塩飽諸島(しわくしょとう)は、瀬戸内海に浮かぶ諸島。「しあく」とも読む。塩飽島(しわくじま)とも呼ばれ、瀬戸内海の中でも、岡山県と香川県に挟まれた西備讃瀬戸に浮かぶ大小合わせて28の島々から成り(岡山県側は笠岡諸島)、名の由来は「塩焼く」とも「潮湧く」とも言う。戦国時代には塩飽水軍(しわくすいぐん)が活躍し、江戸時代は人名(にんみょう)による自治が行われたが、近年は過疎化が進んでいる。__notoc__古代から海上交通の要衝で、潮流の速い西備讃瀬戸に浮かぶ塩飽諸島は、操船に長けた島民が住んだと考えられており、源平合戦における屋島の戦い、建武の新政から離反し九州に逃れた足利尊氏の再上洛の戦い、倭寇などで活動したとする説がある。また、法然が1207年(建永2年・承元元年)の承元の法難の際、流刑先の讃岐国にむかう途中、一時滞在している。戦国時代には塩飽水軍と呼ばれ、勢力を持っていたと考えられている。織田信長は天正5年(1577年)に堺へと入港する塩飽船に対し他国船は航路を譲る事を命じ、豊臣秀吉は天正14年(1588年)の九州征伐に際して兵を運ぶ船を出させ、天正18年(1590年)には船方650人を御用船方(ごようふなかた)とし、本島、広島、与島、櫃石島、手島、高見島、牛島の塩飽七島1250石を与える。徳川家康も関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)9月28日に、大坂城西の丸で秀吉と同様に船方に塩飽七島を安堵し、塩飽諸島は自治領として江戸時代を過ごす事となる。徳川家康から安堵を受けた御用船方は人名と呼ばれ、人名株により世襲され、政務は人名の中から選ばれた四人の年寄が勤番で執った。政庁は勤番所と呼ばれ今も本島に塩飽勤番所として残り、多くの朱印状と共に見る事が出来る。寛文12年(1672年)、河村瑞賢が出羽国の米を江戸に運ぶべく西廻海運を確立すると、塩飽の島民はその運航を一手に担い、新井白石が奥羽海運記で「塩飽の船隻、特に完堅精好、他州に視るべきに非ず」と記した廻船に乗り、江戸や大阪など諸国の港を出入りする。廻船は金毘羅大権現の旗を掲げて諸国を巡ったと伝わり、これは金毘羅大権現が航海の神として広く知られた由来とする説がある。またこの頃に瀬居島沖のかなてと呼ばれた漁場を巡って高松藩と争い、幕府評定所で大岡忠相ら奉行から漁場は双方で共有せよとの裁決を受けている。享保6年(1721年)に、廻船の運航権を大坂の廻船問屋に奪われると、島民はそれまでの船大工の技術を生かし家大工や宮大工へと転身し、塩飽大工と呼ばれ瀬戸内海沿岸を中心に建築を行い、本島泊の大江紋兵衛常信は吉備津神社本拝殿、生の浜の橘貫五郎は備中国分寺五重塔と善通寺五重塔を建てる。なおこの頃を牛島極楽寺に残る塩飽島諸事覚は、「島内で暮らしを立てるのは難しく、男子は十二、三歳から他国で水夫をしたり、多くは大工職として近国に出稼ぎに出た」と記している。幕末の万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換すべく太平洋を横断した咸臨丸の水夫は、50名中35名を塩飽の島民が占める。慶応4年(1868年)1月、本島泊の人名と小坂の人名株を持たない間人(もうと)の間で人名株を巡って争いが生じ、小坂の漁師は泊の集落を襲い家々を打ち壊す。それに対して泊の人名は他の島からも人を集め小坂を焼き払い、小坂は18名の死者を出す。明治2年(1869年)に版籍奉還が行われ、その翌年の明治3年(1870年)に塩飽諸島が属した倉敷県は人名に対し「藩制改革により塩飽の領知高を没収し、朱印状はこれを還納すべし」と命じ人名制は終焉を迎え、その後も人名の子孫は地主や漁業権者としての特権を保持するが、太平洋戦争後の農地改革と漁業法改正により失われる。明治維新以降、神戸と横浜で西洋家具が盛んに作られる様になった。神戸では寺社大工集団の塩飽大工の一部が転職しその礎になったといわれている。戦後の島民は漁業を主な産業としていた。与島と小与島では良質の花崗岩が産出したので採石業が盛んであった。昭和63年(1988年)に瀬戸大橋が櫃石島、岩黒島、羽佐島、与島、三つ子島を渡って架かると観光業の振興が期待された。与島には750台の駐車場を備えた与島パーキングエリアが建設され、隣接して観光商業施設「フィッシャーマンズワーフ」が京阪電鉄によって建設された。オープン後数年は年間500万人を集客したが、ブームが過ぎると急激に客足が遠のいた。京阪電鉄は手を引いて建設会社に移管したが、客足は回復せず、2011年(平成23年)11月に閉鎖へ追い込まれた。閉鎖後はしばらく放置されていたが、2013年(平成25年)になって建物が解体された。フィッシャーマンズワーフ周辺も土産物屋などが便乗して建ったが、全て閉店している(一部は放置されて廃墟となっている。この辺りの説明は「与島」も参照)。小与島には「アクア小与島」というリゾートホテル(28室)が完成したが、オープン後間もなく運営業者が破綻して閉鎖され、2007年(平成19年)国税局によって3615万円で民間に売却された。与島の採石業は上記施設等に土地を譲渡する形で大幅に縮小した。小与島の採石業は資源の枯渇と海外からの安価な石材輸入によって圧迫され、輸入石材の加工がメインの産業となっている。
出典:wikipedia
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