文明(ぶんめい、、ラテン語: civilizatio キーウィーリザティオー)とは、人間が作り出した高度な文化あるいは社会を包括的に指す。文明が発生するには、まず前提として農耕による食糧生産の開始と、それによる余剰農作物の生産がなければならない。最初期の農耕はオリエントの三日月地帯において11,000年前、パプアニューギニアで9,000年前の証拠が発見されている。これらは、2万年前に最も寒くなった寒冷期の終わり、1万年前に相当する時期に当たる。この時期はBC5300年頃にはメソポタミアにおいて灌漑施設が建設されるようになり、ウバイド文明と呼ばれるメソポタミア最古の文明が成立した。その後、紀元前4000年ごろからはウルやウルクといった都市がメソポタミア南部に相次いで建設されるウルク期と呼ばれる時期に入り、BC3200年ごろには楔形文字が発明された。なぜ人類社会が高度に組織化され文明が発生するようになったのかは明確にはわかっておらず、いくつかの説がある。この中で、乾燥化や地球寒冷化などによって人々がより条件の良い土地に移住して集中するようになり、その人口を支えるために大規模な農耕がおこなわれ、文明が成立したとする説がある。西欧語の "civilization"(英語)などの語源は、ラテン語で「都市」「国家」を意味する "civitas" に由来する。ローマ時代の文明とは、字義通りに都市化や都市生活のことであった。マルクス主義の考古学者ゴードン・チャイルド(1892年-1957年)の定義では、文明と非文明の区別をする指標として次のものを挙げている。上記の定義は、ひとつの連続する過程として説明することができる。まず農耕が開始され、効果的な食料生産によって農耕民たちは大きな人口を抱えるようになる。またこれによって大きな余剰農作物が生まれ、その富を元にして農業以外を生業とするスペシャリストが生まれ、多様な職業に従事する人々が生まれる。同時に、食糧生産をより効率的にするためには灌漑施設の建設などの土木作業が不可欠であり、これを可能にするために社会の組織化が推進される。こうした事業はしばしば豊穣などを神に祈るための信仰と結びつき、食糧余剰を管理しより増産を進めるための機構として神官団が生まれる。また、食糧生産の過程で富の偏在が生まれ、富裕なものは他者に対し優位に立つようになる。この2つのシステムは結合し、こうして政府と階級が生まれる。上層の階級のものはその村落のみならずやがて周囲の村落にも影響を及ぼすようになり、一つのまとまった支配圏が誕生する。こうしてより富が集積されるようになり、さらに増えた人々やスペシャリストたち、そして支配階級のものがまとまって居住する支配や交易の拠点、いわゆる都市が誕生する。支配層が統治の必要から社会システムを発展させていく中で、文字や記念碑的公共建造物、芸術様式を発達させていき、一つの文明が成立することになる。ただし上記の指標はすべてそろっていなければならないわけではなく、たとえばアンデス文明は文字を持たなかったし、アンデス文明およびアステカやマヤといったメソアメリカ文明においては冶金術も鉄器レベルまでには達していなかった。チャイルドの定義以外に、すべての文明に共通するものとして次がある。 シュメール文明の成立以前の、肥沃な三日月地帯にあった新石器時代のエリコやチャタル・ヒュユクのような初期定住社会は文字を持たない。これに対し、灌漑文明であるシュメール文明は文字を持ち、記念碑的施設を持っていた。メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明は、灌漑文明で、都市への定住と分業、パピルスや粘土板、竹簡に記された文字などの共通の特徴を持つ。上記の四大文明はすべて大河の流域に存在しており、エジプト文明はナイル川、メソポタミア文明はティグリス川とユーフラテス川、インダス文明はインダス川、黄河文明は黄河をその存立基盤としていた。特にエジプト文明においては、ナイル川の氾濫は上流から肥沃な土を運んでくるものであり、その定期的な氾濫を利用した氾濫農耕が文明の基盤となった。そしてこの氾濫を管理する必要性から、文明が徐々に発達してきた。