ナグ・ハマディ写本(ナグ・ハマディしゃほん、)あるいはナグ・ハマディ文書(ナグ・ハマディぶんしょ、)とは1945年に上エジプト・ケナ県の(より正確には、ナグゥ・アル=ハムマーディ)村の近くで見つかった初期キリスト教文書のことである。ナグ・ハマディ写本は、二十世紀最大の考古学的発見に数えられており、事実、初期キリスト教の研究を飛躍的に進展させた。ナグ・ハマディ写本は、古代キリスト教を知るための原資料としては死海写本につぐ重要性を持つと見なされている。写本は、農夫ムハマンド・アリー・アッサーマン (Muhammad ʽAlī al-Sammān) が偶然土中から掘り出したことで発見された。発見時、文書は壷におさめられ、羊の皮でカバーされたコーデックス(冊子状の写本)の状態であった。ナグ・ハマディ写本は全部で13冊からなっている。より正確に言うと、12冊の写本と8枚の断片からなっており、後者は13冊目の写本から破られたものと6冊目の裏表紙に挟まれていたものである。写本の多くはグノーシス主義の教えに関するものであるが、グノーシス主義だけでなくヘルメス思想に分類される写本やプラトンの『国家』の抄訳も含まれている。ナグ・ハマディ写本研究の第一人者 (James M. Robinson) による『英訳ナグ・ハマディ文書』の解説によると、本写本はエジプトの修道士がはじめた修道士共同体(後世の修道院に相当する)に所蔵されていたのかもしれないという。写本はコプト語で書かれているが、ギリシャ語から翻訳されたものがほとんどであると考えられている。写本の中でもっとも有名なものは新約聖書外典である『トマスによる福音書』である(同福音書の完全な写本はナグ・ハマディ写本が唯一)。調査によって、ナグ・ハマディ写本に含まれるイエスの語録が1898年に発見されたオクシリンコス・パピルスの内容と共通することがわかっている。そして、このイエスの語録は初期キリスト教においてさかんに引用されたものと同じであるとみなされる。写本が作られた時期に関してはほとんど議論の余地がなく、西暦350年から400年の間と推定されている。この年代は、カートナージやコプト語の字体から決定できる。写本が土中に埋められたのは4世紀よりも以前である。一方、写本に収録された各編の原本の成立時期については異論があり確定できていない。ナグ・ハマディ文書そのものはカイロのに所蔵されている。ナグ・ハマディ写本の発見以前、少数の例外を除くとキリスト教グノーシス派由来の直接的な文献はほとんど発見されていなかった。そのため、グノーシス派に関する研究は、反異端の立場からグノーシス派を非難した古代の正統教会の教父たちが残した文献に頼らざるを得なかった。ナグ・ハマディ写本は古代キリスト教の異端としては最初で最大の勢力だったキリスト教グノーシス派の原資料にあたり、キリスト教グノーシス派の教理・神話論などを正統教会の偏見を通さずに知ることが出来ることから重要な写本である。ナグ・ハマディ写本が発見された経緯について最初に調査したのはフランス人古代オリエント学者ジャン・ドレス (Jean Doresse) で、1950年1月のことである。この時の結果は1960年に『ナグ・ハマディ文書の発見―キリスト教の基盤を揺るがす現地調査の記録』として出版された。ドレスの調査した時期は写本が発見されてから5年しか経っておらず、写本発見に関する証人たちの証言内容は信頼できるものだったというが、ドレスは厳密に言えばコプト学の専門家ではなかったことから、J.M.ロビンソンはその調査結果に不満足だった。そこでロビンソンは、1970年代初めに数ヵ月に渡って調査を実施し、その結果をまとめて、『ファクシミリ版ナグ・ハマディ文書』の最終巻の序文で公表した。ロビンソンによる調査結果の概要は以下の通りである。ただし、ロドルフ・カッセル(スイスのコプト学の第一人者)、マルチン・クラウス(ドイツ・ミュンスター大学の著名なコプト学者)らのように、ロビンソンによる調査内容に対して批判的な者も存在することにも留意する必要がある。