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ランチア・ストラトス

ストラトス("STRATO'S" )は、ランチアが製造したスポーツカー。世界ラリー選手権(WRC)で勝利することを目的に開発されたホモロゲーションマシンである。その異色性と希少性より、第一級のコレクターズアイテムに挙げられている。車名のストラトスは、「成層圏」という意味の英語の“stratosphere”あるいはイタリア語の“stratosfera”からの造語であるとされ、“STRATOS”と表記される場合が多いが、実車のロゴをよく見ると“STRATO'S”となっている。「ゼロ」、「プロトティーポ」と呼ばれる試作段階のプロトタイプ期までと量産型の「ストラダーレ」量産期に分けて説明する。「ストラトス」の名称を冠した車としては1970年のでデビューしたベルトーネ作であるショー・カーの「ストラトス・ゼロ」があった。ショー・カーでこそあれストラトス・ゼロは実際の走行を可能とするために動力ユニット(エンジン、ギアボックス)やシャーシーをランチア・フルヴィア クーペのものから流用しており、MR(ミッドシップエンジン、後輪駆動)というシャーシレイアウトはここで仮に完成していた。ただし後年パイオニアのカーコンポの出演時にはユニットは他に流用されて不動車となっていたので、仕方が無くレッカー方式で撮影が行われた。この車では乗降用のドアはフロントガラスを兼ねたハッチとなっており、フロントに貼られた「LANCIA」のロゴ部分を開閉ノブとしてハッチを開け、上下可動式のステアリングコラムを前に跳ね上げてから前部の黒いマット部分を足場として乗降するという風変わりなものであった。この時点でストラトス・ゼロはまだ量産からはほど遠い単なるショー・カーであり、フルヴィアに代わる「ラリーで勝てる車」を欲していたランチアにとってこの車は興味の薄いものであった。ランチアにとっては興味の薄いストラトス・ゼロであったが、ベルトーネからしてみると量産モデルとなった場合の年間生産台数3万台というランチア側とのいくどかのミーティングにより提示されていた数字は利益を考えても充分魅力的であった。そこでベルトーネはストラトス・ゼロの車両レイアウトがMRというラリー競技車にとり有利であることを利用してここからさらに量産化に向けた売り込みをランチアに対してかけ、さまざまな要素を検討した。前述のようにラリー競技での勝利を目指す車を欲していたランチアでワークス・チームの責任者を務めていたチェーザレ・フィオリオは、ラリー競技に特化されたマシンが席巻している中でフィアット傘下に入った事によるランチア製品ラインナップの縮小と言う現状からの背景上、ゼロから見出したものとして「手持ちの駒がなければ作ればいい」と以下の点を新たにチーム・ディレクターとして加わったピエールゴ・ゴッバート、エンジニアであるジャンニ・トンティ、クラウディオ・マリオーリ、更には作業に関わるメカニックからの意見をも纏め上げストラトスの条件として課した。これらが2、3年で色あせてはならないという命題をもとにベルトーネが作り上げたのが強固なモノコック構造のコックピットの前後に堅固なスチールフレームを締結、そのフレーム上に各々その前後端のフックで大きく開口する軽量な前後カウル(後にヒンジ化され、実戦仕様ではさらに肉薄化される)を持つボディであった。エンジンやトランスミッションを搭載する車体後部は整備性を十分に考慮した骨格とされた。サスペンション周りの構造は同時期にフィアットで開発され、これも当時ベルトーネ在籍のマルチェロ・ガンディーニがストラトスと並行してデザインに携わっていたフィアット・X1/9と同形式の剛性の高いものが採用されていた。後にX1/9はタルガ・フローリオに出場しこのサスペンションの評価を高いものとしたが、プロトティーポ時点でのストラトスのサスペンションは後述の通り実戦やテスト走行での改修が必要な段階にあった。しかし、剛性の確保しやすい、全長及びホイールベースの短い車両という点から、ストラトスのボディ剛性は当時のF1マシンに匹敵するほどだったという。この高いボディ剛性のためワークスのラリーカーも大きな補強をすることなく、ほぼそのままの状態であった。この強固なシャシーの発案自体はX1/9の開発にも関与していたダラーラであり、製作はランボルギーニ・カウンタックや後のBMW・M1のフレームも担当したウンベルト・マルケージであった。