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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。天平神護元年(765年)2月3日、授刀衛という役所が近衛府と改組し、大同2年(807年)4月22日には、さらに中衛府と近衛府の改組により、近衛府は左近衛府となり、中衛府は右近衛府となる。因みに、外衛府というものもあったが、772年(宝亀3年)に廃止され、近衛府と中衛府に分配された。近衛大将の辞令(宣旨)の例  「日光東照宮文書」從二位行權大納言源朝臣家康從二位行權大納言源朝臣敦通宣奉 勅件人宜令兼任左近衞大將者天正十五年十二月廿八日 掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉奉(訓読文)従二位行権大納言源朝臣家康(徳川家康 45歳) 従二位行権大納言源朝臣敦通(久我敦通 23歳 従二位)宣(の)る、勅(みことのり 後陽成天皇 17歳)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく左近衛大将を兼任せしむべし者(てへり) 天正15年(1587年)12月28日 掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉(押小路師廉 61歳 正四位上)奉(うけたまは)る近衛中将・少将はともに四等官の次官にあたるために、近衛次将(このえのじしょう)とも称した。近衛次将は天皇側近の官職であり、公卿への昇進コース(典型的なコースは、侍従→兵衛佐→近衛少将→近衛中将→参議。少将から少弁や中弁に転じ、弁官で昇進して参議に至るコースもあった)としても重要であったため、上流貴族の子弟の殿上人が多く任じられた。十世紀末から十一世紀には藤原氏忠平流・宇多源氏・醍醐源氏・村上源氏など「公達」とされる家格の上流貴族の子弟でほぼ独占されるようになった。鳥羽院政期以降には藤原氏顕季流・同通憲(信西)流・桓武平氏忠盛流など本来は「諸大夫」の家格である院近臣家出身者からも近衛次将に任じられる者が現れるようになった。承徳2年(1098年)に左右近衛次将の定員は合計各8名とされたが、院政期後半(特に後白河院政期)には実際に在籍する人数が増大し、安元元年(1175年)には次将の合計が左右合わせて28人の例が出現する(『近衛府補任』(続群書類従完成会)参照)。堂上家出身者で公卿となる者は侍従・兵衛佐・近衛次将を歴任する例が多く、摂家・清華家・大臣家・羽林家の家格の者が近衛次将を経て公卿に昇った。ここまでが幹部職員で、これ以下を近衛舎人と呼ぶ。その他にも役職有り。大内裏のうち、宣陽門・承明門・陰明門・玄輝門の内側を担当。行幸などの際には護衛として随員。また、皇族や高官の警護も担当。

出典:wikipedia

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