国鉄分割民営化(こくてつぶんかつみんえいか)は、中曽根康弘内閣が実施した政治改革。日本国有鉄道(国鉄)をJRとして6つの地域別の旅客鉄道会社と1つの貨物鉄道会社などに分割し民営化するものである。これらの会社は1987年4月1日に発足した。このほか同時期に日本電信電話公社や日本専売公社を含めた三公社の民営化が自由民主党によって進められた。国鉄分割民営化によって、国鉄はその事業等を以下の12承継法人に承継した。モータリゼーションの進展による地方での国鉄離れや、戦争引揚者の雇用対策として国鉄へ大量に採用された職員の高齢化に伴う労働コストの上昇により、それまで黒字であった日本国有鉄道は、東海道新幹線の開業した1964年(昭和39年)から赤字に転落した。昭和40年代後半にはマル生運動の失敗などから労使関係が悪化して順法闘争やストライキも続発するようになり、特に貨物分野では利用者離れを招いていくことになった。1949年、鉄道省から分離され、独立採算制の公共企業体として発足した国鉄は、政治が国鉄収支についての経営責任を負わなくなった一方、運賃や予算、新線建設、人事など経営の根幹ともいえる重要な決定事項については、国会の承認が必要だったために政治の介入を強く受けた。例えば、選挙対策やインフレーションの防止などを狙って政府が運賃の値上げを抑制したり、民業を圧迫するという理由で運輸業以外の他業種への参入が認められなかった。また、田中角栄首相の日本列島改造論や「我田引鉄」と揶揄される政治家の選挙区に鉄道を誘致させる見返りに得票を期待する利益誘導、過疎化防止のため、地方のローカル線の建設要求は強く、1980年(昭和55年)に新規の建設が凍結されるまで、採算の見込めない赤字ローカル線の建設が続けられた。日本鉄道建設公団の発足以降、こうしたローカル線の建設費用は国が負担していたが、営業開始後の赤字は国鉄の負担であった。さらに大都市部(特に首都圏)では急激な人口集中によって通勤輸送事情が悪化しており、対策を求められた国鉄では通勤五方面作戦を展開するなどして輸送力の増強に努めたが、これに要する費用には国からの補助はほとんどなく、国鉄の自己負担となっていた。新幹線の建設にも巨額の費用が投じられ、建設費はそのまま国鉄の債務として積み上がっていった。補助金が国から交付されていたものの焼け石に水状態であり、昭和50年代からは、それまでの運賃抑制分を取り戻すように50%運賃値上げ、毎年運賃値上げが行われたが、これは首都圏の路線や新幹線ですら利用者が減るなど、却って利用者が離れる結果を招いてしまい収支改善にはつながらなかった。政府は1980年(昭和55年)に、「最後の自主再建プラン」と評された日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)を成立させ、人員の削減や地方の新規路線の建設凍結、輸送密度による路線の区分(幹線・地方交通線・特定地方交通線)とそれに基づく措置(特定地方交通線の国鉄からの分離・バス転換、地方交通線への割増運賃の導入)といった施策を盛り込んだ。その一方で、1981年(昭和56年)、鈴木善幸内閣は諮問機関として第二次臨時行政調査会(第二次臨調、土光敏夫会長)を設け、国鉄改革など財政再建に向けた審議を行わせた。さらに1982年(昭和57年)2月5日、自民党は「国鉄再建小委員会」(三塚博会長)を発足させた。第二臨調では、第四部会(加藤寛部会長)で国鉄改革の実質的な審議が行われた。審議するだけでなく、加藤部会長は「国鉄解体すべし」(『現代』1982年4月号)、屋山太郎参与は「国鉄労使国賊論」(『文藝春秋』1982年4月号)を発表するなど、分割民営化を前提に活発に情報発信を行った。同年7月30日、第二次臨調は基本答申で「国鉄は5年以内に分割民営化すべき」と正式表明し、国鉄そのものの消滅へと大きく舵を切った。鈴木内閣は9月24日、答申に従って分割民営化を進めることを閣議決定した。自民党内でも、運輸族の加藤六月、田村元など、分割民営化反対論は少なくなかったが、同年11月27日に発足した中曽根内閣は、積極的に分割民営化を進めて行くことになる。