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船場 (大阪市)

船場(せんば)は、大阪府大阪市中央区の地域名。大阪市の中心業務地区にあたる。大坂の町人文化の中心となったところで、船場言葉は江戸時代から戦前期にかけて規範的・標準的な大阪弁とみなされていた。船場は河川と人工の堀川に囲まれた(囲まれていた)四角形の地域であり、範囲はの東西1km、南北2km。江戸時代の町組の名残で、本町通の北を北船場(きたせんば)、本町通の南を南船場(みなみせんば)と呼び分けることもある。東は上町、南は島之内、西は下船場、北は中之島に接する。現在ではまれであるが、上町を東船場、下船場を西船場とみなして、船場を中船場と称することもある。語源については、牧村史陽編 『大阪ことば事典』 講談社、1979年、385-386頁に以下の説が挙げられている。街区は基本的に40間四方の正方形で、街路は碁盤目状に直交している。大坂城の西に位置することから東西方向が竪(たて)となり、東西方向の街路を通(とおり)と称する。計23本。当初の幅員は4.3間に設定されていた。一方、南北方向は横(よこ)となり、南北方向の街路を筋(すじ)と称する。計13本。当初は補助的な街路とされたために幅員は3.3間と通に対して狭く設定されていた。町割りは基本的に通に沿った両側町で、東から丁目数にして5程度の町が多かった。ただし、西横堀筋は全て南北方向の横町割りで、渡辺筋や御霊筋にも横町割りが見られた。明治以降に通と筋の主従関係が逆転したが、東西方向の竪町割りは依然健在で、平成以降は竪町割りに統一されている。なお、現在の町名では「町」は全て「まち」と読む。北から順に通りの名称を挙げる。北から順に通りの名称を挙げる。京都洛中のように多くの町名・町筋が伝統的に継承されず、また京都市や神戸市とは異なり大阪市は大通り以外の町筋、通りの表記をしていないため、これらの名称は現在ではそれほど認知されていない。ただし、堺筋、および三休橋(さんきゅうばし)筋、丼池(どぶいけ)筋、心斎橋筋、御堂筋は今でも広く知られている。なお電柱にはこれらの名称が今でも表記されているのが見受けられる。東から順に筋の名称を挙げる。かつて難波津、住吉津、渡辺津など港湾都市、国内流通の中心であった大坂の上町台地付近に1583年豊臣秀吉によって大坂城の築城および大坂城下の開発が開始された。当初は旧石山寺内・渡辺津・玉造といった上町が大坂城下の中心で、また、大川を挟んで上町の北に位置する中島寺内の開発も1585年から開始された。上町の西に位置する船場の開発はこの時期はまだ萌芽的なものであったが、1598年から始まった大坂城三の丸の造営により、城内となった渡辺・玉造の地に居た町人の移転先として船場の開発が本格化する。大坂の陣後、松平忠明による復興の際に島之内と下船場の開発が本格化し、さらに渡辺・玉造の地へ再度町人地が置かれることとなった。また、淀屋常安による中之島の開発も始まり、幕府直轄地となる頃には、それまで大坂とは別の町とみなされていた旧中島寺内を天満として取り込み、以降の大坂城下は船場を中心に展開されるようになった。繊維問屋や商社、証券会社、銀行の集中により、過密が問題となり、問屋街の郊外移転などが行われていた(例えば繊維問屋街の一部が箕面市の大阪船場繊維卸商団地、愛称「COM ART HILL」へ)。現在、いまだに過密であることに変わりはないが、かつての活気が船場からは失われつつある。一方、地元も様々な運動を開始し、他の地域との協力・交流もはじめている。例えば、2005年3月26日には綿業会館(国の重要文化財、中央区備後町2-5-8)で、四団体共同で船場フォーラムが行われた。四団体とは、銀座まちづくり会議(東京)、横濱まちづくり倶楽部(横浜)、都心界隈まちづくりネット(京都)、せんばGENKIの会(大阪)である。このうち、堺筋本町駅には2011年9月30日に「船場東」、本町駅(下船場に位置する四つ橋線ホームを除く)には2011年10月1日に「船場西」の副名称がそれぞれ、駅名標に追記された。船場地域を運行するバス路線として、大阪市営バスの8号系統がある。

出典:wikipedia

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