高田藩(たかだはん)は、越後国に存在した藩。福嶋藩(ふくしまはん)とも呼ばれる。藩庁は高田城(現在の新潟県上越市)にあった。戦国時代の越後は織田信長や武田信玄と並ぶ名将として名高い上杉謙信の領国であった。謙信の跡を継いだ景勝は慶長3年(1598年)1月、豊臣秀吉の命を受けて会津120万石に加増移封された。この時秀吉は景勝に対し、上杉家中の侍は中間・小者に至るまで1人も残さず召し連れよ。しかし検地帳に記載され年貢を負担する百姓はすべて残していけ、という朱印状を出しているが、これは兵農分離を徹底させて精強な上杉軍の根幹を成す地侍を検地帳記載の農民として家臣団から切り離すことが目的だったとされている。慶長3年(1598年)4月、越後春日山には越前北之庄より秀吉の家臣・堀秀治が30万石(45万石とも)で入った。秀治は織田信長に寵愛された近臣堀秀政の嫡男である。ただしこの際、越後には堀直政ら堀一族、溝口秀勝(新発田城主)や村上頼勝(村上城主)ら与力大名も付属されたため、秀治自身の裁量が及ぶ範囲は10万石余だったとされる。秀治は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して越後に在国したが、これは関ヶ原本戦の5ヶ月前の4月に上杉景勝とその家老の直江兼続が越後に残った上杉氏の旧臣や神官・僧侶らを煽動して越後国内で一揆を起こしたためであった(上杉遺民一揆)。この一揆は特に魚沼地方で激しく行われたが、堀家はこの一揆を鎮定した。そのため、戦後に徳川家康から所領を安堵され、ここに幕藩体制下における高田藩(福嶋藩)が立藩した。秀治は一族の名臣として名高い堀直政を執政として藩政の基礎固めに着手し、関ヶ原の戦いの年には春日山城から福嶋城に居城を移す計画を立てた。しかし慶長11年(1606年)5月、秀治は31歳の若さで急死した。このため堀家の家督はまだ11歳という幼年の秀治の子・忠俊が継いだ。慶長12年(1607年)、忠俊は謙信時代からの越後の本城である春日山城を廃して福嶋城に移った。しかし、忠俊は幼年の上、生来からの病弱ということもあって政務が執れるはずが無く、実質的な政務は秀治の叔父で名臣として名高かった堀直政が執政としてなおも取り仕切ることとなった。しかし、慶長13年(1608年)2月26日に直政は死去してしまう。すると、堀家の内部で内紛が起こった。直政は子に堀直次(越後三条城主)とその異母弟の堀直寄(坂戸城主)の2人がいたが、この2人が藩の主導権をめぐって争い始めたのである。その争いは慶長15年(1610年)に入ると激化し、同年2月には遂に徳川家康による裁断を受けることとなった。忠俊自身は直次を支持していたが、家康の調べでとんでもないことが発覚する。直次が浄土宗と日蓮宗の僧侶を争論させて、敗れた方の僧侶を全て処刑していたことが発覚したのだ。これに家康は激怒した。閏2月2日、忠俊は改易となり、陸奥岩城に流されたのである(直次は改易の上、出羽最上に流刑。直寄は信濃飯山藩4万石に懲罰的な移封となった)。この裁定は、家康が僧侶殺害を激怒したことも一因であるが、堀氏が豊臣氏恩顧の大名であり、加賀の前田氏を抑えるためには信頼に足る一族を越後に配しておきたいという思惑があったためとも言われており、事実堀家の改易は迅速に行われた。堀氏の改易後には、家康の六男・松平忠輝が従来の川中島藩12万石に加え、越後の新領である63万石を領する75万石の太守として封じられた。松平忠輝は慶長19年(1614年)に高田城を築城し、福嶋城を廃してこれに移った。(厳密な意味ではこれ以降が高田藩である)実際の藩政は慶長18年(1613年)までは附家老の大久保長安が統括した。この長安は武田信玄にその行政手腕を見出されて登用され、家康の下では関東代官や金山奉行として活躍した人物である。長安は佐渡金山をも取り仕切っていた。しかし忠輝は慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で遅参した上、忠輝軍が大坂に向けて行軍中の近江守山で秀忠直属の旗本2名を斬殺するという事件を起こした。加えて大坂夏の陣後、朝廷に戦勝を奏上すべく家康と共に参内することになっていたにも関わらず、忠輝は桂川で舟遊びをしてこれに加わることができなかった。これらが原因と言われているが、家康死後の元和2年(1616年)7月6日、将軍秀忠の命により忠輝は改易および伊勢朝熊に配流となった。