1985年12月に発足した第2次中曽根改造内閣では、前記の自民党国鉄再建小委員会会長だった三塚博を運輸大臣として入閣させている(1986年の衆参同日選挙に伴い退任)。それまでに累積した債務に掛かる利子がさらに雪だるま式に債務を増やしていく悪循環に陥ってしまったことから、1982年8月2日の運輸省の1983年度概算要求の中で、債務補填の見返りとして職員の新規採用停止などが確認された。なお、1985年のみ「民営化後の幹部候補生」として大卒者のみ採用、翌年は再び大卒を含め採用中止した。巨額の累積債務を、民営化して経営改善したJR各社の負担や国鉄資産の売却、これに国からの税金投入などで処理することは、国鉄分割民営化の大きな目的であった。ただし、中曽根首相はその後、国鉄分割民営化の真の目的は、労働組合の解体にあったと述べている。累積債務は37兆円に達していた。意図的な虚報であるという主張も分割民営化に反対した労働組合側からなされているが、利払いだけでも年1兆円を超えるなど、実際にはバブル時代に急激に土地が上昇した時期に資産を売却しても到底債務を解消できる額ではなかった。国鉄の輸送シェアは1960年には約50%を占めていたが、長年に渡り全国で画一的な輸送による地域ニーズとのミスマッチや技術革新の遅れ、さらに相次ぐ値上げや自家用車の普及、航空・高速バスの発達などにより、1985年には約23%と半分以下にまで低下した。国鉄とJRは別会社とし、JRに国鉄職員の採用義務はなかったが、国鉄の異動希望調査で定員超過である北海道や九州において、国労方針の「白紙で提出」「現地現職と書く」に従った1,047人を除いてJRに採用された。当時の国労は10万人以上の組合員を抱える日本最大の労働組合であり、野党の日本社会党(現社会民主党)の主要な支持母体である総評の中心的な存在でもあった。その一方、中核派や革マル派などの過激派セクトが組織に入り込み、一部セクトは公然と社会主義革命を主張していた。しかも国労は彼らを自力で排除できなかった(革マル派系の組合員は後に脱退し「真国労」を結成した)。分割・民営化反対論者からは「国家的不当労働行為」と批判する者もいた。また国労・全国鉄動力車労働組合・国鉄千葉動力車労働組合所属組合員などによると、当時の国鉄職員局次長(葛西敬之)は国労など分割・民営化反対労組解体が不当労働行為に該当することを認識しつつ、法の抜け穴を利用して「うまくやる」といったと主張している。しかし、葛西はこの発言を否定しており、のちの不当労働行為の有無を争った裁判でも、事実かどうか裁判所の判断は分かれている。国労は、サービス低下を理由に国民に分割・民営化反対を主張した。政府側は、ヤミ休暇やヤミ休憩、ヤミ超勤、酒気帯び勤務の常態化、服装規定違反などに代表される民間企業ではあり得ない怠惰な労働環境の維持であると訴え、マスコミ(特にサンケイ)は相次いで国労批判のキャンペーンを張った。ただし、真面目な職員も多くいたため、印象操作の面も否定できない。1970年代に国労や動労が中心となって起こしたいわゆる遵法闘争は、国鉄のサービスの低下につながり国民の怒りを買い、上尾事件や首都圏国電暴動などが起こるという事態まで起きており、職務怠慢といえる事故も多発した。また国労は、動労と内々に交わしたスト戦術の放棄すら大会で決められないなど組織内の路線対立が顕著で、意思統一が困難な状態に陥っていた。これらの結果として、国労の主張に対して利用者・一般国民からの賛同は得られなかった。一方、“国労排除・解体の為の分割民営化”という名目に対して、本来こちらこそが先に上げた“巨額債務の解消の為の分割民営化”に対する正当化の為の口実にされたとする見方もある。全国一元の組織の国鉄を地域ごとに分割することは、1つの会社の経営規模を小さくして地域密着を図るためであった。分割に際して考慮された事項は以下の通りである。一方、考慮しないとされたことは以下の通りである。様々な分割地点を案として出しながら、分割される会社の経営規模や要員数などを算出して検討が行われた。特に複雑に線路が絡み合い運行系統が設定されている本州については、2分割、3分割、4分割、5分割など分割する数についても検討され、それぞれにさらに分割点を様々に変えた検討がなされた。