一条 能保(いちじょう よしやす)は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家中御門流、藤原通重の長男。一条二位入道と号す。父方の祖母は後白河法皇の同母姉・上西門院の乳母・一条で、能保は後白河法皇や上西門院に近い立場にあった。また、母は当時の宮中で勢力を保っていた閑院流の流れを汲む徳大寺公能の娘であった。3歳で父が死没し、以後は祖母に育てられ、後にその一条室町邸を譲り受けた。仁平3年(1153年)上西門院御給により叙爵、保元2年(1157年)11歳にして丹波守に任官される。しかし僅か一年で任を解かれ、暫くの間は国司に任官されなかった。その後は母方の縁に連なる徳大寺家出身の太皇太后・藤原多子に太皇太后宮権亮として仕え、この時期は徳大寺家や上西門院に近い存在であったが、官職には恵まれていなかった。この間に源義朝の娘で源頼朝の同母姉妹である坊門姫を妻に迎えている。なお、頼朝及び坊門姫の母方・熱田大宮司家も同様に上西門院に近い存在であることが指摘されている。治承4年(1180年)、治承・寿永の乱が勃発。乱の初期においての能保の動向は明らかではないが、京が木曾義仲の勢力下にあった寿永2年(1183年)頃、その圧迫を逃れて東国に下ったとされ、また元暦元年(1184年)には平頼盛などとともに鎌倉に滞在していたという。平氏が滅び、頼朝が新たな権力者となると、妻の縁により頼朝から全幅の信頼を寄せられるようになる。頼朝にとっては、存命の同母兄弟姉妹は能保の妻である坊門姫だけだったのである(同母弟の希義は戦死、範頼・義経は異母弟)。その結果、頼朝の威光を背景に、讃岐守・左馬頭・右兵衛督・参議・左兵衛督・検非違使別当・権中納言・従二位と異例の栄進をする。また、頼朝の父の菩提寺・勝長寿院の造営に際しては、頼朝とともに造営の下見をしたり、同寺院の落成式には妻とともに参列している。その後、再び都に戻り北条時政の後任として京都守護となり、頼朝と対立した源義経やその係累の捜索の指揮を取った。能保自身は後白河法皇に仕えて重用され、妻や娘の保子(花山院忠経の妻、母は坊門姫)は後鳥羽天皇の乳母となった。また九条良経(九条兼実の子)や西園寺公経を娘と娶わせ、花山院兼雅や土御門通親とも姻戚関係を結ぶなど、朝廷と幕府の双方に広い人脈を形成した。しかし、建久2年(1191年)4月の延暦寺の強訴では内裏防御に失敗し、就任したばかりの検非違使別当を辞任している(建久二年の強訴)。さらに急激な台頭に対する有力公家の反感も強く、同じ親頼朝派であった九条兼実とは不仲であった。このため、土御門通親と九条兼実が対立した建久七年の政変では通親を支持したとされている。建久5年(1194年)8月、病に倒れて出家し、保蓮と号した。建久8年(1197年)10月13日、51歳で薨去。なお、鎌倉幕府4代将軍・九条頼経は、頼朝の同母姉妹(能保の妻)の曾孫であることを理由に将軍に擁立された。
出典:wikipedia
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