ここに至る混乱の原因については、忠輝は父・家康や異母兄・徳川秀忠に疎まれたことがあったため反発していた、秀忠が忠輝の存在(忠輝の妻・五郎八姫は大藩の主である伊達政宗の娘であり、この縁組を取り持ったのが、忠輝の附家老であり「天下の総代官」とも言われて天領や各地の鉱山を支配し、幕閣の重鎮であり、方々の諸大名と縁戚関係を持っていた大久保長安。これらを合わせた勢力は強大になる。)を恐れたための処置だった、徳川忠長や松平忠直と同様に近しい親族は幕藩体制確立の障害となるため排除された、などと諸説言われている。また大坂の役で得た領地は豊臣氏65万石余のみで諸大名に対して恩賞を与えることは困難であり、家康や秀忠は身内に厳しく対処することで乗り切る狙いがあったとする説もある。大久保長安は生前より徐々に失脚し、のち死亡。慶長18年(1613年)4月の長安の死の直後の同年同月から「大久保長安事件」と言われる長安派の粛清が始まった。翌慶長19年(1614年)8月21日、忠輝の家老・花井吉成(花井の娘は長安六男の妻)が死去。この後大坂の陣を前後して忠輝の上述の動きがあり、元和2年(1616年)に改易という流れである。忠輝改易後は上野高崎藩から酒井家次が10万石で入部した。家次は徳川四天王筆頭であった酒井忠次の嫡男で、生母は徳川家康の祖父松平清康の娘なので家康の従兄弟にあたる。家次は忠輝改易後の7月に高田城の受け取りを勤め、そのまま10月に入部した。家次は父と共に家康覇業の功臣として活躍した人物であったが、高田入部から2年足らずの元和4年(1618年)3月に死去。子の酒井忠勝が継いだが、元和5年(1619年)3月に信濃松代藩へ移封された。入れ替わる形で松代より元和5年(1619年)、松平忠昌が25万9000石で入る。忠昌は結城秀康(家康の次男で忠輝の異母兄)の次男である。元和9年(1623年)5月、越前福井藩を継いでいた長兄の松平忠直が不行跡を理由に改易されたため、幕命により忠昌は兄の跡を受けて宗家を継ぐこととなり、福井藩主となる。寛永元年(1624年)、高田には忠直の嫡男仙千代(のちの松平光長)が26万石を与えられて新規に立藩し、傍目には叔父と甥が入れ替わるという形となった。仙千代は第3代将軍家光から1字を拝領し光長と名乗り、越後守と従三位に列せられたなお、光長は未だ若年だったため、家老の小栗美作らが藩政を取り仕切った。小栗らは河村瑞賢を招聘しての殖産興業や中江用水の建設、魚沼銀山の開発、領内各地の新田開発、などにより藩の増収を図り、表高26万石を実高40万石にまで押し上げたとされている。寛文5年(1665年)12月26日に大積雪を記録し、翌27日には寛文の大地震が発生し、これにより本丸が崩れ、家中男女合わせて120名が死亡、2人の家老が死亡した。光長自身は江戸に居て無事だったが、翌正月に緊急帰国した。なお、これにより藩政は完全に小栗美作一人が掌握するところとなった。この地震の災害復興として小栗ら藩首脳は城下町の区画整理などを行い、震災で損壊した高田城の修復も行った。ところが、藩内、特に一族重臣の間で光長の跡継ぎを巡る御家騒動、いわゆる越後騒動が勃発する。。延宝2年(1674年)に光長の嫡男綱賢が早世したことをきっかけに、小栗美作と永見大蔵(光長の異母弟)の二者を筆頭とする派閥による藩政主導、および後継者を巡る争いは混乱を極め、幕府の介入および裁断を仰ぐこととなった。延宝7年(1679年)9月に大老酒井忠清の裁定により表面上、一旦は収束された。だが、延宝8年(1680年)に将軍家綱が死去して第5代将軍綱吉が就任すると、綱吉による異例の将軍直裁による再審議により、(綱吉が嫌っていた大老酒井忠清がこの騒動に関与・裁定していたため、酒井の決定を綱吉は覆した、ともされている)、光長の高田藩は改易処分となった。この印象悪化以降、高田藩は「懲罰的な転封先」とされることが多い。延宝9年(1681年)7月から高田は幕府領とされ、信濃他の諸大名が2家組・1年交代で城番を勤めた。このような組み合わせで、選ばれた大名はそれぞれ江戸に出府したのち、高田城に入城して、1年間勤めている。これら10名のうち、4万石から5万石が半数を占め、在番大名は主にこのクラスから選ばれたと推測できる。組み合わせのうち石高の多いほうの大名が、本丸に居住した。