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寿司

寿司(すし、鮨、鮓)と呼ばれる食品は、米飯と主に魚介類を組み合わせた日本料理である。大別すると、酢飯と生鮮魚介を用いた「早鮨(早ずし)」と、魚介類を飯と塩で乳酸発酵させた「なれ鮨(なれずし)」に区分される。そのなかでも代表的な寿司は前者の握り寿司(江戸前寿司)であり、多くの諸外国でも“sushi”で通じる料理となっている。(詳細は、各々「江戸前寿司」「なれずし」を参照)『延喜式』の中に年魚鮓、阿米魚鮓などの記述がある。「すし」には「寿司」「鮨」「鮓」などの字が使われる。このうち「寿司」は好字を使った当て字である。「鮨」「鮓」はいずれも、本来は別の魚料理(「鮨」は「うおびしお」、「鮓」は「つけうお」、より詳しくは寿司#寿司の起源へ)を意味し、「すし」の意は国訓である。「寿司」と言う表記は、京都で朝廷へ献上することを考慮し使われるようになった。江戸では「鮨」、大坂では「鮓」の字が使用された。「すし」の語源は江戸時代中期に編まれた『日本釈名』や『東雅』の、その味が酸っぱいから「酸し(すし)」であるとした説が有力である。夏の季語である。鮨、馴鮨、押鮨、鮒鮨など。鮒鮨や彦根の城に雲かかる 蕪村現在は握り寿司が代表的であるが、弁当などには生魚を用いない押し寿司、ばら寿司、巻き寿司、稲荷寿司などが用いられる。また、鯖や鮭を使った柿の葉ずしなどの通常の寿司より保存に長けたものもある。握り寿司は、小さな酢飯の塊に寿司種を載せ、両手で握って馴染ませたものである。飯と種の間にわさびを入れることが多い。手づかみ、あるいは箸を用いて、必要が有れば醤油をつけて食べる。寿司としての歴史は浅く、江戸時代に江戸で考案された。1つを「1かん」と数え、「貫」の文字を当てることが多い。この助数詞は昭和後期のグルメブームの時に一般に使われるようになったと言われる。巻き寿司は、具と酢飯を海苔で細長く巻いた寿司。「巻き物」・「海苔巻き」とも呼ぶ。巻き簾の上に海苔を広げ、酢飯と具を載せて巻いたものである。太さの違いによって「細巻」「中巻」「太巻」と各々違う呼び名がある。江戸では干瓢の細巻きが好んで食べられ、これを海苔巻きと称した。また「軍艦巻」と呼ばれる、酢飯の側面に海苔を巻いて上にイクラ、ウニなどの崩れやすい材料を乗せたものもある。日本国外でも~ロール(Roll)として様々な種類の巻き寿司が創作されている(西洋寿司)。稲荷寿司の語源は、油揚げが稲荷信仰に関わりの深い狐の好物であることに由来する(このため「狐寿司」と呼ぶ地方もある)。『守貞謾稿』「江戸では油揚げの一方を裂いて袋状にし、木茸、カンピョウなどを刻みいれた酢飯を詰めたすしを、天保の末年から売り巡る。最も賤価なすし。稲荷ずしまたは篠田ずしという。店売りは天保前からあり、名古屋には以前からある」とある。『天言筆記』(明治成立)には飯や豆腐ガラ(オカラ)などを詰めてワサビ醤油で食べるとあり、「はなはだ下直(低価格)」ともある。『近世商売尽狂歌合』(1852年)の挿絵には、今日では見られない細長い稲荷寿司を、切り売りする屋台の様子が描かれている。現代の稲荷寿司は袋状に開いた油揚げを煮付け、中に酢飯のみを詰める場合と、酢飯にニンジンや椎茸、ゴマなどを混ぜ込んで詰める場合とがあり、後者を「五目稲荷」と呼ぶこともある。岐阜県あたりを境に、東は四角、西は三角と、地域によって形が分かれる。いずれも印籠寿司の範疇内に分類される寿司である。また、稲荷寿司と巻き寿司を詰め合せたものを助六という。これは「揚げ」と「巻き」で揚巻(歌舞伎『助六』に登場する花魁の名)という洒落である。酢飯に各種の種を混ぜ込み、錦糸卵などで飾りつけたもの。また江戸前寿司においては、白い酢飯の上に握り寿司の種を並べたものを指す。