ミッキーマウス ("Mickey Mouse") は、ウォルト・ディズニーとアブ・アイワークスが、1928年(昭和3年)11月18日に生み出したアメリカ文化のシンボル的キャラクター。ウォルト・ディズニーはに置いていたスタジオが破産し、ヒットアニメ『フィリックス・ザ・キャット』を模造したキャラクター「ジュリアス・ザ・キャット」を用いた実写合成の短編『アリス・コメディース』を作成していた。『フィリックス・ザ・キャット』の作成者パット・サリバンによる抗議を受け、1927年ミンツは『オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット』への制作変更をディズニーへ指示する。ミンツがユニヴァーサルでの配給に成功し製作費の値上げをディズニーが求めた。翌1928年3月に交渉が決裂しディズニーは契約更新を拒否されディズニー、アブ・アイワークス、ウィルフレッド・ジャクソンは『オズワルド』の製作を継続しながら別作品の企画をすることを余儀なくされた。『オズワルド』はポール・テリーの『クレージー・キャット』を元にアブ・アイワークスがデザインしたものである。多くのスタッフが作画にかかわるアニメーション作品において円滑にかつ素早く作画する目的で、円定規と楕円定規で簡単に描けるようデザインされたと言われる。ディズニーは主としてプロデューサーでありアニメーターではなく、「ディズニーは飼いならしたネズミをよく研究し、彼が醜いと思っていた耳・口・足などを大きくしポイントを付け1927年にミッキーマウスを考案した」という一般に知られるエピソードは架空の話である。アブ・アイワークスはミッキーを奪ったとしだいに共同経営者のディズニーを憎むようになり、ディズニーと決別し自身のスタジオを持つに至る。ウォルトは元々ミッキーをモーティマーと名付けるつもりだったが、妻リリアンの一声で現在の名前になった。その代わりにミッキーの恋のライバルであり、ミニーマウスの幼なじみとして、モーティマー・マウスが登場する。恋人はミニーマウス。愛犬はプルート。甥っ子にモーティーとフェルディーがいる。実際の第1作はチャールズ・リンドバーグに因むヒット作『フィリックスのノンストップ飛行』のパロディ『プレーン・クレイジー(飛行機狂)』である。第2作は『ギャロッピング・ガウチョ』。どちらもサイレントで配給ルートも得られずまったく相手にされなかった。1928年11月18日、第3作アニメーション映画『蒸気船ウィリー』がトーキーで成功。当時ウォルトが声優を務めていた。その後映画はシリーズ化されミッキーは一躍人気キャラクターとなった。1939年、「ミッキーの猟は楽し」以降キャラクターデザインが変更された。それまでは黒目がちであったが、この変更により白目が付いた。耳 : 耳の形を整えるため耳にのり(ワックス?)付けしているらしい(ハウス・オブ・マウス#25より)。ミッキーは耳の中まで脳みそがつまっている(『ミッキーのアルバイトは危機一髪』(Runaway Brain)より)。1978年、ミッキーマウスは架空のキャラクターとして初めて、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにその名前の刻まれた星形のプレートを設置された。そこには、ウォルト・ディズニー、白雪姫、ドナルドダック、ディズニーランド50th記念などのスタープレートもある。50th記念のものには特別に普通のスタープレートにはない、お城のメダルが埋め込まれている。ディズニーはオズワルドの版権をユニバーサルに奪われた経験を受け、それ以降知的財産権と他者からの侵害行為に厳しくなり、特に筆頭キャラクターとしてミッキーマウスの著作権は厳正に管理されている。アメリカ合衆国の著作権法は“(皮肉の意味を込め)ミッキーマウス保護法”とも呼ばれており、そのような体制を批判する団体や企業もあるが、「ミッキーマウス」および他の「キャラクター名」や「作品名」も含め一律に「商標」として保護され、半永久的に保持できるため、たとえ著作権が切れたとしても(その他の知的財産権が残るため)、商用目的として自由な使用はできない。著作権は国ごとに保護期間が違うため、日本では1953年以前の映画で団体名義の場合著作権が有効なのは公表後50年である(なお、アメリカの戦前作品は戦時加算により約10年延長されている)。ミッキーマウスが初登場した「蒸気船ウィリー」は保護期間が1989年の前後に終わっていると推定される。日本では実際に「ファンタジア」「ダンボ」などをアプロック社がパッケージに「パブリック・ドメイン」と明記した上で販売。ディズニー社は「法令遵守で厳正」なことが評価されているため、各国のコンプライアンスに重点を置いており、アプロック社がパッケージにする際も「ディズニー映画を出しているブエナビスタ社に事前に『出す』旨を宣言した。『やめてくれ』と言われなかった」と証言している。ウォルト・ディズニー・ジャパン社は「著作権に関する方針や見解は公表しない」との方針を採っており、自社のウェブサイトでもキャラクターや作品に対する知的財産権の方針を明確にしていない。日本にミッキーマウスが紹介されたのは「蒸気船ウィリー」が公開された翌年の1929年のことで阪和電気鉄道(現在のJR阪和線)が1935年頃に発行した「天恵の楽園」砂川遊園(1940年閉園)のパンフレットのキャラクターに用いられていた。日本オリジナルのミッキーマウス関連の楽曲として、1934年には「ミッキー・マウスの結婚」(作詞:佐伯孝夫 作曲:加藤しのぶ 歌:平井英子 & 藤山一郎)、1935年頃には「ミッキーマウス」(歌:望月誠)などが発表された。子年だった1936年には、ミッキーマウスを描いた年賀状などの葉書が見受けられており、都市部ではかなり知名度が高かったと思われる(その後子年にちなんで2008年の年賀はがきにミニーマウスと共にデザインとして印刷された)。また、この年の元旦の大阪朝日新聞にはミッキーマウスが描かれた味の素の新聞広告が掲載された。慶應義塾大学の旧マスコットキャラクターであった。慶應義塾のシンボル1983年に東京ディズニーランドが開業する以前は、日本でのディズニーキャラクターの人気はミッキーマウスよりバンビやピノキオのほうが上だった。1988年京葉線一部開業(第二期)の式典にゲストとして招かれた。1997年秋田新幹線開業の時にはミニーマウスも連れて式典に来た。日本のディズニー・チャンネルはミッキーマウスの誕生日にあわせて2003年11月18日に本放送を開始した。『M-1グランプリ』の2005年の第5回では決勝進出9組(敗者復活含む)のうちの1組であるタイムマシーン3号が披露していたネタで「ミッキーマウス」のパロディネタとして「ニックーマウス」という言葉を発していた(彼らはデブを題材としたネタをやっていたため、他にも「両国デブニーランド」、東京ディズニーランド・エレクトリカルパレードのメロディを使った替え歌等の他のディズニー関係のパロディネタも披露していた)。ヴェルサイユ宮殿の庭園を上空から見ると庭園がミッキーマウスの顔の形に見える。日本で衛星写真の映像を見た人の指摘で判明した。
出典:wikipedia
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