分割数を増やすと境界が増えて問題となることや、直通旅客数の多い東海道新幹線を途中で分断しづらいこと、鉄道工場や指令所を共用している東北新幹線と上越新幹線も分割しづらいことなどが勘案され、東京本社の本州東部(甲信越以東)と大阪本社の本州西部(東海・北陸以西)に2分割とする案が決まったが、超ドル箱路線の東海道新幹線が本州西部会社帰属になると本州東部会社の収益が本州西部会社を下回ると判断されたため、最終的に本州西部会社と予定されていた地域のうち東海道新幹線を含む東海地方及び、本州東部会社に予定されていた地域のうち山梨県・長野県のそれぞれ南部地域を名古屋本社の別会社とする案が実施されることになった。さらに、異なる会社へ直通する列車の乗務員の交代、車両の保守管理の担当、車両使用料の精算、運賃の計算と精算、担当する車両基地の割り振り、設備の分割と使用経費の分担など様々な問題に対して、新たなルールの制定が必要となった。会社間の実際の分割場所は、境界駅の場内信号機外方(駅から見て外側)となった。1つの駅の設備についてはすべて1つの会社で担当するという考え方としたためである。東海道本線来宮駅についても丹那トンネルの中にある東海道本線上りの場内信号機が境界であり、その内方(東京方)がJR東日本、外方がJR東海となるが、トンネル構造物は分割できないため、トンネル全体をJR東海が管理している。なお、東海道本線米原駅は下り場内信号機をJR東海とJR西日本の境界とすると複雑になりすぎることから、東京方下り第一閉塞信号機が境界である。また、亀山駅については、JR東海の管轄駅であるが、駅構内西側にある亀山機関区はJR西日本の路線となる関西本線亀山駅以西を担当していたため、JR西日本に帰属することになった。これは、廃止予定であった伊勢機関区が、この地域におけるJR東海の車両基地を維持するために一転して存続となるという副次的な効果をもたらした。左翼陣営が結束して反対。1985年11月29日には中核派が国電同時多発ゲリラ事件を起こして首都圏ほかの国電を1日麻痺状態に置いたが、中曽根内閣の決意は変わらなかったばかりか、逆に国民世論は国鉄の分割・民営化を強く支持する結果となった(分割民営化そのものには反対だった日本共産党などもこのようなテロまがいによる運行妨害は批判した)。公明党・民社党は自民党案に賛成し、社会党は分割に反対(民営化は容認)、日本共産党は分割・民営化そのものに反対した。1986年7月6日に実施された衆参同日選挙で、国鉄などの三公社五現業の民営化を公約に掲げた自由民主党が圧勝し、日本社会党をはじめとする野党が惨敗したことで、分割民営化が事実上決まった。労働組合では、元から労使協調路線であった鉄労が早々に民営化を容認したが、それ以外の組合では意見が割れる事になる。動労は当初は民営化に反対していたが、スト権スト以降の国労との亀裂や、衆参同日選挙で分割民営化が事実上決まったことから松崎明委員長の「協力して組合員の雇用を守る」という方針の下で、民営化賛成に転じることになる。その中で国労は民営化賛成派と反対派が対立し、意見が一致しなかった。国労は1986年10月9日に臨時大会を開き、五十嵐中央執行委員率いる非主流派(旧社会党系左派)と、徳沢中央執行委員率いる反主流派(共産党系)が足並みを揃え、激論の末採決に持ち込まれ、投票の結果は分割・民営化反対が大多数を占めた。結果として山崎俊一委員長は退陣に追い込まれ、後任として盛岡地方本部から六本木敏が選出された(修善寺大会)。山崎率いる主流派である分割・民営化容認派(右派)は国労を脱退し、やがて鉄産総連を結成した。この修善寺大会をきっかけに国労は内部崩壊を起こし、力を大きく失った。鉄産総連結成は、JRに採用されるための次善の策として、社会党側の働きかけもあったとされる。一方で、全面対決一本槍の六本木体制や国鉄の労使関係に失望し、職場単位で脱退が相次ぎ、国労からは分割民営化までの間に国鉄そのものを退職した人を含めて20万人以上の組合員が脱退、合理化により職員(社員)の総数も大幅に減少しているものの少数組合に転落した。国労は労働組合の原点である、末端組合員の生活や雇用不安を無視し、イデオロギー闘争に終始したことで結果的に自滅した。