五目寿司は、家庭で作られる機会も多く、祭礼などハレの日の手作り料理として供されることが多い。細かく切った野菜や椎茸・かんぴょうの甘煮、酢蓮根などの具を酢飯に混ぜ混み、彩りにしょうが、錦糸玉子などを飾る。具にはさらに茹で海老・焼穴子等がよく用いられる。関西ではこれをちらし寿司、ごもくずし、かやくずしと言う。江戸前のちらし寿司をも食する地域では、五目ちらし寿司と呼び区別する。酢飯と具を重ね、力をかけて押した早寿司。箱寿司が元となっており、江戸時代に出来た握り寿司の原型。鯖寿司である大阪府のバッテラや京都府の鯖の棒寿司、富山県の鱒寿司、鰺の押し寿司、秋刀魚寿司、鳥取県の吾左衛門寿司、広島県の角寿司、山口県の岩国寿司、長崎県の大村寿司など。江戸ではこの押し寿司ではなく握り寿司が発展し、2つの文化に分かれていった。五目酢飯を薄焼き卵で包んだもの。大正時代に伏見宮家の茶会において、宮家御膳所包丁人の小原義太郎が考案した。関西発祥と誤解されることが多いが、東京生まれの創作寿司である。種を載せた酢飯をラップなどで包み、手毬に見立てた小さな球状に丸めた早ずしの一種。握り寿司のような技術を必要としないため、家庭料理や弁当などにもしばしば用いられる。比較的近年に誕生したと思われるが、起源は不詳である。世界各国の食材が普及し、寿司が日本国外に進出するにあたり、また食スタイルの変化などから日本伝統の寿司の形にとらわれない食材やスタイルの創作寿司もみられる。寿司種として魚介類以外にも、食肉、野菜などを使用したもの、ソースとしてマヨネーズやチーズなどの非伝統的な食材をトッピングしたもの、焼き、揚げなど色々な調理法を用いたもの、形もにぎり寿司や巻き寿司にこだわらないものなど様々である。これらの創作寿司は文字通り「創作寿司」として提供されたり、店名に「創作寿司」を冠している店舗も存在している。農林水産省などが開催する「WORLD SUSHI CUP JAPAN」において「創作寿司」部門が設けられ、江戸前寿司とはまた違った技術を競いあうイベントも開催されている。なれずし(馴れ寿司、熟寿司)は魚に塩と飯を混ぜて長期間保存し乳酸菌の作用によって発酵させたもので、飯の原形が残っていないことが多い。塩辛に近い保存食であり、単体で食事として用いられるものではない。滋賀県の鮒寿司や和歌山県の鮎の熟寿司(鮎鮨)、秋田県のハタハタ寿司などがある。各地で食べられる寿司には様々な種類があり、何れの地域以外ではあまり見られないものも多い。伊達巻寿司は、千葉県銚子市および大阪府などの郷土料理である。伊達巻の中に高野豆腐、椎茸、おぼろ、かんぴょうなどとともに酢飯を巻き込んだ寿司だが、具や飯の分量は地方によって異なる。明治初期、銚子の「大久保」の職人が細工寿司として考案したとの由来がある。太巻き祭り寿司は九十九里地方を中心として県内全域で作られる千葉県の郷土料理である。切り口が金太郎飴のように華やかで楽しめるようになっており、イワシを追いかけて来た紀州の漁師の弁当のめはりずしをそのルーツとする説もある。島寿司は東京都の伊豆諸島及び小笠原諸島、沖縄県の大東諸島にみられる郷土料理である。握り寿司の種として、島で捕れる魚を醤油漬にして使う。島で手に入りにくいわさびの代わりに唐辛子や洋がらしを使うなど、島の気候や食糧事情に合わせた製法で作られている。フナを用いたなれずしであり、滋賀県の名産である。一口大に押し固めた早ずしを笹の葉で巻いたもの。保存性を重視した古い時代の寿司の名残りで、種、酢飯ともにかなり強く酢を効かせて作られる。東京都のほか、鱒寿司で有名な富山県にも残る。柿の葉寿司は、柿の葉で巻いた寿司で、奈良県・和歌山県、石川県の郷土料理である。なお、奈良・和歌山県の柿の葉寿司と石川県の柿の葉寿司は作り方・形状は異なる。奈良では、塩漬けした柿の葉を主に用いている。