賞。1962年、「火星で最後の……」(後に「絶滅者」と改題)で第2回ハヤカワ・SFコンテストの佳作に入賞し、これが『S-Fマガジン』1963年4月号に掲載されてSF作家としてデビュー。武蔵大学在学中から、SF仲間だった平井和正の依頼で、平井原作のアニメ『エイトマン』で1963年末に脚本家デビュー。武蔵大学卒業後、商社、広告代理店、出版社や野田昌宏の紹介でフジテレビの入社試験を受けたが全て失敗。大学在学中にSF同人誌『宇宙塵』の会合で会った手塚治虫に『エイトマン』での手腕を買われて、1964年、嘱託社員として虫プロダクションに入り、『鉄腕アトム』を初めとしてアニメのシナリオを手がける。大卒初任給が2万円前後の時代に、虫プロでの豊田の初任給は6万4000円だったという。虫プロダクションでは続けて『ジャングル大帝』などの脚本を手がけたが、1965年にいわゆるW3(ワンダースリー)事件で『ナンバー7』のキャラクターの一つ「宇宙リス」がTBSの『宇宙少年ソラン』に同種のキャラクターが登場したことから、手塚と虫プロ上層部からスパイの嫌疑を受け、虫プロを退職。TBSの通称漫画ルームに移り、『スーパージェッター』『宇宙少年ソラン』のシナリオを書いた。その後、手塚の誤解は解け、手塚の晩年まで公私にわたって交流は続いた。なお、問題の『宇宙少年ソラン』には石原弘一のペンネームを用いての参加となった。作家として売れ始めたことから、1967年の『冒険ガボテン島』を最後にアニメの脚本からは手を引き、専業の作家として活動する。SF作家生活の初期には宇宙パトロール隊員タキイを主人公にした宇宙SFなど本格SFを手がけ、『タイムパトロール』などの代表作があるポール・アンダースンに傾倒して、アンダーソン作品を翻訳した他、自らオリジナルのタイムパトロールものの、ヴィンス・エベレットシリーズを執筆、後にヤマトタケルを主人公にした初の本格的和製ヒロイックファンタジーのヤマトタケルシリーズなど歴史的な物へと変貌して行った。中でも1972年発表の『倭王の末裔』はベストセラーになった。他にジュブナイル作品や、世相を風刺したドタバタ系の短編小説といったジャンルで活躍した。その他の代表作に、モンゴル帝国が世界を支配したパラレル・ワールドを描いた『モンゴルの残光』、架空戦記の先駆作品といえる『タイムスリップ大戦争』『パラレルワールド大戦争』など。1973年から1980年代にかけては虫プロ時代の同僚山本暎一からの依頼で数年ぶりのアニメの仕事となる『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの原案、設定にも携わる。宇宙戦艦ヤマトについては『西遊記』に基づいて、企画書の元となる基本ストーリーを作った。裏番組の『猿の軍団』の原作者の1人となったこともあり、「ヤマト」ではSF設定を監修する立場に退いた。西崎義展と松本零士の著作者人格権をめぐる争いでは、松本を支持し、2000年には産経新聞のコラムで、「ヤマト」は多くの人の共同作業だが大半は松本に帰するのであり、西崎が著作権を主張するなら自分にも主張する権利があると述べた。1986年から1987年にかけて日本SF作家クラブの会長職を務めた。1966年には企画集団パロディギャングを広瀬正、水野良太郎、伊藤典夫らと結成するもまもなく脱退。1982年頃から1991年にかけては、下北沢で創作集団パラレル・クリエーションを主宰し、出渕裕、岬兄悟、星敬、米田裕らが在籍した。作家業の傍ら、2000年に島根県立大学総合政策学部教授に就任。日本地域文化論などを教えたが、2009年3月末に定年退職し、名誉教授に。2013年、他のベテラン作家とともに、日本SF作家クラブの名誉会員に。韓国に造詣が深く、自身、韓国語を使いこなす。渡韓歴も多い。古代韓国を舞台の1つにしたSF小説『倭王の末裔』の取材のため渡韓したのがきっかけだが、その他の作品でも韓国人の登場人物が多い。一方、評論においては韓国に批判的な論陣を張る。産経新聞の黒田勝弘ソウル支局長と親交が深い。下記のように、反原発運動の一部に代表されるような、図式的な市民運動に強い嫌悪感を示す一方、反天皇制の言説も多い。豊田は、成田国際空港反対、親中国、反北朝鮮、韓国は支持するが同国の朴正煕政権には反対であり、徴兵制と天皇制にも反対で、原子力発電所には賛成だが原子力の軍事利用に関しては動力源としての利用にも反対という立場を表明し、環境問題、天皇制、資本主義といった本来別々の問題がワンセットになって左翼右翼が区分けされることのほうが異常であって、どういう組み合わせも自由のはずだと述べている。原子力発電所好きを公言し、その安全性に絶大な信頼を寄せ、事故そのものの危険性よりも軽微な事故の際のマスコミのセンセーショナルな報道の影響力こそ危険であると懸念を示していた。日本の原子力発電所は耐震設計が施されており、爆弾をしかけない限り炉心部が破壊されることもないとしている。日本原子力文化振興財団のPR誌『原子力文化』には日本各地の原発を取材した探訪記「航時機アトム」を連載し、1980年には『原発の挑戦 足で調べた全15ヶ所の現状と問題点』を出版した。同財団では、原子力に関する中高生の公募論文の選考委員を10数年続け、2009年に非常勤理事に就任した。電気事業連合会発行の『原子力発電 四季報』1998年度第7号に寄稿している。2010年には『日本の原発技術が世界を変える』を著し、日本の原発技術の海外への輸出を訴えた。原子力発電所の反対派については、ファッション、イデオロギー、信仰であり、反対派の多くが原子力発電所についての知識はなく、たとえ知識があってもイデオロギーから反対し、金儲けや売名のために原発に反対している者もいるとの見解を持っている。2011年の福島第一原子力発電所事故発生後も、その主張を変える必要はないと明言している。なお豊田自身は、自分は原発批判派であって推進派ではないとしている。
出典:wikipedia
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