上記の通り、分割民営化議論に先立って1980年に成立した国鉄再建法に基づき、当時すでに輸送密度の低い不採算路線の廃止が進められていた。1981年より、3次にわたって廃止対象となる特定地方交通線の選定が進められ、最終的に83線が選定された。沿線住民などの反対があったが、1983年の白糠線を皮切りに、45路線が廃止(バス転換)、36路線が第三セクター化、2路線が私鉄に譲渡され鉄道として存続した。この措置は分割民営化が正式に決定されても継続され、民営化後の1990年、宮津線の第三セクター・北近畿タンゴ鉄道への転換、鍛冶屋線、大社線の廃止を最後に、各路線の処遇は決着した。かつての「赤字83線」廃止に比べると、かなり順調に廃止が進んだと言える。この路線の整理は分割民営化とは無関係に始まったものであったが、民営化会社がこれらの不採算路線をほとんど引き継がずに発足する結果をもたらした。しかし、当時からほとんどの優等列車が経由していた伊勢線(現伊勢鉄道)が第三セクターへ転換されたりした一方、これらよりも利用率が低いにも関わらず、独立した路線名を持っていない他の線区の支線であったがために廃止を免れる区間があったりと、廃止路線の選定については当時から「実態に一致しない」との声もあった。なお、既存の民間運輸事業者に譲渡された2路線(下北交通大畑線、弘南鉄道黒石線)はその後赤字の増加などで廃止された。第三セクター化路線も2006年4月全廃の北海道ちほく高原鉄道を皮切りに神岡鉄道・三木鉄道・高千穂鉄道が利用者の減少に伴う赤字の増大や自然災害による被災などを理由に全線廃止、のと鉄道は路線の大半を廃止している。黒字を計上しているのは大都市圏に近く条件に恵まれた愛知環状鉄道などごく一部に限られており、各社に給付された転換交付金も金利低下による運用益の減少などで大きく目減りしている。1986年11月には、国鉄改革関連8法(日本国有鉄道改革法、旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律、新幹線鉄道保有機構法、日本国有鉄道清算事業団法、日本国有鉄道退職希望職員及び日本国有鉄道清算事業団職員の再就職の促進に関する特別措置法、鉄道事業法、日本国有鉄道改革法等施行法、地方税法及び国有資産等所在市町村交付金及び納付金に関する法律の一部を改正する法律)が成立し、法的に分割民営化する準備が整った。このほかに、上記した赤字路線の廃止などで余剰職員を多く抱え、なおかつ地域経済の衰退で雇用の機会に乏しい北海道・九州では職員配置の適正化を目的に、余剰職員を本州三大都市圏の電車区、駅、工場などに異動させる広域異動(後に東北・中国・四国も対象)が1986年5月 - 12月に行われ、さらに新会社発足前後には本州3社による広域採用が行われた。特に北海道の場合は、家族を含めて6000人以上が鉄道従業員としての生活を維持していくために異動した。また、多数の余剰人員が当時人手不足が深刻化していた私鉄、民営バス、民間企業などに受け入れられている。民営化が事実上決まった後に実施された1986年11月1日ダイヤ改正以降、各地域の特性に合わせたダイヤの設定や新型車両の投入が行われたほか、縦割り的なダイヤ設定の解消が図られたことにより、ニーズに合った列車設定がなされるようになった。また、増発や新駅の設置、駅舎改良も積極的に実施されたことにより混雑は大幅に緩和され、利用者は本州3社は約20%増、国鉄時代は減少が続いていた3島でも九州約10%増、四国約20%増、北海道約25%増(1987年 - 1995年比)と大幅に増加した。複線化や電化は主に都市部においておこなわれている。国鉄時代はそれまで運賃値上げが抑制されていたこともあり、1976年10月に約50%もの運賃値上げを実施し、その後もほぼ毎年運賃値上げを繰り返した(1976年から1986年までの間に値上げが行われなかったのは1977年と1983年のみ)。しかし、民営化以降は本州会社は基本制度としての運賃値上げを行っていない(ただし消費税導入時の1989年、1997年と2014年の消費税率改定時に、その都度運賃に消費税分の金額上乗せを実施している)。