伊藤 敦規(いとう あつのり、 1963年5月29日 - )は、愛知県知多市出身の元プロ野球選手(投手)。右投げ右打ち。現阪神タイガーストレーニングコーチ。中京高校から福井工大へ進学、エースとして北陸大学リーグで活躍。これは家業の工務店を継ぐことも考えての選択だった。1984年、3年時には全日本大学野球選手権大会で、福井工大として初めて準決勝に進出するが、法大に敗れた。これを評価され、第13回日米大学野球選手権大会日本代表に選出、さらにロサンゼルス五輪の代表選手にも選ばれる。五輪では2勝を記録し、金メダル獲得に貢献した。卒業後は地縁のある熊谷組に入社。1986年、1987年の都市対抗に連続出場。1987年の社会人野球日本選手権大会で2勝をあげ準優勝に貢献、同大会の優秀選手に選ばれる。同年にはソウル五輪予選にも出場した。1987年度ドラフト会議にて阪急ブレーブスから1位指名を受けて入団(阪急では最後のドラフト1位指名選手である)。なお日本ハムファイターズも伊藤を1巡目指名を受けたが抽選に外れ、武田一浩を外れ1位で指名を受けている。1988年8月28日のウエスタン・リーグの対阪神タイガース戦でノーヒットノーランを達成。上田利治監督の期待に応え1990年より一軍の先発ローテーションに加わる。パ・リーグ在籍時の30勝中7勝を当時黄金時代を築いていた西武ライオンズから記録し西武キラーと呼ばれた。1992年7月8日の藤井寺球場での対近鉄バファローズ戦では、新井宏昌に通算2000本安打となる三塁打を浴びたが、前半戦の活躍が評価されてこの年のオールスターゲームに監督推薦で出場した。1994年11月に飯塚富司と共に水尾嘉孝・渡部高史・堀江賢治との2対3の交換トレードで横浜ベイスターズへ移籍するも成績は低迷。1996年オフに戦力外通告を受けて、「幼い頃からファンだった阪神の入団テストを受けてダメだったら諦めもつく」と入団テストを受けた。フロントから「(今頃受けに来ても)99%無理だ」と言われたが無事合格し、阪神タイガースへ移籍。それまで主に先発投手だったが、阪神に来て初めて本格的に中継ぎへ転向。1997年から2001年まで史上7人目となる5年連続の50試合登板を果たすなど、ショートリリーフだけでなくロングリリーフをしつつ連投もこなす中継ぎ投手として活躍。同じくサイドハンドの遠山奬志、軟投派サブマリンの葛西稔らとともに強力なリリーフ投手陣を構成し、2000年にはリーグ最多の71試合に登板、防御率1.86という記録を残す。この年伊藤は37歳で、シーズン70試合以上登板した投手の中では歴代最年長記録となる。ヒーローインタビューでは「羽根を抜いては投げている」と自らを鶴の恩返しに例えた。2001年も52試合登板で防御率1.79と活躍したが、星野仙一監督が就任した2002年はキャンプ中から腰が悲鳴をあげるほど酷い状態で、更にシーズン中には肘痛を発症。防御率5点台という移籍後最低の成績に終わり、同年阪急時代から私生活でも親しかった星野伸之と共に現役を引退。実家の建設業「伊藤建設」の営業主任を務める傍ら、毎日放送の野球解説者として活躍。2005年に三軍コーチとして阪神に復帰し、翌2006年から2008年まで二軍トレーニングコーチ(2006年のみ投手コーチと兼任)、2009年からは一軍トレーニングコーチを務めている。伊藤 敦規|2016年|監督・コーチプロフィール|チーム情報|阪神タイガース公式サイト
出典:wikipedia
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