カッセルは、エジプトの農民は報酬を得ようとして話をでっちあげる傾向があり、地元住民にとって何の重要性もない、取るに足らない出来事を、発見から何十年も経っているのに詳しく覚えているのは不自然であると批判している。文書発見の経緯は、アラブ人農夫ムハマンド・アリー・アッサーマンが偶然土中から壷を掘り出したことにさかのぼる。1945年12月、ムハマンドは、弟のカリファ (Kalīfah) と共にラクダに乗って、ジャバル・アッターリフ (Jabal al-Tārif) の南側へ出かけた。ジャバル・アッターリフは、ナイル峡谷の北壁を下限として北側に連なる石灰岩からなる山岳地帯で、その南斜面には150以上の洞穴がミツバチの巣のようにあいている。これらの洞穴はもともとは自然にできたものだったが、既に第6王朝の時期には中をくりぬき彩色を施して墓所として使っていた。この地方では、サバッサ(硝酸塩を含んだ軟土)をジャバル・アッターリフから掘り出して肥料として使っていた。ムハマンドがジャバル・アッターリフからの落石と思われる巨大な石の周りを掘ってサバッサを採取していたところ、鍬の先に何かが当たった。掘り下げてみると、4つの把手が付いた高さが1mもある素焼きの壷が現れた。この壷が出てきた場所は、ジャバル・アッターリフのふもとの第六王朝時代の墓地跡(ケノポスキオンからほぼ真北に約30km北上した付近)から東に約1km離れた場所である。当初、ムハマンドは壷を割ることをためらっていた。ムハマンドの証言によると、中にジンが入っているのではないかと恐れたからである。しかし、金(きん)が入っているかもしれないと思い直して、鍬で壷を割ってみた。壷の中から出てきたのは13冊の本で、パピルスでできており皮で装丁されていた。ムハマンドはその本を服でくるんでから肩にかけて、家に持ち帰った。この本が現在ナグ・ハマディ写本と呼ばれているものである。ムハマンドは持ち帰ったあと本をばらして、かまどの隣に敷いてあったわらの上に置いた。これらの写本は最終的には全てコプト博物館の収蔵品になったが、そこに至った経緯は複雑である。この発見の半年前の1945年5月7日の夜に、2人の兄弟の父親アリー(畑の灌漑の夜警の仕事をしていた)が、見回り中に1人の泥棒を殺した。アリーはその仕返しを受けて翌朝までに殺された。この事件が、後のナグ・ハマディ写本の運命と関係してくる。ムハマンドが写本を発見した1ヶ月後、家の近くの道端で日中の暑さで眠りこけている男がいた。隣人がこの男を見かけると、男を指差してムハマンドに、お前の父親を殺したのはこの男だ、と言った。この男は、アーマド・イスマイル (Ahmad Īsmāʻīl) という名で、警官イスマイル・フセインの息子だった。アーマドはハワラ族で、父親はアル・カスル (al-Qasr) 村の外からやってきた人物だったので、村では疎外されていた。ムハンマドは、家に駆け込むと兄弟と母親にこのことを告げた。アーマドを捕まえると、一家で、アーマドの手足を徐々に切り刻み、心臓をえぐり出して全員でむさぼり食い、血の復讐を行った。ハワラ族はジャバル・アッターリフのふもとに村を作って住んでいたので、復讐されることを恐れて、この後ムハマンドは壷を見つけた場所に近づこうとはしなかった。後に、ムハマンドを説得して壷を発見した場所まで案内させたのだが、そのためには変装をさせ、政府の護衛を付け、更に金品を見返りに与えねばならなかった。アーマドが殺されたことをアル・カスル村の住人は喜び、警察の捜査でも目撃者が証言しようとはしなかったが、警察はムハマンドに目をつけ、毎日夕方になると殺害に使った武器が見つからないかと家にやってくるようになった。ムハマンドは写本が警察に見つかることを恐れた。壷から発見された本がコプト語で書かれていたことから、キリスト教のものであると言われたムハマンドは、村のコプト教の司祭、アックンムス・バシリユス・アブド・アッマシー (al-Qummus Basīlīyūs 'Abd al-Masih) に相談して、これらの本のうち1,2冊を司祭の家で預かってもらえないかと頼んだ。