しかし、これらの在番大名はあくまで1年限りの預かり当番であり、責任ある政治が勤まるわけもなく、高田は荒廃して治安が乱れ、放火や強盗も相次いだ。このため高田の町民は自ら自衛の組織を創設し、自治体制の強化や防火組織の建設などが行われた。天和2年(1682年)には幕府によって高田藩の検地(天和検地)が行われ、以降における高田の土地支配の基準になった。やがて相模小田原藩主で京都所司代を罷免された稲葉正往(正通)が貞享2年(1685年)12月に10万3000石で移封され高田藩が再び立藩する。正住は第3代将軍家光の乳母春日局の曾孫に当たり、父は第4代将軍家綱の下で老中を務めた正則である。正住は荒廃した高田の城下町を再建するため、荒れた屋敷の区画整理や新田開発を行い、結果として城下町の中に田園があるという変則的な城下町が生まれることになった。正住はのちに江戸城大留守居役として幕政に復権し、老中就任を経た元禄16年(1701年)6月、下総佐倉藩へ移封された。稲葉家と入れ替わる形で、先年に寺社奉行を辞職した佐倉藩主戸田忠真が6万7000石で入る。しかし高田藩の歴代藩主家で最も小藩のため、行政や城下町建設では消極的な政策が採られた。宝永7年(1710年)に下野宇都宮藩へ移封となる。伊勢桑名藩主の定綱系久松松平家の松平定重が、家中不手際の処理が苛烈過ぎると幕府の将軍徳川綱吉の不興を買って転封、11万3000石で入る。この久松松平家は高田藩政でも厳しい統治を行った。騒動自体は享保7年(1722年)に第8代将軍吉宗が享保の改革で発令した流地禁止令が原因だが、この条目が原因で頚城郡における天領内の百姓が騒動(頸城騒動)を3年余にわたって起こし、幕府は騒動を鎮定するために天領を高田藩に預けることにしたのだが時の藩主松平定輝は藩軍を動員して暴徒を鎮圧すると、磔7名、獄門11名、死罪12名、遠島20名、所払い及び田地取り上げ19名、罰金(過料)20名という厳罰を下した。幕府はこの鎮定を評価して5代目の松平定賢の時に陸奥白河藩に移封したとしているが、実際は2度目の左遷だった。高田における久松松平家の統治はかなり厳しく特に重税が敷かれて領民は怨嗟の声を上げていた。移封の時期が鎮定した定輝ではなく5代目の定賢というのも時期が合わず、また高田よりさらに僻地の白河であるから実質的には左遷だった。徳川譜代の名門榊原家の当主であった播磨国姫路藩主の榊原政岑は、江戸吉原遊郭での豪遊などを咎められ、将軍・徳川吉宗の政策に反するとして強制隠居させられた。改易は免れたものの、跡を継いだ榊原政純は懲罰として姫路から高田に移された。石高は同じ15万石だったが、実際には陸奥国にある飛び地を含めたものであり、額面どおりの収入を得ることは非常に困難で、姫路と高田の商業規模などを考えても収入は減ったであろうことが推測され、財政が悪化したといわれている。名君として知られた榊原政令の時代には、他藩の事情などもあり飛び地分を隣接地に付け替えられることに成功し、藩財政は以前より安定した。その後、榊原氏6代の支配を経て明治維新を迎える。戊辰戦争では当初、態度を曖昧にしていたが、官軍が迫ると隣接の天領にいた幕府側の歩兵隊を追放し恭順の姿勢を示した。長岡・会津討伐の先鋒を命じられ、東北各地を転戦した。恭順を拒否した藩士は脱藩後、神木隊を組織し後に彰義隊に合同した。戊辰戦争終結後、降伏した会津藩士1,742名の御預を命じられる。藩内には旧幕府側に対する同情が強く、御預の会津藩士についても新政府からの給費がごくわずかであったため、藩庫から多くの金穀を補填し、彼らを手厚く待遇した。御預中に死亡した会津藩士の墓地は「会津墓地」と呼ばれ現存し、今も有志の手によって護持されている。外様、45万石(堀一族の領土は坂戸藩、蔵王堂藩、三条藩など含め30万石、越後国主としては、与力の新発田藩溝口家の6万石、村上藩の9万石を含めて45万石)親藩、75万石譜代、10万石親藩(秀康次男・忠昌系越前家→福井松平家)、25万9000石親藩(越後松平家→改易)、26万石譜代、10万3000石譜代、6万8000石譜代、11万3000石譜代、15万石上記のほか、頸城郡253村の幕府領を預かったが、2村が本藩に、251村が柏崎県(第1次)に編入された。
出典:wikipedia
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