藤原 忠教(ふじわら の ただのり)は、平安時代後期の公卿・歌人。摂政関白太政大臣・藤原師実の五男。居住地に因み四条中納言あるいは四条民部卿と号した。応徳3年(1086年)従五位下に叙爵。美作守・尾張守を経て、寛治5年(1091年)左近衛権少将に任ぜられる。寛治7年(1093年)斎院長官、寛治8年(1094年)従四位下、嘉保3年(1096年)左近衛中将に叙任ののち、康和元年(1099年)蔵人頭に任ぜられ、翌康和2年(1100年)従三位・参議に叙任され公卿に列す。天永2年(1111年)権中納言、保安3年(1122年)権大納言を経て、大治5年(1130年)正二位、保延2年(1136年)大納言に至る。この間、議政官として左右中将・讃岐権守・右兵衛督・検非違使別当・民部卿などを兼任した。また、太皇太后宮大夫・中宮大夫として、太皇太后・藤原寛子(後冷泉天皇后)や中宮・藤原聖子(崇徳天皇后)にも仕えた。保延7年(1141年)3月に病により鳥羽上皇と同日に出家。法名は覚禅。同年10月25日薨去。享年66。和歌に優れ、寛治7年(1093年)郁芳門院根合や、康和4年(1102年)堀河院艶書合などの歌合に出詠。勅撰歌人として『金葉和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に8首が入集している。また、笛にも秀で、当時の御遊にて笛を吹いた回数は同時代の名手藤原宗輔に次いだ。一方で、素行に問題があり、粗暴な振る舞いが多く、度々乱闘騒ぎを起こしたという。
出典:wikipedia
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