(なお、別の文献の説明では、村を離れることになったときに司祭に文書を託したことになっている。)バシリユスは結婚しており、義兄のラジブ・アンドラウス (Rāghib Andrawus) が、コプト教会の学校で英語と歴史を教えていた。村々を巡回して生徒たちに教えており、アル・カスル村にやって来てバシリユスの妻の家に泊まったときに、バシリユスは現在コーデックスIIIと呼ばれている写本を見せた。その価値に気づいたラジブは司祭を説得して写本のうち1冊を手に入れカイロへ持っていき、友人でコプト語に興味を持っていた医者ジョージ・ソビイ (Goerge Sobhi) に見せた。コーデックスIIIを三百ポンドで買い取ることで話はまとまったが、支払いは遅れに遅れた。最終的にはラジブに二百五十ポンド、コプト博物館へ五十ポンド寄付することで決着がつき、コーデックスIIIはコプト博物館に収蔵されることになった。収蔵されたのは1946年10月4日のことである。13冊ある写本の中で、最も早くコプト博物館に収められたのがこのコーデックスIIIである。一方、無価値だと思ったか、もしくは災いを招くと思ったかして、ムハマンドの母親は写本の一部を、わらと一緒に炊きつけとしてかまどで燃やしてしまった。現在わずかの断片しか残っていないことから、コーデックスXIIが燃やされたものと見られる。また、中には捨ててしまったものもあった。コーデックスIII以外の写本は、近隣の文盲のムスリムとの物々交換に使われたり二束三文で買われたりしていった。写本を手に入れた者の1人がナシド・バサダ (Nāshid Basādah) で、ナグ・ハマディの金商人と計ってカイロで写本を売り、代金を山分けした。また、伝えられるところでは、ある穀物商(アル・カバルの複数の村人によると、フィクリー・ジャバライル (Fikrī Jabarā'īl) のことだという)が別の写本を手に入れてカイロで売り、手に入れた代金でカイロに店を構えたとも言われている。この話はよく知られているらしいが、フィクリー自身は断固として関与を否定している。写本の大部分を手に入れたのはバヒジ・アリ (Bahīj ʽAli) で、アル・カスル村のならず者だった。この地方では有名だった古物商と一緒にカイロに行き、まずシェファード・ホテルのマンスーアの店に行き、次にカイロ在住のベルギー人古物収集家フォキオン・J・タノ (Phokion J. Tano) の店で売った。タノは全て買い取り、また、ナグ・ハマディにまで出かけて残っている写本を全て入手した。一方、コプト博物館長(当時)のトーゴ・ミナ (Togo Mina) はタノが写本を買い取ったことを聞きつけて、国外流出はさせない、写本は全て博物館に売れと説得した。1948年、エジプト公教育省はタノと交渉して、写本を買い取りコプト博物館に収納しようとしていた。しかし、タノは、写本はカイロ在住のイタリア人収集家ダッターリのものであると主張して政府の介入を避けようとした。国外流出を防止するためにエジプト考古最高評議会(考古最高評議会の前身)はダッターリ所有の写本を接収した。写本は、1948年にコプト博物館に保管された。ダッターリは対価として十万ポンドを要求したが、政府は一切支払わなかった。そのため、所有権がどちらにあるのかエジプト政府とダッターリの間で裁判沙汰となり、1952年まで争われた。裁判は政府側の勝訴に終わった。ナセルが大統領になってからは、4千ポンドの形ばかりの代価と共に写本は国有化され、最終的にコプト博物館の所有物になった。この段階でコーデックスIを除く写本がコプト博物館に収納された。コーデックスIの大半は、カイロ在住のベルギー人古物商のアルベール・エイド (Albert Eid) を通じてエジプト国外に流出した。1949年、エイドは政府の介入を恐れ、大量の輸出品の中に写本を紛れ込ませてアメリカへ密輸出した。