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魏志倭人伝

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。『三国志』の中に「倭人伝」という独立した列伝が存在したわけではなく、「東夷伝」の中に倭及び倭人の記述がある。従って倭人に関する条のみならず、東夷伝のすべてを通読しなければ意味がないという考え方もある。さらに、『三国志』の研究者である渡邉義浩は「『三国志』の著者である(二三三~二九七年)の世界観や政治状況は、約三十七万字に及ぶ『三国志』(それに付けられている〔三七二~四五一年〕の注は、本文に匹敵する約三十六万字)のすべてに目を通すだけではなく、世界観を形成しているのに通じなければ分からない」と述べている。中国の正史中で、はじめて日本に関するまとまった記事が書かれている。『後漢書』東夷伝のほうが扱う時代は古いが、『三国志』魏志倭人伝のほうが先に書かれた。なお講談社学術文庫『倭国伝』では『後漢書』を先に収録している。当時の倭(後の日本)に、女王の都する邪馬台国(邪馬壹国)を中心とした国が存在し、また女王に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。また、本書には当時の倭人の風習や動植物の様子が記述されていて、3世紀の日本を知る史料となっている。しかし、必ずしも当時の日本の状況を正確に伝えているとは限らないことから、邪馬台国に関する論争の原因になっている。また一方で、岡田英弘など『魏志倭人伝』の史料としての価値に疑念を投げかける研究者もいる。岡田は位置関係や里程にズレが大きく信頼性に欠ける点を根拠として挙げている。渡邉義浩は『魏志倭人伝』には「卑弥呼が使者を派遣した当時のの内政・外交や史家の世界観に起因する、多くの偏向(んだ記述)が含まれている」と指摘している。現存する数種の版本のうち、清の時代の19世紀の影印本「百衲本」(南宋期の版本の影印)が最も善本とされる。活字本としては現在の中国で諸本を校訂し、句読点を付した「中華書局本」が(初版1959年、北京)、日本でも入手可能である。また、返り点をつけたものとして、講談社学術文庫『倭国伝』がある。「倭人伝」は、影印本の写真版を見れば段落もなく書かれているが、中華書局版と講談社学術文庫版では6段落に分けられている。内容的には、大きく3段落に分けて理解されている。元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる「倭国大乱」と考えられている)。そこで、卑弥呼と言う一人の少女を女王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。卑弥呼は、鬼道に事え衆を惑わした。年長で夫はいなかった。弟が国政を補佐した。王となって以来人と会うことは少なかった。1000人の従者が仕えていたが、居所である宮室には、ただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをした。樓観や城柵が厳めしく設けられ、常に兵士が守衛していた。卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬された。その後男王が立てられるが人々はこれに服さず内乱となり1000余人が死んだ。そのため、卑弥呼の後継者(宗女)である13歳の少女の壹與が王に立てられ国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したものと考えられる。3世紀半ばの壹與の朝貢の記録を最後に、5世紀の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)まで150年近く中国の史書からは倭国に関する記録はなくなる。この間を埋めるものとして広開土王碑がある、碑には391年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦ったとある。「魏志倭人伝」によると、倭人は山島に依って国邑とし、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。国名や官名には諸説がある。の原文の抜粋とその日本語訳を示す。女王国の以北にある、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国と投馬国、邪馬台国の他に、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国が記録されている。また、南の狗奴国の男王卑弥弓呼とは不和との記録もある。奴国は2回記されているが同一の国とする説と別の国とする説がある。の原文の抜粋とその日本語訳を示す。の原文の抜粋とその日本語訳を示す。倭国への道程を文字どおりに距離を測ると日本列島を飛び越えて太平洋の海の上になってしまうため、邪馬台国の位置や道程の比定は決定的な説がない。位置についての有力なものに畿内説と九州説がある。道程についても「連続説」と「放射説」がある(邪馬台国#位置に関する論争を参照)。范曄の『後漢書』「東夷伝」に、倭についての記述がある。その内容は「魏志倭人伝」と共通点があるが、『後漢書』倭伝には「魏志倭人伝」には年代が特定されていない「桓霊間倭國大亂」等の記事もある。

出典:wikipedia

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