一方、経営環境が厳しい三島会社は1996年の一度のみ運賃値上げ、及び本州会社とまたがって乗車した場合の加算運賃追加が実施され、これ以降運賃体系は三島会社と本州会社間をまたがって乗車した場合を除き全国一律ではなくなった。国鉄の輸送機関別のシェアは凋落の一途をたどり、鉄道は「斜陽産業」とも言われたが、民営化以降は減少が止まり、微増に転じたことから「鉄道の復権」とも言われるようになった。国土交通省は広報文書の中で、「国鉄末期には、国が多額の補助金(1985年で6000億円)を投入しても、なお1兆円を超える赤字を計上していたが、JR7社で2005年度には約5000億円の経常黒字となり、国及び地方自治体に対し、法人税等として約2400億円(2005年度)を納めるまでになった」と評価している。既述のように、分割民営化以前に決定された特定地方交通線の整理は民営化から3年以内に完了したが、その後地方ではそれ以外の赤字ローカル線についても過疎化や少子高齢化、道路網整備によるモータリゼーション化の進展による利用者の減少により一部で廃止された。1999年に鉄道事業法の改正(施行は2000年3月から)により、赤字路線の廃止手続きが簡略化(国の許可が必要であったものが、届出で可能に改正)された。法改正以降のJR地方交通線の廃止は、可部線の末端部が2003年に廃止されてからしばらく途絶えていたが、2010年の災害から運休となっていた岩泉線が2014年3月限りで廃止、江差線の木古内駅 - 江差駅間も2014年5月12日に廃止された。江差線と岩泉線は沿線地元自治体の同意を得て廃止届が出されている。このほか、2009年に災害で運休となった名松線の末端区間についてJR東海が廃止を地元に打診(その後自治体の協力を条件に存続)したり、2010年4月にJR西日本社長が定例会見で一部のローカル線のバス転換について関係自治体に打診済と述べるなど、一部に廃止を検討する動きが2010年代より出始めた。JR北海道は、江差線に続いて留萌本線の末端部に当たる留萌駅・増毛駅間を平成28年度(2016年度)中に廃止する意向を2015年8月に表明した。2016年6月29日に提出した廃止届により、同区間は2016年12月5日付で廃止となる予定である。JR西日本は三江線について、2018年4月1日付で廃止する廃止届を2016年9月30日に提出した。東日本大震災で被災した路線のうち、気仙沼線と大船渡線は一部の路盤を専用道路に転用の上、バス・ラピッド・トランジット(BRT)で暫定復旧された。この2路線について、JR東日本は2015年7月にBRTでの運行を継続し、鉄道としての復旧をおこなわない意向を表明した。同じく運休中であった山田線(宮古駅 - 釜石駅間)については、2014年12月に地元がJR側の示した三陸鉄道への運行移管案の受け入れを表明し、JRからは分離されることになった。また、幹線であっても、整備新幹線の開業を理由として、第二の国鉄を造らないため赤字になる幹線をJRから経営分離する路線も出てきた。新幹線開業により観光客やビジネス客が大幅に増加し、地元経済の発展に大きく寄与したが、在来線を利用していた地域住民にとっては、新幹線が開業しても手放しでは喜べないという事態も一部で生じた(小諸駅や阿久根駅の項目も参照)。国鉄時代より並行する私鉄との激しい競争に晒されていたJR西日本では、ローカル線で日中に保線を行う際に列車を運休する。なお、対象となる時間帯は閑散時間帯とされる平日日中で、あらかじめ告知された月1回のみの実施である。信楽高原鐵道列車衝突事故やJR福知山線脱線事故などの事故は、市場原理を優先するあまり安全性を軽視したことが遠因ではないかとの指摘がある。これに対しては、国鉄時代でも事故は多発していたこと、統計によれば民営化後に鉄道事故は減少していること、JRグループよりも私鉄各社の方が事故が少ないことなどから、民営化とは関係ないという反論がある。国鉄末期、自立再建が不可能なことが明らかになったことで新職員の採用はできなくなり、JR発足当時も再生できるか不明で、新入社員の採用どころではなかった。採用再開後のJR各社は、社員の年齢構成が30代後半から40代前半(2010年現在で)の中堅社員が極端に少ないという現象を生んだ。