同年、エイドはニューヨークで、二万二千ポンドで売却しようとしたが失敗した。エジプト政府が売却に反発することを顧客が恐れたのが失敗した理由らしい。エイドはベルギーに戻り、写本をパスワード付きの保管箱にしまいこんだ。その後、アン・アーボール (Ann Arbor) でこれらを売却しようとしたが同様に失敗した。また、パリでも売却しようとしたがこちらも失敗している。エジプト政府はエイドを考古物の密輸出の罪で訴追し、六千ポンドの罰金刑の判決が出たが、判決前にエイドは亡くなった。一方、エイドの未亡人は秘密裏に写本を売却しようとしていた。古代キリスト教史家のG.クィスペル(ユトレヒト大学教授(当時))によると、自身はこの写本が密輸出されたものだとは知らなかったとのことだが、ユング研究所を説得して、写本を購入するように急がせた。写本は、1952年5月10日になって、エイドの未亡人から、クィスペルを介してチューリヒのユング研究所の手に渡った。これらは、誕生日祝いのプレゼントとして研究所からユングへ贈られたため、コーデックスIの整理番号が付けられるまでは「ユング・コーデックス」と呼ばれていた。ユング・コーデックスは、1956年から1975年にかけて6巻にわたって出版された。1961年にユングが亡くなると写本の扱いを巡って議論が起こったが、少しずつエジプトに返却されていき、最終的にユネスコが買い取って1975年にユング・コーデックスの全てがコプト博物館に収蔵された。こうして1945年の発見以来、30年ぶりにカイロに全ての写本が揃うことになった。写本の総ページ数は1000ページにも及ぶ。ナグ・ハマディ写本の中で最初に世間に公表されたのはコーデックスIIIの一部である。コプト博物館の研究員(当時)だったジャン・ドレスは1947年にコーデックスIIIに含まれる「エジプト人福音書」を解読し、翌1948年にその内容を学会誌に公表した。また、「ユング・コーデックス」には失われたページがあることに気づいたクィスペルは、1955年の春にエジプトに飛んで、コプト博物館にそれらのページがないかどうかを調べた。博物館から写本の写真を借り受けてからすぐにカイロのホテルに戻って、クィスペルは解読を始めた。この時に発見したのがコーデックスIIに含まれていた「トマスによる福音書」である。「トマスによる福音書」の断片は1890年代にギリシア語版が発見されていたが、福音書全体が発見されたのはこれが初めてだった。ドレスとクィスペルは「トマスによる福音書」を含むナグ・ハマディ写本の一部を学会誌に発表したり、新聞紙上で紹介し世界のジャーナリズムにセンセーションを巻き起こした。1956年、カイロでユング・コーデックスに含まれる写本の一部が初めて翻訳・出版された。また、一部のコーデックスが、コプト博物館長パホル・ラビブによってファクシミリ版で出版された。そのうち最初のものはコーデックスIIで、同様に1956年のことである。しかし、エジプトの政治状況が不安定だったため、その後のファクシミリ版の出版は遅々として進まなかった。また出版されたファクシミリ版も、写真技術が劣っていて不鮮明な部分が多いという欠点があった。1966年にイタリアのメッシーナでグノーシス主義の研究者たちによるシンポジウム、第1回「グノーシス主義をめぐる国際集会」が開かれ、そこでグノーシス主義の研究のためにナグ・ハマディ写本およびそこに含まれる全文書の刊行と、早急に公開することを求めるアピールを公表、同時に、そのための資金援助を全参加者の名でユネスコに要請した。シンポジウムのまとめ役だった研究者のジェームズ・ロビンソンはアメリカのクレアモント大学キリスト教研究所の協力を得て、ナグ・ハマディ写本の英訳の出版を推し進めることになった。1970年にはユネスコとエジプト政府の文化庁によって共同でナグ・ハマディ写本ファクシミリ版刊行国際委員会が編成され、委員長にロビンソンが選ばれた。