芥川 隆行(あくたがわ たかゆき、1919年3月6日 - 1990年10月2日)は、日本のアナウンサー、ナレーター、司会者。本名、芥川 隆行(あくたがわ たかゆき)。東京府(1943年7月以後の東京都)出身。1951年10月にTBS(ラジオ東京)にアナウンサー第1期生として入社。1959年12月にTBS(ラジオ東京)を退社。1960年1月にフリーとなり芥川企画を設立し司会者・ナレーターとしても活躍した。ナレーターとしては時代劇、演歌番組において、名調子「芥川節」で有名、代表作には『木枯し紋次郎』、『必殺シリーズ』、『水戸黄門』等。妻はTBSアナウンサー第1期生の本田節子。1941年、慶應義塾大学経済学部を卒業後、川西機械製作所(兵庫県神戸市)に入社。1941年12月、入隊。復員後、大分県の高等学校教員等を務める。1951年10月、ラジオ東京へアナウンサー第1期生として入社、放送界入り。1959年12月、TBSを退社。1960年1月、フリー、芥川企画を立ち上げる。1990年10月2日、肺癌により死去。。父は計器類製造・販売経営者。弟がいる。現在の東京都港区白金生まれる。子供の頃から足が速く中学・大学では陸上部所属。祖父は福沢諭吉の侍医の一人で、父も慶應義塾大学に通い、慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1941年、慶應義塾大学経済学部を卒業後、「すべてが無計画で、その場その場のでき心で行動しているんです。」と、川西機械(兵庫県神戸市)に入社したが出社したのがふた月だけだった。1941年12月、入隊、北支那方面軍に配属され、以降中国戦線を転戦。仕官候補試験に合格して陸軍中尉となり、斎南の補給廠に勤めている時に敗戦を迎えた。1946年、復員。1948年、野球選手の芥田武夫と間違えられて大分県の高等学校教員となり、国東高等学校、森高等学校で教鞭等を経て、1951年10月にラジオ東京へアナウンサー第1期生として入社、アナウンサー募集に応募した際には既に32歳だったことから願書も受け付けてもらえなかったが、「役者にも老け役が必要であろう」との鶴の一声で受験可能となったため。主に、スポーツ番組、ラジオドラマの語り手、芸能番組を担当した。その間、編成局アナウンサー室(1953年2月編成局アナウンス課→同年8月1日編成局アナウンス部)を振り出しに、1955年、ラジオドラマ『新撰組始末記』の語り手に抜擢され評判となったが、型破りなアナウンサーぶりが問題となり、編成局テレビ演出部映画課兼アナウンス部(1957年6月)→テレビ編成局演出部兼アナウンス部(1958年5月)→テレビ編成局編成部兼アナウンス部(1959年5月)へそれぞれ在籍した。1957年、TBSアナウンサー第1期生の本田節子と結婚。2男をもうける。芥川の声は美声というのではなく、音色(おんしょく)と語り口で聞かせるタイプで美声になっては雰囲気が台無しに。やはり風邪をひかないことを第一に心掛けていた。幼少の頃、祖母に連れられて、浪花節や講談、無声映画の活弁になじんだことが、聞き手の耳へ分かりやすく伝える発声法につながり、人気に。1959年12月の退社後は、民放第1号のフリーアナウンサーへ転身。芥川企画を立ち上げ、主にナレーターとして活動、その際、「入社した時、クセがありすぎるというので、ほされる状態が8年続いた。のんきなのでそれでも気にせず、60年、行き先も考えず、フリーになった」と語っている。1961年から放映されたテレビドラマ『新選組始末記』のTBSでのテレビドラマ化が決定すると、原作者の子母沢寛を訪ねて語り台本を自ら書く許可を得て、語り手としてドラマを盛り上げた。同番組はドラマの画面に語りを入れる番組作りの嚆矢ともなり、語りに節をつけた彼独特の調子「芥川節」が誕生し「いまの時代のテンポに合わせていきたい。」と派手さがなかった。番組の最後のほうで三橋美智也による主題歌をバックにしてのナレーションで当時の視聴者に強烈な印象を与え、同時に出世作となった。以来、ナレーションの第一人者として、TBS『ナショナル劇場』、や『ザ・ガードマン』、『キイハンター』、『シークレット部隊』、『木枯し紋次郎』、『西遊記』、『Gメン'75』、『必殺シリーズ』、『スクール☆ウォーズ』、『ポニーテールはふり向かない』、『乳姉妹』、『もりもりぼっくん』、『三匹が斬る』など数々の人気時代劇・ドラマを手がけた。中でもTBS系土曜21時台の歴代ドラマでは、多数の作品で芥川隆行がナレーターを務めていた(1986年の『親子ゲーム』は例外)。黄桜のCMでも、『河童の歌』を使用していた時代にはナレーションも長期に亘り務めていた。TBS紀行番組『兼高かおる世界の旅』では、ナレーションではなく、旅行家の兼高かおるの旅の様子の聞き手を務め30年に亘る長寿番組となる。ラジオでも、1971年、文化放送朝の生ワイド番組『オハヨー! 日本列島』の司会を務め、番組終了後は『お元気ですか 芥川隆行です』を担当。ラジオ日本では演歌専門番組『芥川隆行の演歌だヨ!』(1974年)と『芥川隆行演歌ひとすじ』のパーソナリティを務めた。イントロに独特の語りをいれる「ナレーション演歌」は、番組の名物となった。1980年終わりから1990年に亡くなるまでラジオ日本に朝から晩まで番組・コーナーを数多く持ち、ラジオ日本の顔となり人気番組に育て上げた。大川栄策が恩師古賀政男の曲を歌ったカヴァーアルバムでは、語り部として起用された。1990年10月2日、肺癌のため死去。。『スクール☆ウォーズ2』の前半4話分が遺作となった(第5話以降のナレーションは城達也が務めた)。戒名は「信融院一竟日隆居士(しんゆういんいっきょうにちりゅうこじ)」。好きな言葉は「明日は明日の風が吹く」。自分の事を計画性がないと言いながらも硬派取り混ぜて朗読、対談、ナレーションと万能で、その語り口は品が良く、物静かだったという。※いずれも、ナレーター。
出典:wikipedia
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