そのため、例えば運用指令に20代の現場採用の職員が配置されるといったことも、国鉄時代と比較して珍しくなくなったと言われる。労使関係では、分割民営化に協力した全日本鉄道労働組合総連合会(JR総連)が現場の主導権を握った。後に方針の対立から、鉄労系中心の日本鉄道労働組合連合会(JR連合)が分裂発足する。どちらも連合に加盟している。なお、国労は全労協に加盟している。加えてバブル崩壊により、JRも含めた公共交通での先鋭的な労働争議は困難となった。結果としてストや順法闘争の影響力をほぼ皆無にすることには成功した(ただし、国鉄時代は違法であったストライキは民営化によって合法的なものになっているため、ストライキ後に経営側が出す「おわび」からも国鉄時代にあった「違法なストライキ」という言葉が消えた)。唯一の例外は動労千葉の組合員が運転士の多数を組織している千葉県の房総半島地域である。JR総連が多数派の会社では、他労組へ移籍した者に対し戻るよう執拗に詰め寄ったり、他労組の者と交流をした組合員を非難糾弾し、退職させた事例もあったとされる。一方、JR連合が多数派の会社においては、他労組に所属する者に対して昇進で差別したり、会社側が行う日勤教育の内容に隔たりのある事例が報告されている。2002年5月27日、国労組合員である中核派幹部や活動家が、同じ国労組合員に殴る、蹴る、首を絞めるなどの暴行をしたとして、10月7日、警視庁公安部は国労組合員8人を逮捕した。検察は勾留満期の10月28日に6人を起訴、さらにその翌日の29日、警視庁公安部は、中核派幹部である国労組合員2人を逮捕した。11月18日、2人とも起訴された。分割民営化に反対したため採用されなかった国労などの組合員のうち、解雇時まで清算事業団に残った1047名が「国労闘争団」を組織。不当労働行為であるとして、地方労働委員会に裁定を申立てた。地労委はJRに救済命令を出したが、JRは拒否して再審査を申立てた。中央労働委員会でも闘争団側の主張は大部分認められたが、JRは逆に労働委員会を東京地方裁判所に訴えた。民営化に賛同したJR総連やJR連合も、その経緯から会社側に対し、裁定を受け入れないよう迫った。2004年、最高裁判所はJRの主張を認め、JRに責任は無い判決が確定した。先鋭化した闘争団と、国労本体との対立も深刻化した(詳細は国鉄労働組合を参照)。少数派に転落した国労は、「国鉄」がなくなった現在でも「国鉄労働組合」を名乗っている。ただし、JRが国労を相手に提訴していた損害賠償を取り下げる条件のため、国鉄の分割民営化を1995年になって認めた。別会社にすれば特定組合の労働者の排除が認められたことで、偽装倒産による解雇を可能にする前例を作ったなど禍根を残したと主張するジャーナリストもいる。国鉄の分割民営化は、その後の日本道路公団や郵政民営化の手本となった。実際にJR東日本の松田昌士会長が、国鉄分割民営化の成功者としての実績が認められ、道路公団民営化推進委員に選ばれている。日本国外では、ル・モンド紙が人活センターを問題にしたことがある。ただ、日本の国鉄民営化に関しては「成功」と認識している場合が多いといわれている。特にヨーロッパ諸国では、日本同様、国有鉄道の運営の抜本的改革が必要とされていたが、1988年のスウェーデンを皮切りに、日本の事例も参考にしながら、ドイツやオランダ、イギリスなどの国が、鉄道民営化を果たしている。また、フランスのように国有のままで残っている鉄道事業者についても、民間の経営手法を取り入れるなどの変化が見られる。ヨーロッパの場合、日本の手法と異なるのは、「上下分離方式」(経営主体を、インフラと列車運行に分離し、前者を国家(あるいはそれに準ずる組織)が保有し、列車運行は会社組織が線路使用料を払って行う)と「オープンアクセス」(列車運行への参入を自由化すること)を採用している点であり、欧州連合 (EU) の指令として実施されているものである。またこの手法により、鉄道経営を活性化する効果が見られた場合もあり、特に貨物輸送では、多くの事業者が新規参入するなど、その傾向が比較的強いとされている。また、イギリスのように分割民営化を行った国もあるが、ドイツのように1社による民営化を行った国もある。