同時に待望のコーデックスIからXIIIまでのファクシミリ版が1972年から1977年にかけて徐々に出版、1979年にはカートナージのファクシミリ版、1984年に全巻の「概説」がオランダ、ライデンのE.J.ブリル (E. J. Brill) によって出版された。ファクシミリ版の出版によって各言語への翻訳が本格化した。ロビンソンは1977年にブリルとアメリカの出版社 (Harper & Row) の共同出版という形で英語版を出版。1981年から1984年にかけてペーパーバック版も出版された。最終的に1988年に校訂版が出版された。1987年にはエール大学のによっても英語版 (The Gnostic Scriptures: A New Translation with Annotations (Garden City: Doubleday & Co., 1987)) が出版されている。日本語版は、写本の大部分が1997年から1998年にかけて荒井献、小林稔らの手によって岩波書店から『ナグハマディ文書』全四巻として出版された。岩波書店の『ナグハマディ文書』には、グノーシス主義に属さない文書やギリシア哲学の影響を受けたものなどが含まれていないが、それらの未訳だった文書は2010年に『グノーシスの変容』と題して同じく岩波書店から出版され、これによって日本語訳が完了した(ただし、プラトンの『国家』の日本語訳を含まない)。ナグ・ハマディ写本には、全部で52編の作品が収められているが、そのうちの6編は同じものを写したものである(「ヨハネのアポクリュフォン」(II 1とIII 1、IV 1)、「エジプト人の福音書」(III 2とIV 2)、「聖なるエウグノストスの手紙」(III 3とV 1)、「真理の福音」(I 1とXII 2、後者は断片)、「この世の起源について」(II 5とXIII 2、後者は断片)が重複している)。また、写本が発見される以前にオリジナルのギリシア語版(プラトンの「国家」(VI 5)、「感謝の祈り」(VI 7)、「セクストスの金言」(XII 1))が発見されていたり、ラテン語訳(アスクレビオス21-29 (VI 8))やコプト語訳(「ヨハネのアポクリュフォン」(II 1)、「イエス・キリストの知恵」(III 4))で見つかっていたものもある。このうちコプト語訳の2編は、「ベルリン写本」と呼ばれるパピルスに書かれていた。従って、写本の発見によって新たに知られるようになった作品は全部で40編である。このうちの3編は、実際にはナグ・ハマディ写本発見以前に断片の形で見つかっていた。「トマスによる福音書」(II 2) がギリシア語で、「この世の起源について」(II 5)「シルヴァノスの教え」(VII 4) はコプト語版で発見されていたが、それはナグ・ハマディ写本が発見された後に同定されたものである。以下がナグ・ハマディ文書の詳細である。題名の日本語訳は荒井献『トマスによる福音書』(1994) に従った。コーデックスIは、四世紀の第二・四半世紀に筆写されたものと推定されている。コーデックスIIは、四世紀半ばに筆写されたものと推定されている。コーデックスIIIは、四世紀から五世紀にかけて筆写されたものと推定されている。コーデックスIVは、三世紀末から四世紀初めにかけて筆写されたものと推定されているコーデックスVは、四世紀半ばに筆写されたと推定されている。コーデックスVIは、四世紀前半に筆写されたと推定されている。コーデックスVIIの作成時期は、カートナージの分析から四世紀半ば以降であることがわかっている。同様にカートナージの分析から、コーデックスVIIはパコミオス修道院で作成されたものとみられるコーデックスIXは、四世紀前半に筆写されたと推定されている。コーデックスXは、四世紀半ばに筆写されたと推定されている。コーデックスXIは、四世紀前半に筆写されたと推定されている。コーデックスXIIは、四世紀前半に筆写されたと推定されている。
出典:wikipedia
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