元来は発酵させることが主流だったが、昨今は駅や空港等で売られている物については生産性を上げるために味付けした寿司飯を用いて1-2日保存して出荷している物が多い。また、元来は塩漬けされた鯖のみを使っていたが、後に鮭・小鯛・穴子等も用いられるようになった。めはりずしは、同じく奈良県・和歌山県(および三重県の熊野地方)の郷土料理である。魚介類は用いず、味付けした酢飯(又は白米)を高菜の浅漬けの葉で巻いた握り飯の一種である。鯖寿司は、若狭地方・京都や大阪・山陰地方、岡山県新見市の郷土料理である。新見市では「金棒寿司」「鯖包み」などとも呼ばれる。長方形に固めた酢飯の上(下)に塩鯖の半身をのせ、巻き簾や布巾で形を整えた後、出汁昆布や長昆布で全体をくるみ竹皮で包んだ物である。バッテラとは異なり、型に入れる作業がない。冷蔵技術が発達する以前に、京都の場合は鯖街道を通り若狭地方から、岡山県新見の場合は山陰から運ばれる塩干物の塩鯖が貴重な海産物であり、この鯖を利用した寿司が定着した。山陰や若狭では焼いた鯖を乗せることもあり、特に出雲地方では江戸時代から「焼さば寿司」として日常的に食されていた。最近では、漁獲量や輸送手段の問題などから全国に流通していなかった、脂質が21%以上ある「八戸前沖鯖」(通称:とろ鯖)などを使用した「とろ鯖棒寿司」など、新しい鯖寿司も増えてきている。大阪寿司は、江戸前の握り寿司に対して、木型を用いた箱寿司(押し寿司)を指す言葉。種には酢締めの鯖、昆布締めの鯛、焼き穴子、茹でたエビ、玉子焼きなどが用いられる。ばら寿司(五目寿司)、太巻き寿司等を含める場合もある。人肌くらいのぬるさが食べどきとされる関東の寿司に対し、関西では冷えてもうまいように昆布だしを加えて飯を炊き、寿司酢には塩と砂糖を混ぜる。なまずしではなくきずしと読む。鯖などの青魚や小鯛などを酢締めにしたもの。乳酸発酵を伴わない早ずしの一種であるが、米は用いられず魚のみで作られる。主に西日本で用いられる用語であり、東日本では「しめ鯖」「春子の酢締め」などと呼ばれることが多い。ぬくずし、又は蒸しずしと呼ばれる、近畿以西の中国、四国、九州地方に伝わる温かいバラ寿司のこと。「ぬくい」は「温かい」の意味で、この方言が通用する地方の冬季限定メニューである。茶碗蒸しとのセットメニューで知られる長崎市の「吉宗(よっそう)」では、通年で蒸しずしを食べることが出来る。バラ寿司の酢飯に焼き穴子、海老、白身魚、錦糸卵、絹さや、銀杏、桜でんぶ等を色鮮やかに盛り付け、蒸籠で蒸して食べる。発祥は大阪あるいは京都とされ、明治時代からあるが、手間の掛かる割に利益が少ないためか、メニューから外された地域が多い。大阪市、京都市、岡山市、尾道市、松山市などの寿司屋で、郷土料理として冬季(概ね12月頃から3月頃)まで食べられる。どんぶりに盛り付け蓋をして蒸籠で蒸す店と、一人前の蒸籠に盛り付けて蒸す店がある。岡山県の郷土料理である。酢飯に干瓢などの具材を混ぜ合わせた上に錦糸玉子をまぶし、さらに大きめに切った多様な具材を乗せる。岡山県内でも地方によって具材は様々である。岡山県備前福岡の郷土料理。炊き込みご飯に酢を加えて調味したもので、起源は日本で酢が作られる以前の鎌倉時代にまで遡る。当時は酢酸発酵したどぶろくを用いており、早ずしの元祖ともいえる料理である。高知県の山間部に伝わる郷土料理である。握り寿司、巻き寿司、稲荷寿司などが存在する。酢飯に柚子酢を効かせ、ネタに、タケノコ、ミョウガ、コンニャク、シイタケ、ズイキ、りゅうきゅう(ハスイモの茎の皮を剥いて塩漬けにしたもの)、ゼンマイ、イタドリ、柴漬けなど、主に山菜や漬物を用いる。酒寿司は鹿児島県の郷土料理である。塩・酒を合わせた飯と、エビ、イカ、錦糸卵などの具とをすし桶に交互に数段詰め、中蓋をかぶせ、数時間重石をする。寿司と称しているが酒飯であり、饗応には注意が求められる。