立石(たていし)は、東京都葛飾区の地名。現行行政地名は立石一丁目から八丁目。住居表示実施済み区域である。人口は21,761人(2005年3月1日現在)。郵便番号は124-0012。葛飾区中西部、中川の西岸に位置し、亀有の約3km南方にある。葛飾区役所の所在地でもあり、葛飾区の行政の中心地を担っている。町域は西は国道6号を、南西部は東京都道308号千住小松川葛西沖線(平和橋通り)を境に四つ木に接している。南は奥戸街道を境に東立石に、東は中川を境に奥戸にそれぞれ接している。町の北東にある京成本線は青戸との町界になっている。町域内を京成押上線が貫いており、その中間付近に京成立石駅がある。駅前は現在、立石仲見世商店街の他、立石駅前通り商店街、スーパーマーケット(イトーヨーカドー立石店)などがひしめく状態であるが、周辺の路地は車の通行が困難なほど狭く、駐車スペースもほとんどない。一方、建物の老朽化などの観点より京成押上線の高架化に合わせた駅前の大規模再開発も検討されている。町内の商業エリアとしてはこのほか、区役所周辺(ホームピック・サミット・コジマなど)、奥戸街道沿いなどがある。周辺は、もともとは中小の工場が多い土地柄であったが、近年はその跡地を利用したマンション建設が盛んである。町内には葛飾区役所、葛飾税務署、葛飾警察署、かつしかシンフォニーヒルズ(文化会館)、葛飾保健所、葛飾エフエム放送などの公共施設が集中しており、葛飾区の行政上の中心地である。町名の由来となった立石様、安倍晴明が勧請したと伝えられる立石熊野神社などの史跡がある。一方、東立石は中川湾曲部に囲まれた袋状の地域で、町内には本田消防署(ほんでんしょうぼうしょ)、渋江公園などがある。なお、現在の立石・東立石・四つ木・東四つ木・宝町を合わせた地域は、1965年から1966年に住居表示が実施されるまで本田(ほんでん)と呼ばれていた。消防署の名はこれに由来している。住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、立石5-23-2の地点で30万4000円/mとなっている。古墳時代には既に拓けていたと考えられており、立石様の周辺には古墳(南蔵院裏古墳)が存在していた(この古墳は明治時代に破却された)。立石様自体も近郊の古墳の石室と同質の房州石(凝灰岩)であることが解っており、このころ千葉県鋸山付近より同地に持ち込まれ、奈良・平安時代には立石付近を横断していた古代の官道(東海道)の道標として転用されていたと考えられている。室町時代の1398年(応永5年)に記された「下総国葛西御厨注文」に地名としての立石が初めて登場する。江戸時代、西葛西領のうち主に新田開発前から田畑のあった立石地域は隣接する向島地域とともに本田筋に区分されていた。この時代、この地域は米のほかにウリ(本田ウリ)やその他の農産物を江戸に供給する農村地帯であった。明治に入り、行政上、東京府南葛飾郡に属することとなる。1889年(明治22年)4月、町村制施行によって江戸時代より続く立石村、梅田村、川端村、原村、中原村、淡之須村、篠原村、渋江村、四ツ木村、宝木塚村などの約十カ村を合わせて南葛飾郡立石村が成立した。この際、合併前の村名は大字名として存続した。その後立石村は1890年(明治23年)に本田村と改称したのち、1928年(昭和3年)3月1日には町制を施行し、本田町となった。一方、近代化に伴い、それまでの農村地帯は急激に変貌を遂げていった。1912年(大正元年)には京成電気軌道が開業し、京成立石駅が開設されたことで、東京市部との移動が容易になった。また、1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災では本所、深川、浅草などから発生した罹災民が比較的距離の近い本田村へ流入し、以降地域は急速に人口増加・宅地化した。なお現在でも、奥戸街道沿いなど方形に整然と区画整理されている地域がみられるが、これらは1922年(大正11年)頃から昭和初年にかけて、宅地化を目的に行われた耕地整理事業の産物である。また同時期に工業化も進み、1914年(大正3年)には現在の渋江公園の位置で、千種セルロイド工場が操業を始めた。これがこの地域における玩具産業の嚆矢となり、その後多くのセルロイド工場が立石、四つ木地域に集まってきた。現在でも、玩具産業の割合が高いのがこの地域の工業の特色の一つとなっている。更に中川の水が利用できたことから、染色工業なども発達した。1932年(昭和7年)10月の東京市への編入、葛飾区の誕生により本田町は近隣の4町2村と合併した。それまで本田町内にあった各地域(以前の大字)はそれぞれ本田立石町、本田梅田町などと「本田」を冠して呼ばれるようになった。区役所は当初、現在の立石図書館付近にあった旧本田町役場を使用していたが、1937年(昭和12年)、本田中原町の現在のかつしかシンフォニーヒルズの位置に新築移転した。1945年(昭和20年)2月、青戸の高射砲陣地(現・白鳥三丁目10番)などで応戦中に発射された砲弾がB-29一機に命中したのに呼応し、始まった空襲で葛飾区役所や京成立石駅周辺が焼失している(命中したのは小岩陣地の砲弾ではないかとも言われている)。立石の戦後復興は早く、ほどなく駅周辺の焼野原に闇市が自然発生的に現れた。また、低湿地帯に属する立石地域は過去幾度もの洪水に見舞われる地域でもあった。その災害史の中でよく知られるのが1947年(昭和22年)に発生したカスリーン台風による被害であり、このときは町域の多くが水没した。1960年(昭和35年)になると、京成電鉄が都営地下鉄1号線(現・浅草線)との相互直通運転を開始し、浅草や国鉄駅(浅草橋駅)への鉄道での直接アクセスが可能になった。また、1961年(昭和36年)には葛飾区内初のスーパーマーケットであるイトーヨーカドーがオープンしている。1962年(昭和37年)5月には、葛飾区総合庁舎(葛飾区役所、区議会議事堂など)が落成した。跡地は一旦、区体育館などになった。1966年(昭和41年)、住居表示の実施により、従前の本田梅田町、本田町、本田立石町、本田中原町などの区域をもって現行の立石一丁目から八丁目が成立した。また、前年の1965年(昭和40年)には従前の本田原町、南立石町、本田川端町などの区域をもって東立石一丁目から四丁目が成立した。地名は、立石八丁目にある立石様という石に由来する。この立石様は、現在児童公園に併設する祠の中心に鎮座している。付近にかつて古墳があったことやその材質(房州石という凝灰石の一種)から、古墳の石室などと同様、千葉県鋸山付近より同地に持ち込まれたと推定されている。また、奈良・平安時代には立石付近を横断していた古代の官道(東海道)の道標として転用されていたと考えられている。江戸時代には高さ60センチ以上あり、「根有り石」とも呼ばれていた。名所として諸本(兎園小説、明細帳、江戸名所図会など)にも登場し、立石様の根を掘ったことで災いが起きたなどの伝説を生んでいる。後に、立石様を欠いて持つと病気に効くという信仰や日清・日露戦争時に弾よけのお守りとして欠いて持つ人が現れたこと、また地盤沈下などの結果、現在では地表より数センチ程度の高さしかない状況である。京成立石駅は高架化が予定されている。京成押上線京成立石駅を中心とした生活エリアをまとめて立石または京成立石(けいせいたていし)と呼ぶこともある。この場合、行政上の町名でいえば立石や東立石などがほぼ該当する。都営バス、京成タウンバス、京成バスの各バス路線がある。京成バス新小53系統を利用した新小岩駅、亀有駅からの所要時間はいずれも15-30分程度である。
出典:wikipedia
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