ストラトスには高い競技能力が期待されたために同様のMRシャーシ・レイアウトを持つX1/9で世界ラリー選手権(WRC)に参戦するよりも、より宣伝効果の高いグループ4にストラトスを優先投入することがフィアットの販売戦略により決定された。1971年のトリノ・ショーでは発展系のタイプ1・プロトタイプが発表され、ラリーチームのエースドライバーであるサンドロ・ムナーリ、クラウディオ・マリオーリの意見も取り入れてその後の開発が行われた結果完成した最終プロトタイプがスポンサーの意向により1972年のツール・ド・コルスからWRCのプロトタイプクラスに投入された。ツール・ド・コルス参戦当初はサスペンションにトラブルを抱えていたもののその後もダラーラのバックアップ体制の下で熟成は続けられた。1973年にはかなり量産モデルに近いプロトタイプが発表されたが、この車は後に純正オプションとなるルーフとリヤのスポイラーがない点、前後カウルのアウトレットルーバーの形状やダッシュボード上に計器類が配列されるといったように最終的なストラダーレの形態との違いがあり、ワイパーに至っても2本式としていたものを後に1本式に改められている。この時点でランチアは仕様書に沿って具体化、改修されていく全てにおいて「暫定的」なストラトスをストラダーレとしてのデチューンバージョンを視野に入れた擦り合わせも新たにエンジニアとして加わったマイク・パークスと共にランチアの既存の設備で製作出来うるストラダーレ用パーツテストをプロトティーポを実戦投入しつつ同時進行していく事となる。ストラダーレの生産予定は公認取得予定であった1973年中に行われる予定であったが、大幅に遅れつつあった。ストラダーレのデザイン、製造はランチアのテクニカルディレクターであるセルジオ・カムッフォがあたった当時のラリー車は量産車両を競技用に改造したものが一般的だったため、グループ4も量産車の競技用特別仕様を想定したものである「連続する12か月に5,000台を生産した量産GTカー」をグループ3として公認し、それをベースに改造した車両をグループ4とする規定であった。しかしランチアのチェーザレ・フィオリオは、グループ4のホモロゲーション取得のための必須生産台数が「連続12か月間に400台」と少ないことを利用し、パワートレーンだけをグループ3車から流用した競技専用車に近い車両を製作してラリーに持ち込むという手法を編み出した。グループ4の公認は1974年10月に下りたが、フェラーリからのエンジンの供給が途絶えがちだったこともあり、規定台数(分のパーツを含む完成車)を製造できたのは翌年以降であった。ストラダーレ仕様車を市販車として見ると、座席は2名分しかなくラゲッジスペースはリアに搭載したエンジンの後端寄り上部のトレーとヘルメットが入る奥行きのあるドアポケット位のスペースしかなかったため、実用性と掛け離れたレイアウトとなっていた。その上馬力や排気量至上主義であった当時のスーパーカーファンからしてみると、この車以上の数値を持つ車が数多く存在する中でラリー競技に特化したストラトスへの理解が低かったことから、市場的に成功した部類の車とは言えなかった。さらにフェラーリとしては以前から続いているフィアット・ディーノへ優先的にエンジンを供給しなければならない立場にあり、ランチアにしても1973年のオイルショック後の景気回復までの影響が災いし、ストラダーレといった市販仕様でさえも消費者ニーズの優先順位的には低いものでしかなく、利益には繋がらなかった。結果的に最終的な全体での生産台数はFIAの規定台数をクリアしたが、フィアットの意向もありストラトスの生産は492台に留まった。その時点でストラトスの生産工程があるベルトーネのグルリアスコ工場が火災に見舞われ、全体生産台数に計上される予定であった1/5程のストラトスが失なわれた。世界的なコレクターの調査によれば結果的に当時の残存数は生産済みのもの含め400台未満とされる。こういった事情からラリーを宣伝材料に利用したフィアットの販売戦略はその対象を高価で特殊な車から大衆車へと転換し、同社のラリーイメージを鮮明にするためのワークス活動の素材をフィアット・131を基にした「フィアット・131アバルトラリー」へと早々に変更すると同時にストラトス・プロジェクトに深く関与していたゴッバートはランチアのジェネラルディレクターを解任され、チームエンジニアを兼任していたF1ドライバーであったマイク・パークスの死去、フィオリオに至っては1977年よりフィアットのモータースポーツ部門責任者も兼任し、苦渋の思いであと5年はラリーでトップを渡りあえるだろう熟成度7割程であったストラトスでのワークス活動の引き際を模索する事になり、ランチアのWRC活動は縮小。