中尾佐助著『栽培植物と農耕の起源』(1966年(昭和41年))では「ラオスの山地民やボルネオの焼畑民族」の焼畑農耕文化複合の一つとされている。『すしの本』は、東南アジアの山地民の魚肉保存食を寿司の起源と挙げ、高地ゆえ頻繁に入手が困難な魚を、長期保存する手段として発達したものとしている。『魚醤とナレズシの研究 モンスーン・アジアの食事文化』では、東北タイやミャンマーあたりの平野部を挙げ、水田地帯で稲作と共に成立した魚介類の保存方法が後に伝わったとしている。中国で「鮨」の字は紀元前5 - 3世紀に成立した辞典『爾雅』に登場する。「魚はこれを鮨という。肉はこれを醢という」と対比され、鮨は魚の塩辛と篠田は解釈している。後漢の『説文解字』に「鮺は魚の蔵(貯蔵形態)」であるとし、䰼と鮺は同じとする一方、鮨は魚の䏽醬(塩辛)だとして区別した。鮺がどのような保存食かは不明だが、10世紀の徐鍇の注は「今俗に鮓に作る」としており、これをもって「鮓」の濫觴と言える。2世紀末成立の『釈名』で鮓は「葅。塩と米で葅のように醸し、熟してから食べる」とされている。葅は漬物のことである。しかし、3世紀頃に編まれた『広雅』は鮨は鮓なりとして区別せず、東晋の郭璞による『爾雅注』も同じである。篠田はさまざまな記録から「鮓」が中国の古い時代にはあまりポピュラーな食べ物ではなかったことを示し、「南方を起源とする外来食」、つまり東南アジアから伝わったものと位置付けている。日本における文献初見は『養老令』(718年)の「賦役令」で、鰒(アワビ)鮓、貽貝(イガイ)鮓のほかに雑鮨が見える。『令義解』はこれに「鮨また鮓なり」と注解しており、以後も日本では鮨と鮓が区別されず、ともにすしとされた。「正税帳」(729年-749年)にも見える。篠田統、石毛直道らによると、これは外から来たものであり、稲作文化とともに中国は長江あたりから九州に伝わったのではないか、とみている。「鮓」の読みは『新選字鏡』(899年-901年)で「酒志」、「鮨」の読みは『倭名類聚抄』(931年-938年)に「須之」とされている<。1千年以上の歴史があり、すでに奈良時代に存在が知られる。平安時代の『延喜式』(927年)「主計寮式」には諸国からの貢納品が記されており、鮓・鮨の語を多く見出だすことができる。九州北部、四国北部、近畿、中部地区に多く、関東以北には見られないのが特徴的。魚(または肉)を塩と飯で漬け込み熟成させる「なれずし」であると考えられている。古代の寿司の推移を見ると、平安時代の寿司は『今昔物語集』の「すし売りの女の話」や「太りすぎた三条中納言朝成の話」の記述によると、寿司は飯部分を除去して食されていたようであるが、鎌倉時代になると『沙石集』に記述されているように寿司は残り物の魚の加工品として登場し、米食が一般庶民に浸透する室町時代になって登場した「ナマナレ」によって、飯を一緒に食する習慣が生まれたようである。篠田統は、室町時代の『蜷川親元日記』(1465年-1485年)にみえる「生成(ナマナレ)」という言葉を、発酵が十分でない鮨(鮓)の意味であると理解して、これは、「漬け床」の飯も共に食べるものであるとした。また、吉野曻雄は、鎌倉時代から室町時代の諸記録や日記にみえる鮨(鮓)は「生成」であるとし、日比野光敏は、「ナマナレ(生成)」の特質は、醗酵期間の短縮だけではなく飯の食用にあり、室町時代にはこれが主流となるとしたうえで、飯を食べないものを「ホンナレ」と称して区別した。この変化は蒸して強飯として食べられていた米を、炊いて柔らかい姫飯として食べるようになった食生活の変化が生み出したとされる。しかしながら、室町時代以降に「なれずし」の発酵期間が短縮され、また、「漬け床」の飯も食用とされたということを史料で確認することはできない。