ニューギニア沖海戦(ニューギニアおきかいせん)は太平洋戦争中の1942年2月下旬に発生した日本海軍とアメリカ海軍との間の海戦。日本海軍が占領したばかりのラバウルへアメリカ艦隊(空母機動部隊)が出撃、日本軍は基地航空隊がこれを迎え撃つも大損害を生じた。一方、アメリカ機動部隊も作戦目的(ラバウル空襲)を放棄して撤退した。オーストラリア委任統治領のニューブリテン島ラバウルは、天然の泊地やオーストラリア軍が設営した飛行場を擁していた。日本軍は、トラック諸島根拠地の防衛と米豪遮断作戦の構想に基づき、ラバウルを奪取する必要性を見出していた。1942年(昭和17年)1月20日から22日にかけて日本軍は第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将指揮下の大型空母4隻(第一航空戦隊《赤城、加賀》、第五航空戦隊《翔鶴、瑞鶴》)以下の南雲機動部隊をニューアイルランド島沖合の北東とビスマルク海に進出させ、21日にニューギニア島のラエ、サラモアを空襲した。この方面に連合軍は有力な艦隊や基地航空隊を配していなかった。南洋部隊指揮官井上成美中将(第四艦隊司令長官)指揮下の艦艇群と第24航空戦隊(司令官後藤英次少将)、さらに日本陸軍南海支隊(堀井富太郎少将)もラバウル(ニューブリテン島)とカビエン(ニューアイルランド島)への進撃および空襲を開始(陸軍輸送船団は第十九戦隊司令官志摩清英少将指揮下の艦艇に護衛され、1月14日にグアム島出発)。1月22日-23日、日本軍はカビエンとラバウルに上陸し、これを占領した。アメリカ軍は真珠湾攻撃の影響から戦艦部隊の出撃は行えず、空母機動部隊によるマーシャル・ギルバート諸島機動空襲など散発的な反撃を行っていた。2月15日、シンガポールは陥落(シンガポールの戦い)。これにより日本軍の攻勢が続き、ラバウルを拠点としてニューカレドニアやニューヘブライズ諸島に進撃するのではないかと恐れたアメリカ合衆国やオーストラリアは、アメリカ海軍の投入を決定。ウィルソン・ブラウン海軍中将指揮の大型空母レキシントンを基幹とした機動部隊を中将を司令官とするに編入し、ラバウルに奇襲攻撃を敢行することにした。1942年(昭和17年)2月20日朝、哨戒中の日本軍九七式飛行艇(指揮官坂井登中尉。横浜海軍航空隊所属)がアメリカ艦隊を発見、空母1・巡洋艦4・駆逐艦10を報告した。第四艦隊(司令長官井上成美中将)は麾下の第24航空戦隊に対し、ただちに航空攻撃を下令。またトラック泊地やマーシャル諸島に分散展開していた第四艦隊麾下航空部隊にも米軍機動部隊攻撃を命じた。第24航空戦隊司令官の命令を受けた第4航空隊司令森玉賀四大佐は、陸攻による攻撃を決意。12時20分、日本軍はラバウルから第四航空隊の一式陸攻17機(指揮官、飛行隊長伊藤琢蔵少佐)を発進させた。当時のラバウルにおける24航戦兵力は、陸攻18、九六式艦上戦闘機14、零式艦上戦闘機13、飛行艇12と報告されている。このうち零戦6機は空母「祥鳳」により輸送され2月17日到着したばかりだった。また千歳海軍航空隊が装備する九六艦戦用の増槽や、陸攻用の対艦攻撃装備(魚雷)は到着していなかったため、戦闘機の護衛はなく、陸攻の対艦武装も爆装のみであった。このため飛行艇による黎明雷撃を敢行することにした。当時のニューアイルランド島東方の天候はよくなかったが、日本軍攻撃隊は九七式飛行艇(敵艦隊発見後、行方不明)や、聖川丸所属零式水上偵察機(松井由五郎飛行兵曹長指揮)の誘導により米軍機動部隊を発見する。1415時、飛行隊長伊藤少佐は全機に突撃を下令。