その年の末のフィアットのモータースポーツ部門との統廃合により、両社のカラースキームはラリー活動をフィアットが担い、ランチアはスポーツカーレースへの参戦が割り振られた。1974年から製造開始とされる市場に出たストラダーレ仕様は、後期のラリー仕様と同様の両側に張り出すフェンダーが純正オプション化され、プロトタイプでは前後ダブルウィッシュボーンであったサスペンションがリアをロアアームにラジアスアームを追加したマクファーソン・ストラットに改められていた。元々ラリー車として開発された設計思想からサスペンションは調整可能な構造であり、最低地上高は130から165mmの間で自由に調整できた。ストラダーレではフロントアップライトはフィアット・124用が使用されており、サスペンションピックアップの調整しろはジオメトリーが変更できるほどではなかったもののスプリングとダンパーはオプションとして数種類が用意され、使用状況に合わせて選択することができたほかスポーツオプションとして固定式のスタビライザーも用意されていた。エンジンはフェラーリ・ディーノ246GT/GTSやフィアット・ディーノに使われたものと基本的に同じ。元々フェラーリの2,418ccのV6エンジンはディーノ206GT用のユニット自体、F2用に開発されたものであり、ストラトスで採用されたのはこれをボアアップした後の246GT用のユニットであり、両者とも高回転よりの特性を持つ。そこでストラトスではラリー用に中低速重視へセッティングが見直され、最高出力は5PS低くなり、発生回転数は200rpm低くなった。さらにシリンダーブロック、コンロッド、ピストンはディーノと同じだが、カムシャフト、クランクシャフト、ヘッドなどは専用パーツに変更、リアミッドシップに横置き、後輪を駆動する。ギア比が極端なクロスレシオに設定されていることもあり、最高速はディーノ246GT/GTSと比べて遅い230km/hとなっている。ヘッドバルブ数による仕様の違いは諸元ではワークスの一部とストラダーレ用12バルブで240bhp/7,800rpm、主にワークス用24バルブで290bhp/8,000rpm、最大トルクでもその差は2.6kg-mと差分があり、燃焼室形状も12バルブ仕様ではショートストローク向けではない半円球構造、キャブレターの仕様はストラダーレでもウエーバーのダウンドラフト式46IDAでホモロゲーションを受けており、ディーノ生産分、フィアット・ディーノ供給分との差別化がなされていたが、レースカーとしては当時標準的な構造であったもののラリーカーとしてのエンジン構造としては80年代までをも通用出来るようにと見据え、技術的にも先へ進んでいたといえる。。また、競技仕様であるワークスファクトリーカー最終仕様の出力については、それぞれの競技の項参照。採用のエピソードとしては開発の初期段階で、フルヴィアの水冷V型4気筒を一旦検討するが、ワークスカーでも160PS程度ですでに性能的に限界に近く、フィアットは131のエンジンを提案したが重量的に重く、当時のランチアには新たにエンジンを新造する時間も資金もなく、ベータ用に開発中だった2.0L水冷直列4気筒DOHCにほぼ決まりかけていた。しかし1970年のツール・ド・フランス・オートモーティブでのムナーリによるフェラーリから借り受けた同じミッドシップ車であるディーノでのテストドライブの感触の件や、1971年にトリノ・ショーで発表されたストラトスには、仮のエンジンとしてディーノ206GTのユニットが搭載されており、それを目の当りにしたチェーザレ・フィオリオが元フェラーリ在籍であったピエールゴ・ゴッバートを通じてフェラーリと親会社のフィアットに提案、当時現行であったディーノ246GTの2,418ccユニットを獲得することに成功した。エアファンネル上部にくるサージタンクの違いは湯たんぽのような形状で両端に2本のノズルが開くタイプと四角いケージ形状のエアクリーナーがつくタイプ(コンペティオーネ、ストラダーレともに種類あり)、さらには後期型である薄型の平らな黒いケース形状のものがある。1974年に登場するターボ仕様ではファンネルを覆うケージ形状のエアクリーナーがつくタイプの上に過給機取り込み部が乗る。一般的に、ホイールベースが長いほど直進安定性を得やすいとされているが、ストラトスのリヤのトレッドはスカイラインGT-Rに近い数値なのに対し、ホイールベースは現在販売されている軽自動車の一般的なホイールベースよりも短く、全長においてもこんにちの欧州車での分類上のAセグメントに相当する短さである。これは何より、ラリーマシンとしての資質を最優先させたがゆえである。