


青江 三奈(あおえ みな、1941年5月7日 - 2000年7月2日)は、日本の歌手(演歌・歌謡曲など)。本名は井原 静子(いはら しずこ)。芸能活動におけるプロフィールでは生年月日を1945年7月7日としていた。東京都江東区砂町出身。成徳学園高等部卒業。「青江三奈」の芸名は、作詞家・川内康範が『週刊新潮』で連載していた小説「恍惚」のヒロインの歌手の名前に由来する。高校在学時から東京・銀座の「銀巴里」でステージに立つ。高校卒業後、西武百貨店勤務の後、クラブ歌手となる。1966年、『恍惚のブルース』でメジャーデビューし、80万枚を売り上げるヒットとなる。1968年には冒頭部分の「色っぽい吐息」が特に有名な『伊勢佐木町ブルース』が100万枚、『長崎ブルース』が120万枚を売り上げ、いずれもミリオンセラーを記録。同年、「伊勢佐木町ブルース」で第10回日本レコード大賞・歌唱賞と第1回日本有線大賞スター賞を受賞した。1969年には『池袋の夜』が150万枚を売り上げ、自身最大のヒット曲となった(第11回日本レコード大賞・歌唱賞も受賞、史上初の2年連続の日本レコード大賞歌唱賞受賞)。1969年度の年間売上金額は青江が全歌手の中で1位、翌1970年度は4位だった。この頃より、青江と同じくハスキーボイスの男性演歌歌手・森進一と並んでため息路線と呼ばれた。その後、ヒット曲は途絶えるものの、1984年には初のブラジル公演を開催。デビュー25周年となった1990年には「レディ・ブルース」で第32回日本レコード大賞・優秀アルバム賞を受賞するなど、テレビ番組やコンサートなどに精力的に出演し続けていた。「NHK紅白歌合戦」には1966年(第17回)に初出場。翌1967年(第18回)は落選するも、その後1968年(第19回)から1983年(第34回)まで、16年連続で出場した。1990年(第41回)には、同年12月に亡くなった「恍惚のブルース」の作曲家・浜口庫之助を偲ぶという形で7年ぶりの復帰、通算18回目の出場を果たしたが、これが青江自身生涯最後の紅白出演となった。1990年には青江三奈としてデビュー歌手生活25周年の記念リサイタルを開催。1991年にはものまねタレント・清水アキラの青江の物真似が話題となり、それを機に二人で「ラーメンブルース」のデュエット曲を発表。1993年には、初のジャズアルバムも発表しニューヨークでもライブを開催する。1995年には歌手生活30周年リサイタルをNHKホールで開催するなど、1999年1月までコンスタントに歌手活動を行っていた。しかし1998年のある日、背中に激痛を訴え病院で検査を受けた結果、膵臓癌と診断された。それでも青江は病を隠し仕事をキャンセルせずに歌い続けていた。翌1999年1月23日、渋谷公会堂でのコンサートを最後に、病気療養のため一切の歌手活動を停止した。その生涯最後のコンサート当日は、癌の痛みに耐えながらも全身の力を振り絞り熱唱、公演の写真が残っており青江の追悼の特集の際に公開されることがある。そのコンサート終了後間もなくして、同年1月下旬に都内の病院へ入院した(但し当時マスコミ陣には膵癌の病名をひた隠して、膵炎による加療と発表されていた)。1999年2月5日、9時間にも及ぶ大手術を受け成功し、約3か月の入院生活を経て同年4月24日に一旦退院した。退院後は歌手活動復帰に向けて、抗癌剤の点滴通院を受けながら美容院に向かうなど、執念を燃やしていたという。だが体調は一進一退の状態が続き、翌2000年2月に体調が悪化したため再入院。その際に膵癌の転移が発覚した。その後入退院を繰り返しながら闘病生活を送り続けていたが、2000年7月2日、膵臓癌により死去、59歳没。青江の葬儀・告別式では、親友だった水前寺清子が、歌手仲間の代表として涙ながらに弔辞を読んだ。なお、若き日の青江に大井町で同居しながら長年にわたり歌唱指導を行い、青江が亡くなる約2か月前に病床で婚姻届にサインし結婚をした作曲家・花礼二と、青江の兄弟との間で激しい遺産争奪戦が起こりマスコミの話題を呼んだ。癌の転移が分かった時点で青江が受話器を取り、花礼二へ直接連絡をして19年ぶりに再会を果たしたという。さらに後には、その兄弟の間でも遺産争奪戦が起こり訴訟沙汰になっている。また青江の没後「伊勢佐木町ブルース」の歌碑が、神奈川県横浜市中区のイセザキモールに建立された。青江三奈|プロフィール(ビクター)
出典:wikipedia
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