第2中隊9機が攻撃を開始したが命中弾はなく、F4F戦闘機隊14機の迎撃と対空砲火で第2中隊は全滅。1500時には第1中隊8機が攻撃を開始したがレキシントンに至近弾が1発あったのみで4機を失った。さらに2機は不時着して攻撃は終了した。ラバウルに帰投した陸攻は被弾損傷した2機のみ(15機喪失)と大損害を受けた。。索敵の九七式飛行艇(坂井機)と零式水上偵察機(松井飛行兵曹長)も未帰還となった。日本側(第24航空戦隊および第四艦隊長官井上成美中将)はサラトガ型を含む空母2隻を攻撃し、写真判定により空母1隻撃沈他数隻に損傷を与えたと誤認。第24航空戦隊はワスプ型航空母艦と認識している。連合艦隊に伝達された日本側戦果は巡洋艦1隻もしくは駆逐艦1隻航行不能であり、連合艦隊参謀長宇垣纏少将は「遺憾千萬とか云はん」「來るなら今度こそと思ふが攻撃機の被害甚大なるは如何にも残念なり」と記述している。同日13時すぎ、第四艦隊司令長官井上成美中将は航空攻撃に呼応して、水上艦艇部隊により米軍機動部隊の攻撃を企図。旗艦「鹿島」および敷設艦「沖島」(第十九戦隊司令官志摩清英少将)、五藤存知少将指揮下の第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)、丸茂邦則少将指揮下の第十八戦隊(天龍、龍田)を率いてトラック泊地を出撃し、別行動中の第六水雷戦隊や、航空機輸送任務中の祥鳳隊(空母祥鳳、駆逐艦帆風)にも合流を命じた。当初の情報によると米空母は3隻であり、加古艦長は「勝算のない出撃はいやなものだ」と回想している。2月21日、日本側はラバウル東北方面を索敵するが、米軍機動部隊を発見できなかった(第11任務部隊は退避)。2月23日以降、第四艦隊指揮下各艦はトラック泊地に戻った。空戦には勝利を収めたアメリカ機動部隊であったが奇襲が失敗したことは明白となり、燃料の消費も著しかったことから、作戦目的であるラバウルへの空襲は中止とし撤退行動に移った。しかしアメリカ軍が同方面における行動を断念したわけではなく、ハルゼー提督率いる機動部隊(空母エンタープライズ基幹)で2月下旬以降のウェーク島空襲や南鳥島空襲を実施。つづいて空母2隻(レキシントン、エンタープライズ)により再度のラバウル空襲を予定していたが、3月8日の日本軍ニューギニア島要所2地点(ラエ、サラモア)に対する上陸作戦(ラエ・サラモアの戦い)を受けて、急遽同地点に対する空襲を実施。第六戦隊旗艦「夕張」以下日本軍に大損害を与えた(ラエ・サラモアへの空襲)。本海戦は戦闘機の掩護のない攻撃隊が大損害を受けることを立証した。奥宮正武(太平洋戦争中第四航空戦隊参謀、第二航空戦隊参謀等)は本海戦について『しかし、この陸攻隊の大きな犠牲は、決して無駄ではなかった。(中略)ラバウルの被空襲を防いだ点からだけでも、伊藤攻撃隊の功績は正しく評価さるべきであろう。』と述べている。日本軍の機動部隊は2月15日にパラオを出航して豪本土ポートダーウィン空襲に向かうためバンダ海にあり、すぐさま反撃できなかった。日本軍は第24航空戦隊の報告をうけて空母1隻撃沈、艦型不詳1を撃沈、敵戦闘機10機撃墜、味方損害9機との大本営発表を行い、この戦いをニューギニア沖海戦と呼称した。連合艦隊参謀長宇垣纏少将は、第24航空戦隊からの戦果報告(誤認)を受けて陣中日誌「戦藻録」に以下のように記述している。基地航空機(在ラバウル)第11任務部隊
出典:wikipedia
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