江川 宇礼雄(えがわ うれお 本名 江川ウレオ、ウィリー・メラー 1902年(明治35年)5月7日 - 1970年(昭和45年)5月20日)は、神奈川県出身の俳優、映画監督、脚本家。愛称は「ウレシュウ」。1902年(明治35年)、ドイツ人の医学者・薬問屋フリードリッヒ・ウィリアム・メラーの次男として横浜に生まれる。幼い時に、両親が離婚。父は長男を連れてドイツに帰国、母にひきとられた江川は本名を「ウィリー」から「ウレオ」に改名した。1915年(大正4年)に神奈川師範附属小学校を卒業、セント・ジョセフ・カレッジ普通科にすすむが、混血児であることから不当な差別を受けてぐれてしまい、その頃には横浜界隈では有名な不良少年となっていた。第一次世界大戦の最中の1917年(大正6年)3月に「敵国ドイツ人の子供」ということで、放校処分になる。その後は高輪中学(現・高輪高等学校)に入り1920年に卒業する。同年9月に谷崎潤一郎が文芸顧問を務めている大活に入社。その後、江川は谷崎に大変可愛がられたといい、谷崎の初期作品には江川をモデルとしたものがある。映画界では、「ウレシュウ」の愛称で親しまれた。当初、江川は監督志望だったが、大活の経営状態が悪化し、高松プロ、小笠プロなどを渡り歩き、映画仲間の内田吐夢、井上金太郎、渡辺篤、二川文太郎と共に牧野教育映画に入り、1921年(大正10年)の「兄弟仲は?」で映画初出演する。その後は監督助手に回るも、映画館の営業主任などを務めた。1923年(大正12年)、仲間との窃盗容疑で逮捕され、年末懲役一年の判決を受けるが、里見弴、久米正雄、佐藤春夫らがその文才を惜しんで減刑嘆願を行い、24年(大正13年)3月、控訴審で執行猶予がつく。1927年(昭和2年)、現代劇を制作していた阪東妻三郎プロダクションで、念願だった初監督作品として「夜の怪紳士」を撮る(脚本兼任)。以後監督業に専念して、「紅蓮地獄」(原作は今東光)などを撮った。しかし、その後は不遇が続き、1931年(昭和6年)に高田稔の紹介で俳優として松竹蒲田撮影所に入社。当初脇役として過したのち、主演級に抜擢され、以後島津保次郎、小津安二郎の作品などに主演し続ける。1934年(昭和9年)9月、岡譲二、逢初夢子らと松竹蒲田を脱退し、「協同映画」を設立、日活と提携する。同社で「多情仏心」(原作は里見弴)に出演。1935年(昭和10年)、日活多摩川に、岡譲二らと並ぶ主演スターの一人として入社する。この頃の代表作に「ジャズの街かど」「海国大日本」「丸髷と文学」がある。1940年(昭和15年)に東宝に移り、大作「熱砂の誓い」に準主役として出演する。戦後は新東宝で活躍し、1957年(昭和32年)にフリーとなった。テレビ出演も多く、特に1966年(昭和41年)のTBS「ウルトラQ」での一の谷博士役が有名。1965年(昭和40年)に江川の一人娘が結婚する際、江川は妻子を連れてドイツに行き、父に引き取られ生き別れになっていた兄と再会、父の墓参を果たしたという。その5年後の1970年(昭和45年)、68歳で世を去った。1922年(大正11年)、京都一商に通学していたマキノ雅弘は、御陵参拝の行事を父親のマキノ省三のロケに行くと言う命令で休まされ、四条小橋で『人は人道』のロケに出ているのを級友たちに見つかってしまい、退学処分となってしまった。省三は担任あてに手紙を書いたが相手にされず、雅弘はそのまま学校を飛び出した。すると表には雅弘を心配して、今道潤三をはじめ、内田吐夢や漠与太平、江川らが集まっていた。彼らは校長室に直談判に行き、退学処分を撤回してくれた。稲垣浩は親友で、阪妻プロで二人が出会った時は稲垣は俳優、江川は助監督と、後と立場が逆だった。当時月給20円と貧しかった江川は稲垣にカツ丼をおごってもらってから親しくなり、煙草や食事も二人で分けるほどになった。阪妻プロで1927年(昭和2年)にチーフ助監督となったとき、稲垣と伏見信子の主演で『九番倉庫』という脚本を書き、これがヒットしたため、会社から「すぐに第二作の脚本を書け」と言われたが、江川は「監督をさせてくれるなら書きます」と返答。こうして『夜の怪紳士』という無国籍物の映画で監督デビューとなった。稲垣はこの映画で西条香代子と恋人役を演じることになったが、大柄な西条と小柄な稲垣では画にならず、稲垣の提案でソファーでラブシーンを撮ることになった。江川は雰囲気を出すため自らヴァイオリン(あまり上手でない)でトロイメライを弾いて、苦心してこのシーンを撮ったという。江川と稲垣はその13年後の1939年(昭和14年)に日活京都の『尊王村塾』で立場を逆転させて再会した。この映画は赤倉温泉スキー場がロケ場所となったが、稲垣監督はスキー経験がなかった。そこで江川が用具の見立てから足腰の鍛錬法、ワックスによる手入れ、滑降術など、4週間のロケ中に指導してくれた。江川自身は一度も滑らなかったが、おかげで稲垣はスキーが滑れるようになった。ところがのちに稲垣は日活多摩川の人から「ウレさんはスキーどころかダンスも踊れませんよ」と言われ、驚いたという。若いころ、酒に酔うと看板や電柱、ポストなどを舐めまわす奇癖があった。助監督だったころに稲垣と神戸ロケがあり、飲みに行った後、当時元町を走っていた市電が舐めたいと言って走り出し、稲垣を慌てさせた。当時稲垣はまだ酒が飲めず、終始江川のお守り役だったので、なんとかなだめて駅前の旅館まで連れ帰ったものの、柵の向こうの貨物列車を見つけるや、いきなり柵を乗り越えて列車を舐めはじめた。その挙句、「ああ、これで今夜は楽しく眠れるぞ」と顔を煤で真っ黒けにしながら眠りについたという。これだけのことをしながら、翌朝はいつも何も覚えていないのだという。里見弴とは谷崎潤一郎の縁で以前から親しく、里見原作の「多情仏心」に登場した不良少年西山普烈は江川がモデルだという。1934年に映画化された際は、江川自身が西山を演じた。喜劇役者の森川信は江川の後輩で、森川曰く、“硬派でとてもこわい先輩”だったという。仲間内では「一に草人(上山草人のこと)、二に宇礼シュウ、三、四がなくて、五に馬の何某」という地口があるほど、男性器の大きさは有名だったという。チオクタンW(藤沢薬品工業)麦と兵隊
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