ホイールベースが短いため直進安定性を得るのは簡単ではないが、その代わり非常に高い回頭性を得ている。そのためこの車を駆ったプロドライバー達は乗りこなしに苦しんだ。その挙動については、WRCでの実戦でストラトスに乗ったことのあるラリーストであるミシェル・ムートンやビヨン・ワルデガルドとの取材時エピソードで語られている通り「全てのコースがコーナーであってくれれば良いと思ったくらい」、「直線では気を抜けない」などと表現していた。事実当時ラリーに参戦していたストラトスの写真はどれも決まった車体のコーナリング角度がなく、写真を見るだけでもその回頭性能がシビアだったのかが伺える。当時のタイヤ性能でその特異なコーナリング性能を発揮するにはいささか不足がちとしてワークスチームタイヤ供給元であるピレリに開発を委ね、対応できる専用タイヤ開発に成功。フィードバックされ後に「ピレリ・P7」として商品化された。日本において1970年代のスーパーカーブームの真っ只中に発売された車であったが、1980年から1990年代へ進むと並行輸入やオリジナルの現存車両も少なくなり、ストラダーレ仕様でさえ希少となっていた。これらの要因から、ランチアとは無関係のレプリカのキットカーも多数存在し、中には日本の公道向けに保安部品をつけ、公認を取っている車両も存在する。ここでは代表的なものを挙げる。ランチア自身のワークス活動としては大別して2種類のカテゴリに投入され、プロトタイプから熟成を重ね頭角を表すようになった。それぞれラリーとオンロードであるが、カテゴリ毎でのレギュレーション上の細かい箇所での仕様変更も伴う。競技仕様は「コンペティツィオーネ」として「プロトティーポ」でのサスペンション形式である前後ダブルウィッシュボーンのままパワーソースチューンとタイヤトレッド幅変更によるカウリングの変更を段階的に施され派生した。シャルドネチームは1975年のツール・ド・フランスなどグループ4マシンの持ち駒がないときにグループ5マシンをレンタルし、グループ4仕様に改造(グループ5仕様のスポイラーを切り取るなど)してラリーやレースに出場するなどの例外もある。前述の通りランチアがストラトスを投入するまでは当時のラリー戦歴的にジャン・クロード・アンドリューが駆る繊維強化プラスチックボディによる軽量化まで進化していたアルピーヌ・A110に手を焼いていた1971年シーズンまで、ランチアはフルヴィア、フィアットは124アバルト・スパイダーで対抗するも、RACラリーとスカンジナビア・ラリーでフォードはティモ・マキネンとロジャー・クラーク、サーブはスティグ・ブロンクビストなどが焦点を絞っており、安定した常勝には難しく、サファリ・ラリーには日産がブルーバード510、ダットサン・240Zでシェカー・メッタや地元勢がスポット的に勝ちを狙い、ランチアがヨーロッパのみならずのラリー制覇に目を向けるにはフランス勢の存在もあり、フルヴィアやその後、ともに新規参戦とするベータ・クーペの戦闘力で押さえつけるには開発競争的にも熾烈を極めていた状況であった。まず、ストラトスは前述にもある通りプロトタイプクラスで1972年のツール・ド・コルスにルーフの後へインダクションポッドを配す仕様で試験的に投入。1973年、1974年とラリーはオイルショックで一時開催を部分的に自粛されるも、その後はストラトスが旋風を巻き起こす。そこから熟成を重ね、1973年世界戦外であるスペインのファイアストーン・ラリーで初優勝を挙げるとこれをコンペティツィオーネ仕様として熟成させていくことになる。熟成に際して各スペック開発へ関与していたのはサファリスペックがムナーリが担当。それを転用しグラベル兼用とし、ターマックスペックを開発上のプリペア能力に長けたクラウディオ・マリオーリが担当した。世界ラリー選手権での初勝利は、市販モデルとして挑んだグループ4ホモロゲーション取得直後の地元ステージ、1974年ラリー・サンレモであり、わずか4戦に出場しただけで1974年のメイクス・タイトルを獲得してしまった。その後、1975年、1976年と、他チームはストラトスに基準を合わせ開発を進めるも、どの車よりもその走りはターマック、グラベルを選ばず総合的に寄せ付けなかった。完走の難易度が高い1975年のサファリではビヨン・ワルデガルドとサンドロ・ムナーリのストラトス2台、ベータ・クーペが1台支援としてエントリー。サービスポイント数やセスナの手配においても他チームより万全のサポート体制を敷く。79台出走中完走14台と言う過酷なラリーとなった。3台とも度重なるミッション、サスペンショントラブルの中、幸運にもポイントリーダーである三菱・ランサーのジョギンダー・シンが翌日の第2レグ前半でリタイア。