櫻井信也によれば、奈良、平安時代以来、室町時代から織豊時代にかけても鮨(鮓)の多くを占めるのは鮎や鮒の「なれずし」であるが、各時代の鮎や鮒などの同じ種類の鮨(鮓)の「飯漬け」期間を比較して、その期間の「短縮」が証明されていたわけではない。奈良、平安時代においても、食材の種類や「飯漬け」の時季により、醱酵の度合いには差があり、数日間の発酵のものもあれば、1、2箇月のものもあるとされる。従来の見解は、数箇月間以上の「飯漬け」を行う現在の滋賀県の「ふなずし」を奈良時代以来の「なれずし」、これよりも「飯漬け」期間が遙かに短い和歌山県の鯖の「なれずし」などを「生成」であるとする理解から導き出されたものであるという。そして、「生成の鮨(鮓)」とは、十分な熟成を経ない半熟の鮨(鮓)ではあるが、飯を共に食するというものではなく、敢えて半熟状態のものを試みに賞翫するというもので、「鮒鮨(鮒鮓)」に限られていることから、これは「鮒鮨(鮒鮓)」の食方を意味する言葉であり、室町時代以降のそれまでの「なれずし」が「生成」になるという篠田統以来の従来の理解は誤りである。また、酢を調味料として食することに特徴があり、寿司に酢を用いる契機となったとされる。そのため、「ホンナレ」と「ナマナレ」という区別も改められなければならないことになる。時代が下るとともに酒や酒粕、糀を使用したりと、寿司の発酵を早めるため様々な方法が用いられ即製化に向かう。そして1600年代からは酢を用いた例が散見されるようになる。岡本保孝著『難波江』に、「松本善甫という医者が延宝年間(1673年-1680年)に酢を用いたすしを発明し、それを松本ずしという」とあるが、日比野光敏によれば「松本ずし」に関する資料は他になく、延宝以前の料理書にも酢を使った寿司があるゆえ「発明者であるとは考えられない」としている。誰が発明したかはともかく、寿司に酢が使われ、酢の醸造技術も進んできて、いよいよ発酵を待たずに酢で酸味を得て食する寿司、「早寿司」が誕生することになる。「妖術と いう身で握る 鮓の飯」『柳多留』(1827年作句、1829年(文政12年)刊)が、握り寿司の初出文献である。握り寿司を創案したのは「與兵衛鮓」華屋與兵衛とも、「松の鮨(通称、本来の屋号はいさご鮨)」堺屋松五郎ともいわれる。江戸前(江戸の前=のちの東京湾)の魚介類と海苔を使用する江戸前寿司は、江戸中の屋台で売られるようになった。第二次世界大戦直後、厳しい食料統制のさなか、1947年(昭和22年)飲食営業緊急措置令が施行され、寿司店は表立って営業できなくなった。東京では寿司店の組合の有志が交渉に立ち上がり、1合の米と握り寿司10個(巻き寿司なら4本)を交換する委託加工として、正式に営業を認めさせることができた。近畿をはじめ日本全国でこれに倣ったため、日本で寿司店といえば江戸前ずし一色となってしまった。当時を知る職人は、「あらかじめダミーの米を入れる袋を用意して店頭に置き、取り締まりを逃れて営業したこともある」と述べている。戦後の高度成長期になると、衛生上の理由からすでに屋台店は廃止され、廉価な店もあるにはあるものの、寿司屋は高級な料理屋の部類に落ち着いた。1960年代から1970年代にかけて、サラリーマンを題材とした漫画では、夜遅くまで外で飲み歩いた亭主が、妻の機嫌を取るために寿司の折り詰めを買って帰るという姿が描かれることもしばしばあった。長い鎖国が解かれ、明治になると移民として南米へ、北米へと渡る者も多く、各地で日本人コミュニティが生まれた。アメリカ合衆国で最初の日本料理店「大和屋」がサンフランシスコに開店したのが1887年。ロサンゼルスでは、後にリトル東京と呼ばれる地域に日本食レストラン「見晴亭」が1893年開店し、1903年に蕎麦屋、1905年には天ぷら屋、そして1906年には寿司屋が開店する。戦前のリトル東京の日本料理店は、主に最大数万人規模のコミュニティにまで膨れ上がった日系人のための食堂であった。