千賀ノ浦部屋(ちがのうらべや)は、日本相撲協会に所属する貴乃花一門の相撲部屋。1989年(平成元年)7月場所限りで引退して春日野部屋の部屋付き親方となっていた年寄・19代千賀ノ浦(元関脇・舛田山)が、2004年9月27日に春日野部屋から分家独立して千賀ノ浦部屋を創設した。独立に際しては、拓殖大学の後輩である幕内力士の栃乃洋を内弟子として引き連れる予定であったが、年寄株の譲渡の問題で話がまとまらずに栃乃洋は春日野部屋に留まることになった。同じ拓殖大学の後輩である幕下・栃の山(現・世話人)はこの時に春日野部屋から千賀ノ浦部屋へ移籍している。2010年11月場所に舛ノ山が新十両へ昇進し、部屋史上初となる関取が誕生した。2014年6月25日には出羽海部屋から13代稲川(元小結・普天王)が移籍して部屋付き親方となった。2016年4月10日に19代千賀ノ浦が定年退職を迎えるため、同年3月中旬から部屋の後継者擁立を進めていたものの、所属する出羽海一門内からの後継は実現せず、同一門内の他の部屋との合併も条件的に折り合わなかった。そこで19代千賀ノ浦は貴乃花一門に所属する貴乃花部屋の部屋付き親方である15代常盤山(元小結・隆三杉)に対して千賀ノ浦部屋の師匠に就任することを要請、15代常盤山はこれを了承し、同年4月8日付で19代千賀ノ浦と15代常盤山は名跡を交換、15代常盤山は20代千賀ノ浦を襲名して千賀ノ浦部屋を継承。19代千賀ノ浦は16代常盤山を襲名して千賀ノ浦部屋の部屋付き親方となり、定年退職後は日本相撲協会の再雇用制度を利用して引き続き協会及び千賀ノ浦部屋に残っている。またこの部屋継承により千賀ノ浦部屋は出羽海一門から貴乃花一門へ移籍した。部屋継承後の2016年5月8日に、部屋付き親方だった13代稲川が出羽海一門の木瀬部屋へ移籍した。明治時代に初代・高砂や雷電が所属した関係で、当初は千賀ノ浦は高砂系の名跡だった。大正時代に元関脇・綾川が高砂の相続争いに敗れて入間川部屋に身を寄せた後、引退後に8代千賀ノ浦を襲名して自身の内弟子を連れて千賀ノ浦部屋を創設した。この時の弟子には、後の関脇・綾川や幕内・外ヶ浜がいた。8代千賀ノ浦は1927年(昭和2年)限りで千賀ノ浦部屋を閉鎖し、綾櫻や外ヶ浜、関脇・綾昇などの所属力士は出羽海部屋へ移籍した。その後、8代千賀ノ浦の弟子である綾櫻改め綾川が二枚鑑札で9代千賀ノ浦を襲名したが、9代千賀ノ浦は部屋を再興することなく、1940年1月限りで年寄名跡を伊勢ヶ濱部屋の幡瀬川に譲って廃業した。幡瀬川は引退後に年寄・10代千賀ノ浦を襲名して、1941年5月に千賀ノ浦部屋を再興したものの、わずか1年後の1942年5月に千賀ノ浦部屋を閉鎖して、自身はすぐに伊勢ヶ濱部屋へ戻っている。
出典:wikipedia
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