これに対し、特にメソポタミア南部のシュメール人居住地区ではナイル川流域に比べ氾濫が強力なものであり、このため氾濫は利用するよりも制御されるべきものとなって、かわりにこの地域には広く灌漑網が張り巡らされ、その灌漑農耕の管理を通じて文明が成長していった。ただし、大河の存在は必ずしも文明成立の必須要件ではなく、メソアメリカ文明やアンデス文明においては文明圏内に文明すべてを支えきれるような大河川は存在していなかった。しかし大河がないからと言って灌漑がおこなわれていなかったわけではなく、上記文明以外でもすべての文明は食糧供給の基盤として灌漑農耕を据えており、これはアステカやインカといった新大陸の文明も例外ではなかった。アステカはチナンパ農耕と呼ばれる湿地での優れた灌漑農業システムを保持しており、また山岳地における用水路を利用した灌漑農耕も行われていた。インカにおいても各地で灌漑は行われていた。マヤ文明においても灌漑用の水路は概して規模は小さいものの各地で見つかっている。これまで独自の文化圏を持つとして文明に分類されたものをあげる。伝統的に、文明は野蛮や未開と対置されてきた。ここには、高い文化を持つ文明の光と、その光が届かない野蛮や未開の闇という世界像がある。都市生活の素晴らしさや、野蛮・未開の劣等性を知識人たちが疑わなかった時代には、文明とは何かという理論的問題は発生しなかった。しかしそこが疑われるようになると、自民族・自文化中心主義をとりはらった文明の定義が求められるようになった。20世紀前半まで圧倒的に主流を占めたのは、劣った野蛮に対する優れた文明という見方で文明を定義するものである。歴史や社会の発展段階論に結びつくと、野蛮は未開とも呼ばれる。この見方は、ギリシャ、ローマと西欧(ローマ人対蛮族)に共通のものであり、また、中国の中華思想、朝鮮の小中華思想、また日本も同様の思考様式を持っており、華夷の別は王化に浴するかどうかで本国(いわゆる中国)と周辺服属国(夷)、独立地域を分けた。これらの思想は自文明中心主義と結びついて周辺支配のためのイデオロギーとなった。文明概念は、文明人は野蛮人より、文明国は未開社会より、優れた道徳的規範を持ち、優れた道徳的実践を行なうと想定する。文明は、人道的、寛容で、合理的なもので、逆に野蛮は、非人道的で、残酷で、不合理なものとされた。文明側の自己讃美は、それが文明人の間の行動を規制するために主張されたときには、道徳性を強める働きをしたが、野蛮人や未開人に対して主張されたときには、文明人による非人道的で残酷な行為を正当化することがしばしばあった。しかし、同じ分類方法をとりながら、野蛮や未開の方が逞しさ、自由、道徳性の点で優れていると考える人々もいた。高貴な野蛮人という言葉で要約できるこの考えは、ローマのタキトゥスにその片鱗を見ることができ、後に西洋近代にロマン主義として一大流行になった。とはいえ、この考えが主流派に対する異議申し立ての地位を越えた時代はない。近代西欧における「歴史の進歩」という考えは、未開から段階を踏んで高度な文明に達するという時間的区別と、文明的西欧、半未開あるいは半文明のアジア諸国、未開のその他地域という地理的区別とを重ね合わせた。啓蒙主義の時代には、文明は野蛮を征服し教化するものであり、またそうすべきであると考え、また対外的な侵略と支配を正当化した(帝国主義)。19世紀には進化論が大きな役割を果たし、社会進化論を生み出して、文明と野蛮について説明するようになった。本来「進化」には下等から高等へ一直線に段階を経るといった意味はなく、また進化しなかったものが即劣っているというわけではなくそれぞれの環境においてどのように適応出来たかというのを考察するものであった。日本や中国などは、近代化にあたって文明と未開の二分法はそのままに文明の内容を西洋文明に置き換えた。明治日本では「文明開化」とよばれた。近代以後におけるドイツになどにおいては、内面的・精神的な「文化」に対して、外在的・物質的なものを指して「文明」と捉える考え方も広がった。レベッカ・コスタは社会の問題が複雑化し過ぎたとき、人間の脳は理解が追つかず「認知閾」という状態に達することで非合理な思い込みや行動に走る傾向にあると述べ、文明の崩壊の過程で以下のようなプロセスをたどると説明した。
出典:wikipedia
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