しかし、第二次世界大戦でアメリカ合衆国と敵対国になったことにより、日系人コミュニティは強制収容という形で衰退してしまう。戦後のリトル東京の寿司屋は、しばらく1930年代に創業した稲荷寿司と巻き寿司、型抜きした酢飯に魚を乗せただけの寿司を提供する店一軒のみであった。1962年にガラスのネタケースが海を渡り、老舗日本料理店「川福」の一角に本格的なカウンターを設えた「sushi bar」ができ、続いて「栄菊」、カリフォルニアロール発祥の店となる「東京会館」も、1965年にネタケースを設えて「sushi bar」は3軒となった。当初は寿司を食べる白人はほとんどいなかったが、1970年代に入ると徐々に白人社会にも受け入れられ、1970年代後半には寿司ブームともいわれるほどに成長していった。「すしバー」では江戸前寿司だけでなく、各店で独自にアレンジした料理も提供され、欧米では「すしバー」の名称が正統派の寿司店や寿司レストランを含む総称になりつつあるとも言われている。ロサンゼルスで火のついた寿司ブームは、その後日本の経済的進出も相まって、アメリカを中心とする世界各地に急速に広まった。1983年には、ニューヨークの寿司店「初花(Hatsuhana)」が、ニューヨーク・タイムス紙のレストラン評で最高の4ッ星を獲得しており、この頃までには高級フランス料理店に並ぶ評価を得る寿司店が出現するまでにイメージが転換していたことが窺える。現在、「スシ」は天ぷら、すき焼き等と並ぶ日本食を代表する食品になっており、日本国外の日本食レストランの多くでは寿司がメニューに含まれている。特に北米では人気があり、大都市では勿論、地方都市のスーパーマーケットですら寿司のパックや巻物が売られていることが珍しくない。回転寿司は、気軽に食べられることやシステムの面白さなどで外国でも人気を得るようになったが、文化の違いから「正しい」楽しみ方はしていないと不満を感じる日本人もいる。世界各地のスシ・レストランには中国人、韓国人など日本人以外の経営・調理によるものが増加し、日本人による寿司店の割合は10パーセント以下とまで言われるほど減少している。そのため、日本の伝統的な寿司の調理法から大きく飛躍(あるいは逸脱)した調理法の料理までもが「スシ」として販売されるようになった。酢をあわせていない飯に魚や中国料理を乗せて「スシ」だと称するところまである(日本国外における寿司職人養成の一端に付いては、前述の項目「寿司#職人 (しょくにん)」を参照)。更にはご飯も魚介も関係なく、一つの食材の上に別の食材を置いた料理を「Sushi style」と称して客に提供する星付きレストランまで現れた。このような現状から日本の農林水産省は「正しい日本食を理解してもらうための日本食の評価」を日本国外の日本食店に行う計画を打ち出したが、欧米の一部には、これを新しい食文化の誕生を疎外するものであると批判的に見る向きもあった。日本でも、アメリカの新聞・ワシントン・ポスト紙が2006年12月24日付け記事で用いた「スシ・ポリス(Sushi Police、スシ警察)がやってくる!」との表現が取り上げられた。このような反応を受けて農水省は認証制度の導入を止め、和食の国際的普及を目指す特定非営利活動法人(NPO)の「日本食レストラン海外普及推進機構(JRO)」が民間の立場から推奨店を決定する方式を取ることとした。経済発展が著しい中華人民共和国、香港、台湾やロシアでも寿司ブームが起こった。元来これらの国では魚を生食する文化はなかったが、富裕層を中心に愛好家が増えている。日本人が寿司文化を世界に広めたために、今度は寿司種が世界市場で高騰すると言う現象が起きてしまっている。寿司は鮨屋、回転寿司などの店内で料理として出される。寿司屋は出前を行なうこともある。スーパーマーケットやデパートの地下の惣菜コーナーでは詰め合わせや握り寿司2つ程度の小さなパックなどが売られる。