ただし、すべてが上手くいっているわけではない。また、ローカル輸送などの不採算部門の切り捨ては深度化していることや、輸送密度の低い既存在来線の高速化の遅れ、組織の細分化による技術力の低下(このことが結果的に、鉄道車両工業の寡占化を進めたとされる)。ヨーロッパ諸国のうち、イギリスの場合は、非常に複雑な民営化手法を取り入れたが、株主配当に余裕資金をすべて回して経営者が高額配当を受け取り設備投資を削減した結果(「折れたレール」参照)、後に事故が頻発するなど、設備の劣化が深刻な状態になり、その結果、最近では民営化政策を一部見直して、国家が介入するようになっている。この事例から、「イギリスの国有鉄道の民営化は失敗に終わったのであるから、日本も分割民営化失敗を認めて、国家が介入するべきである」という意見も郵政民営化反対論者などを中心に見られるが、イギリスの鉄道経営や技術水準自体が、第二次世界大戦後から慢性的に悪かったことや、旅客輸送における鉄道のシェアが日本とは比べ物にならないほど低いことなど(「ビーチング・アックス」も参照のこと)、鉄道経営の前提条件に多くの違いがあるため、イギリスでの事例は日本とかなり異なる。なお、イギリスの事例は、「折れたレール―イギリス国鉄民営化の失敗」クリスチャン・ウルマー著に詳しい。国鉄分割民営化の時点で、累積赤字は37兆1,000億円に達していた。このうち、25兆5,000億円を日本国有鉄道清算事業団が返済し、残る11兆6,000億円を、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR貨物、新幹線鉄道保有機構(1991年解散)が返済することになった。経営難の予想されたJR北海道、JR四国、JR九州は、返済を免除された。国鉄改革最大の目的といわれた巨額債務の解消であるが、結果は失敗ともいえる。一つには、国鉄時代からの累積赤字は利子が利子を生み膨れあがって行き、利払いだけで年1兆円を超えるなど、手の施しようがない巨額に達していたという事情がある。これについては、赤字額が小さいうちに政府などが援助をしていれば防げた事態である。単年度に限って言えば、国鉄末期の1984年度に旅客部門は黒字に転換したが、累積赤字を返済するには焼け石に水どころか、利子の返済すら全く足りなくなっていた。民営化により市場原理を活用したことにより、本業での収益は好転した。また、JRにとっては返済可能な程度に負担額が抑えられたこともあって、返済は順調に進んだ。一方で、国鉄清算事業団による返済は進まなかった。清算事業団による用地売却は、資産価値は14兆7,300億円といわれていたが、ほぼ半額の7兆7,000億円で売る見積もりを立てているなど、その計画は非常に不自然であった(詳細は日本国有鉄道清算事業団の項目を参照)。実際にはその後のバブル景気による地価高騰によりさらに資産価値は上がっており、1988年3月時点で実勢価格は一時期30兆円を下らないと主張する評論家もいた。しかし、用地売却による再開発が地価高騰を悪化させるとする主張がなされた結果、「その地域の地価の異常な高騰が沈静化するまでこれを見合わせる」とする閣議決定などの政治的な介入もあって、売却は予定通り進まなかった。その後のバブル崩壊によって土地の時価総額が減少するなどもあり、土地が塩漬けにされている期間に利子がかさんでかえって債務総額は増えた。1998年10月22日の清算事業団解散時には、国鉄から引き継いだ時に比べて2兆8,000億円増の28兆3,000億円に達していた。現在、借金返済は独立行政法人・鉄道建設・運輸施設整備支援機構の「国鉄清算事業本部」が清算事業団を承継して行っている。清算事業団解散時にあった28兆3,000億円の借金のうち、16兆1,000億円の有利子債務は国の一般会計(たばこ特別税)に承継、つまり日本国政府の借金となった。残る債務のうち、年金等将来費用3兆400億円を国鉄清算事業本部が、厚生年金移換金など7,000億円をJRが、これまでの負担分とは別に返済することになり、その残りは債務免除となった。
出典:wikipedia
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