宮﨑 市定(みやざき いちさだ、1901年(明治34年)8月20日 - 1995年(平成7年)5月24日)は戦後日本を代表する東洋史学者。中国の社会、経済、制度史を専攻し、科挙に関する論考が著名であり、通史としての東洋史論考でも高く評価され、所謂京都学派(東洋学部門)の中心人物として、歴史学界をリードした。また執筆した概説書は、一般読書人にもファンが多かった。従三位勲二等旭日重光章。銀杯一組。宮崎の研究姿勢は、師の内藤湖南が提唱した唐宋変革論を受け継ぎ、社会経済史の立場に加え、西アジアやヨーロッパとの交流の影響及び比較の上に立って、唐以前を中世・宋以後を近世と設定し、さらにそれを裏付けるために宋代に於ける政治・制度・社会・経済などの研究から始まった。1950年「中国近世における生業資本の賃借において」に始まり幾つかの論考を発表。またその一つが科挙の研究となる。そこから派生して胥吏の研究に入り、胥吏の淵源を探ろうとして著されたのが『九品官人法の研究』である。さらに明清時代の景気変動の考察の延長に、景気変動史観を着想した。その他にも佃戸に関する研究・『水滸伝』に関する論考など文化面・経済面など幅広い分野に、また漢代から清代に至るまでの幅広い時代に、宮崎の研究はこれら全てに及んでおり、その影響は限りなく大きい。1978年(昭和53年) - フランス学士院よりジュリアン賞を受賞。1989年(平成元年)秋に文化功労者として表彰された。1935年に「晋武帝の戸調式に就いて」で古代の土地、賦税制度について述べた後、宋代以降の官僚制に研究を向ける。第二次世界大戦中には東亜研究所の依託により清代の官吏登用制度の研究を行い、科挙についてまとめた。そこで徴用されて半年ほどして終戦となる間に原稿が組版され、『科挙』として出版された。1963年に簡略化して書き直したものを中公新書より再刊したことで注目されるようになり、次いで英語版、イタリア語版なども出版された。1942年に文部省教学局で「大東亜史概説」編纂が企画され、東京帝大の池内宏、京都帝大の羽田亨が編纂責任者、編纂嘱託として鈴木俊、山本達郎、安部健夫と宮崎が委嘱された。文部省の意向では、ビルマ以東の大東亜共栄圏において、世界で最も古い歴史を持つ日本を中心に、皇国の文化が朝鮮・中国からアジア各地へ光被していく歴史を書くということだった。その提案に対し嘱託4名は、叙述の範囲をアジア全体とし、日本ではなく西アジアを扇の要の位置とし、最古の文明が西アジアに発祥して東に延びて、最後の終着点である日本で最高度の文化を結晶させた、という方針を答申し、文部省はあっさりこの案を認めた。宮崎による上古から唐代までの草稿は1944年に完成したが、終戦により企画は消滅する。1947年にこの草稿を『アジヤ史概説 正編』として出版。次いで新たに最近世まで、及び「アジア史上における日本」の章を書き足し『アジヤ史概説 続編』を出版した。1973年に学生社で改訂版刊行に際し、新たに「現代アジア史」の章を追加。1987年に中公文庫で再刊された。文化大革命の始まる前の中国学会において、高級幹部・専門家向けの内部読物として『宮崎市定論文選集』2巻が1963年-1965年に限定出版されており、これでは「反動史学家」というレッテルを貼られながらも、中国への批判も含めて忠実に翻訳された。当時北京大学在学中の劉俊文はこれを読んで宮崎ファンになり、京都遊学後の1992年に『日本学者研究中国史論著選訳』10巻(中華書局)を編訳し、その中には宮崎の論文10編を選んだ。宮崎の論考著作抜きには、東洋史研究は成立しないといって良く、多数の研究者により引用参照されている。なお研究者以外でも、司馬遼太郎・谷沢永一・向井敏・松本清張・米長邦雄などが宮崎の著作参照を明言している。谷沢・松本は、宮崎が発表した論考のうちで東洋史学界では余り評価されなかった論語の研究や日本古代史の研究を高く評価し、一般に紹介した。『論語の新研究』で、論語を翻訳した部分は、宮崎の没後に『現代語訳 論語』で再刊(岩波現代文庫)され、宮崎論語の別名で読み継がれている。名訳として高く評価されているが、呉智英や吉川幸次郎のようにこの訳解に批判的な意見も存在する。※ 以下表記は一部。『宮崎市定全集24 随筆(下)』巻末に、詳細な書誌(1994年まで)を収録。
出典:wikipedia
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