金 泳三(キム・ヨンサム、、1927年12月20日 - 2015年11月22日)は、大韓民国の政治家。元大統領(在任1993年 - 1998年)。本貫は。号は「巨山」(コサン、)。略称はYS。実家は網元。日本統治時代における創氏改名時の日本名(1945年まで)は金村康右(かねむら こうすけ)。早稲田大学特命教授。称号は名誉法学博士(早稲田大学)。慶尚南道巨済島(現在の巨済市)出身。ソウル大学哲学科卒業。1952年に張沢相国務総理(当時)の秘書官に就いたのを経て、1954年第3代国会議員選挙で自由党候補として巨済にて立候補して、当時の最年少国会議員として当選、政界入りする。後に、自分のもとを訪れた日本の大学生達に「反日の話を相当しないと、当選できないような時代だった」と述懐した事がある。議員となって以後、長らくは野党の立場で活動し、軍事政権時代には『ニューヨーク・タイムズ』紙記者とのインタビュー記事等をめぐり国会議員除名(金泳三総裁議員職除名波動)となったり(1979年)、自宅軟禁を受けたりといった弾圧を受けたりもしたが、1970年代から1980年代にかけて金大中とともに代表的な野党政治家の一人であった。1985年3月6日に全斗煥大統領により政治活動を解禁される。1987年に全斗煥の退任に伴って行われた第13代大統領選挙にて金泳三と金大中が共に盧泰愚に敗北した後、1990年に、盧泰愚、金鍾泌と手を握り、三党合同に参加することとなる(盧泰愚の民主正義党、金鍾泌の新民主共和党、金泳三の統一民主党が合同し、巨大与党である民主自由党が誕生した)。この後、民主自由党の大統領候補となり、1992年の第14代大統領選挙にて大統領に当選した。朴正煕政権以来32年間続いていた軍事政権は消滅し、金泳三政権は文民政権と呼ばれることになった。金泳三は軍部政権の残滓を徹底して排除するため、軍内の派閥「ハナ会」を潰し、会員を退席させるなど、軍の改革を進めた。また、野党政治家や政治運動家などを積極的に登用し、国家安全企部長、外務大臣、統一院長官などに大学の教授を迎えた。さらには、高級官僚の不正の追及にも乗り出し、大法院院長や検事総長、警察庁長官などが辞任することになった。政治と経済の癒着を嫌悪し、「任期中はいかなる献金も受け取らない」と宣言、質素さをアピールするため、「青瓦台での昼食はカルグクスにする」と明言した 。また、歴代大統領が議員に配っていた「モチ代」の制度も無くすなど、政治の無駄の部分を排除していった。経済面でも、不正の温床となっている仮名口座での金融取引をなくすため、「金融実名制」を実施した。金泳三政権は「歴史の立て直し」を主張し、行動した。まず、対北朝鮮の懸案となっていた非転向長期囚李仁模を1993年3月19日に北朝鮮に送還した。次いで、1993年8月には旧朝鮮総督府の解体を決定。1995年8月15日には解体が行われた。1993年3月19日に北朝鮮が核拡散防止条約から脱退し、朝鮮半島全土に核危機が訪れるが、危機回避の会談はアメリカと北朝鮮間のみで行われ、韓国は一切手出し出来なかった。1994年7月8日に金日成が死去すると、金泳三政権は哀悼の意も表明せずに全軍に厳戒態勢を指示し、弔問のため訪朝しようとした勢力を弾圧。朝鮮半島情勢が一時期悪化した。1996年9月18日に発覚した江陵浸透事件に際しては、翌月の1996年10月1日の「建軍四八周年祝賀演説」にて、金泳三は対北朝鮮政策の軍事的見直しを発表している。日本に対しては、常にその歴史認識を問題にし、1995年11月14日には、当時の中華人民共和国・江沢民国家主席との会談の中で、「日本の腐った根性(朝鮮語:ポルジャンモリ、日本語で「バカたれ」などに相当する、上の立場の者が下の者を叱る朝鮮語の俗語)を叩き直してやる!」などと発言したこともあり、常に反日的な姿勢を顕著にしていた。この発言に対しては、日本の対韓感情が悪化しただけでなく、韓国内からも批判の声が上がった。また、現在まで続く両国の領土問題である竹島問題についても、任期中の1995年に大韓民国政府として強硬態度を打って出た。この際、韓国政府は「日本をしつけ直す」と、自らの立場が上であるとの自負のもとに大々的にキャンペーンを行い、韓国国内では歓喜をもって迎えられた。就任前後に、日本で高まった「統一教会による誘拐事件」への対応では、日本側に不興の声も上がった。また、いわゆる「光復」50周年を記念して行われた歴史立て直し事業では、上述の旧朝鮮総督府解体のほか、風水に基づく全国規模での鉄杭除去などを推進した。任期終盤の1997年、東アジアや東南アジア各国を襲った経済危機(アジア通貨危機)にて、韓国も起亜自動車の倒産を皮切りに経済状態が悪化。国際通貨基金(IMF)の援助を要請する事態となったことは韓国国民からは恥辱的とも受け取られ、そのまま任期で大統領を退任した。IMFの指導を受け入れる前、日本から単独金融支援を獲得して事態を彌縫しようとつとめたが、これは拒絶された。このような経済政策の失敗から、1999年6月3日午前には日本に向けて出発しようと金浦空港に着いて沿道の人々と握手をしていた時、71歳の男がペンキ入りの卵を金泳三の顔に炸裂させるという事件が起きた。彼の顔とスーツが真っ赤に染まった姿は世界中に配信され、男は「金融危機を招き、国を危機に陥れた罪を償い、深く反省しなければならない」と叫びながら、「IMF事態にまで国を滅ぼした金泳三は、国民に対して謝罪しなければならない」という内容のビラをばら撒いていた。この事件には、一部の国民の間には拍手を送るような雰囲気すら感じられた。直情径行の面があり、退任後の行動などでも韓国国民の不評を買う場面もあり、現在の韓国内の評価は高くないとも言われる。2002年より早稲田大学の特命教授に就任。公共経営研究科への特別講義や大学全体への公開講演会の開催など年に約2回の訪日時には、本人は「もう大分忘れてしまった」と謙遜気味に語ってはいるが、流暢な日本語での講義を受け持っており、テレビ出演もしている。2015年11月22日午前0時21分、ソウル大病院で死去。87歳没。
出典:wikipedia
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