ベータもその直後リタイア。ワルデガルドもブレーキトラブルでペースダウンを余儀なくされ、オヴェ・アンダーソンのプジョー・504よりポイントでリードしていた分、トランスミッション修復でポイント減点されていたムナーリが最終ステージでコースアウト。リアセクションをヒットさせ、スペアタイアの重みでリアカウルが吹き飛び、三菱勢を抑えつつもゴール手前でカウルを付け直しなんとかムナーリが2位、ワルデガルドが3位に食い込む。翌年からのサファリではその間のラウンドであるRACラリーでも同様のトラブルが起きていたことからタイヤをルーフに取り付けるようになったのはこの時の有名なエピソードが含まれる。さらにサファリをも得意としていたワルデガルドが1976年後半にフォードへ移籍。このことから1977年のサファリを勝ち取るのがこの車にとっていかに難しかったかが伺える。結果1974年、1975年、1976年の世界ラリー選手権製造者部門のタイトルを獲得。1974年はフルヴィアやベータ・クーペでのポイントを含む。ただ、この時点で3度メイクスタイトルに輝いたとしてもムナーリ、ラウノ・アルトーネン、ヴィック・プレストン・ジュニアなどと多くのドライバーに委ねようとRACラリーだけは勝てなかった。ランチアチームのカラーリングの移り変わりとしては1975年からはそれまでの継続的なマールボロカラーとは一変。アリタリア航空がスポンサーにつき、ボンネットフード部分にアリタリアのトレードマークを配した白と緑主体のカラーリングに変わる。ここからWRC上ではワークスファクトリーで組まれた払下げ車両を含む「ファクトリーカー」を使用した地元有力プライベーターとともに破竹の強さを見せることとなる。1976年、1977年とボディ上面フロントからリアに矢を髣髴とさせるリボン状の赤、緑、白のストライプにボディサイドセンター部へ大らかにトレードマークを配した有名なカラーリングとなる。フィアットはランチアを1969年に買収したことで、実質2つのチームを所有し、1976年のシーズンオフにランチアとフィアットのモータースポーツ部門の統合がなされ、フィオリオがランチアとフィアットのモータースポーツ部門の責任者の任に就き「フィアット車での完全制覇」を念頭に置くようになり、下位カテゴリ(グループ1、2)で128(後継に当初X1/9投入を考えていたが131投入後にリトモを投入する)などでも参戦していた手前、それまで余り本腰を入れなかったこともありランチアより4倍程予算を割いているのに勝率が上がらなかった事がマーケティング的にもいささかつらかったのである。これらの要因から、フィアットの意向でワークス活動を1978年フィアット・131アバルトに移す以前よりセミ・ワークス状態であるフランスのプライベートチーム、シャルドネやジョリークラブ、チェッカードフラッグへの継続供給と、それらのプライペーター・サポートとしてワークス・エンジニアのクラウディオ・マリオーリが残った。1979年、「100ユニット生産によってホモロゲーションに仕様追加できる」というルール上の特例が廃止され、ワークスでのラリー最終仕様となっていた300馬力の4バルブエンジン、軽量フライホイール、ツインプレートクラッチ、レーシングギアボックスといったパフォーマンス向上に貢献するユニット類が使用禁止となる。そこで「コルス・マイスター」の異名を持つベルナール・ダルニッシュはツール・ド・コルスをシャルドネで勝利するために4バルブエンジン完成まで使われていた270馬力に進化させていた2バルブエンジンをワークス・エンジニアであるマリオーリに委ね、283馬力を絞り出すことに成功し、フォード・エスコートRSを駆るワルデガルドに勝利する。1980年代序盤でもその戦闘力は実戦で通用しており、最後の優勝は前述のダルニッシュによる、1981年ツール・ド・コルス。また、ローカルイベントであるシャモニー・アイスレース(氷上耐久レース)でもその勇姿を見ることができた。市販車とは一線を画すような特徴である、流線型とはほど遠いように鋭角的に張り出したドライビングライト(当時ではフォグランプ)を装備しているが、これは通常の車両用ではなく多大な光量を得るために特殊な航空機用を流用したものだった。しかし夜間に見学していたギャラリーの暗闇に慣れた目を直撃してしまい、あまりに眩しいとクレームが付いたので使用禁止になり、後年は光量を落としたレンズカッティング化された競技車両用に換装された。ストラトスはモンツァなどでの地元サーキットレースやルマンなどの24時間耐久カテゴリにも参戦した。