弁当販売店の形式で、持ち帰り用寿司を売るチェーン店もある。巻き寿司、ちらし寿司はしばしば家庭でも作られる。かつての江戸では露天での販売も盛んで日本国内に広がった程であったが、衛生上の理由から屋台での寿司等生魚を使用した食品の販売は昭和初期までにその多くが規制されている。なお、韓国やタイには近年寿司を扱う屋台が現れた。日本においては、一皿毎の価格が明示されている回転寿司や、寿司専門店であっても一人一食分のセットメニューの価格が明示されている方式が広く普及している。しかし、伝統的な一部の寿司屋においては、会計は一つ一つの寿司に値段が掲示されていない場合もある。これは寿司種が時価の影響を受けるからである。一方、佐川芳枝「寿司屋のかみさんうちあけ話」(講談社 1995年5月)の「高くてびっくり安くてびっくり」にて、寿司の職人でも他の店に行けば値段が分からないこと、どんぶり勘定で客を見て値段を決めている店があることが書かれている。また、同じネタでも客を見て切る部位を変えるので値段も違うという主張も載せられている。他方、滞在時間の長い「来てほしくない客」の場合値段が高くなる、と公言する職人すらいる。日本の法律では商品の内容とサービスまた価格を偽ることは違法とされており、値段を店員へ尋ねることができる。地方によって外食と弁当となど、寿司の消費額と種類が異なる。「家計調査」2002-2011によると、東日本は外食が多く、寿司弁当は関西の都市に多い。金沢市は双方とも多いが、寿司店で握り寿司を食べる文化地域と、箱寿司やパック寿司を買って家で食べる文化地域など、寿司の文化は現在の日本東西で異なっている。北大路魯山人は「江戸前寿司の上方寿司と異なるところは、材料、味つけおよび技法の相違にある。」と寿司の違いについて記述していた。握り寿司は、人間の手で腐敗しやすい生鮮魚介類と酢飯を握る工程を行うものであり、その過程で雑菌が付着することは避けられない。従って、夏期においては握ったものをすぐ食べることが望ましい。米やネタに匂いが移る危険性があるので、臭いを発する強力な洗剤や殺菌薬等で手を洗うことは避け、寿司職人は用を足した後丁寧に手洗いに努めているケースがある。また、酢(酢酸)には殺菌の効果がある。さらに、わさびをネタとシャリの間に挟むのは、鮮魚の運搬に時間がかかる時代の名残に、殺菌剤として挟んでいたものの名残とされている。客によっては職人がカウンターから離れ戻ってきたときは、しばらく注文を差し控えるなど気にする人もいるが、どちらにしてもこれは想像力の問題で、実際に衛生上の問題があって寿司が安全ではないと言った大きな事件は日本において発生してはいない。日本国外では、手で握る作業を不潔なものと見なし職人が薄いゴム手袋やビニール手袋を嵌めることを求める規則がある場合があるが、日本においては魚介を生食する料理の調理を素手で行うことは家庭でも行われているごく一般的な手法であるうえ、職人の微妙な手指の感覚を阻害するものであると見なされ、そのような習慣はない。ただし日本国内でもスーパーなどで持ち帰りの寿司を作る場合や、回転寿司店で手袋を着用していることがある。昨今では、世界的な日本食ブームのおかげもあり、日本人以外のいわゆる「通」を自称する人々の間でも、「素手で握る寿司が一番」という風潮がある。これは単に伝統にこだわっているだけではなく、特に西洋人の間では「日本の寿司職人は、素手で握っても食中毒を起こさない衛生的で清潔な職人」というイメージを持っている人もいる。魚を切る時は包丁を引いて切る。これは西洋の押して切る切り方とは逆の切り方。またネタの種類によって切り方、特に包丁の角度は異なることが多い。

出典:wikipedia

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