参戦にあたり、クーゲルフィッシャー製インジェクタとKKK製ターボチャージャーを装備し、ドライサンプ化、ホイールベースを140mm延長した、耐久レース仕様のグループ5車両が製作された。また、タルガ・フローリオと言ったスポーツカー世界選手権外となった公道クラシックイベントにもWRC参戦前の1973年に、リア後端に6つのアウトレットが開いているマールボロカラーのプロトタイプを投入し、サンドロ・ムナーリ、ジャン・クロード・アンドリュー組でバケットシートトラブルでピットインしつつも2位の成績を収めると、ツール・ド・レズナでも優勝を果たし、その後9月のツール・ド・フランスでリアスポイラーを小型化し、現在の形状とは違うルーフスポイラーを取り付けた仕様で優勝。1974年3月のシチリアでフロントスポイラーがワイドスムージング化されたロングホイールベース仕様の登場となり、その年のタルガにはアミルカーレ・バレッストリエーリ、ジェラール・ラルース組で優勝している。その後のツール・ド・フランスではアンドリューのNA仕様とムナーリのターボ仕様の二台体制で出場。アンドリューのストラトスは2台のリジェ・JS2に次ぐ3位へ食い込む。更に熟成が進みボディワークがよりシルエット化されると、ムナーリの手による活躍がみられた。1977年のジロ・デ・イタリアをムナーリの手で走り、エンジントラブルでリタイアした「#539」は直後日本へ空輸され、同年富士スピードウェイで開催されたフォーミュラーチャンピオンレースのアトラクション「スーパーカーVSレーシングカーショー」で当時星野一義がエキシビジョンとしてエンジン不調のままドライブし、一時話題となった。同時に展示車両としてもGr.4ラリー仕様とストラダーレを展示。このこともあって1977年仕様のワークス(アリタリア航空)カラーが当時日本でストラトスとして一番連想させるカラーリングとして根付くようになる。この車両は1980年代より長らく日本のスポーツカー博物館であった「ギャラリーアバルト自動車美術館」にて展示されていたが、現在は欧州のコレクターに渡り、エンジンを含め走行可能な状態に復元されている。1979年のグループ5仕様では先のインジェクション化やターボ化によるリファインに加え、3バルブヘッド化。出力も耐久性を無視すれば560PSに到達するものの、スプリントレース仕様では530PSとしている。ボディワークの軽量化も手伝って、850kgまで軽量化された。以降、ワークス活動をベータ・モンテカルロ・ターボ Gr.5へとリカルド・パトレーゼ、ジル・ヴィルニューヴ等の手により移していくと、多くのストラトスはプライベーターの手に委ねられた。また、1975年頃からヨーロッパ各地で盛んであるERAヨーロッパラリークロス選手権(現在のFIA ヨーロッパ選手権 ラリークロスドライバーズ)でも地元プライベーター転用されている。中でも赤と白のメンフィスカラーのストラトスを駆るかのF1ドライバーであるアレクサンダー・ヴルツの父、フランツ・ヴルツがアルピーヌ・A110、ポルシェ・911などが猛威を振るっていた1975年から使用し、1976年にはシリーズタイトルを獲得。アンディー・ベッツァもストラトスユーザーとして息の長かった存在でありヴルツと共に勝利を重ねている。ベッツァはシーズン後半にアウディ・クワトロA2に乗り換えることになる1983年当時の仕様ではグループ5として3.0リッターエンジンにまで発展させた仕様を投入していた。ストラトス・ゼロから数えると、生誕から2000年で30周年、2010年で40周年となったことが影響し、ストラトスの名称を用いたり、モチーフにしたコンセプトモデルや関連するプロジェクトが発表されている。2000年トリノショーにはマルチェロ・ガンディーニが「ゼロ」的立場の「Stola S 81 コンセプト」を発表。ほぼ、並行してコレクターズミーティングである「World Stratos meeting」上、水面下でそのメモリアルとしてニューストラトスのプロジェクトが発足。2005年の時点で商標権がすでにランチア、ベルトーネからフェノメノンに移り、モックアップも完成。量産化については難航しており、フェノメノン代表がピニンファリーナに籍を移しつつ2010年、ワンオフと言う形で「ニューストラトス」が生まれ、1912年に誕生したベルトーネが2012年、創業100周年記念として「ゼロ」をモチーフとしたコンセプトカー「ヌッチオ」を製作する。

出典:wikipedia

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