本(ほん、)とは、書籍または書物とも呼ばれ、木、竹、絹布、紙等の軟質な素材に、文字、記号、図画等を筆写、印刷し、糸、糊等で装丁・製本したもの(銭存訓(1990))。狭義では、複数枚の紙が一方の端を綴じられた状態になっているもの。この状態で紙の片面をページという。本を読む場合はページをめくる事によって次々と情報を得る事が出来る。つまり、狭義の本には巻物は含まれない。端から順を追ってしかみられない巻物を伸ばして蛇腹に折り、任意のページを開ける体裁としたものを折り本といい、折本の背面(文字の書かれていない側)で綴じたものが狭義の「本」といえる。本文が縦書きなら右綴じ、本文が横書きなら左綴じにする。また、1964年のユネスコ総会で採択された国際的基準は、「本とは、表紙はページ数に入れず、本文が少なくとも49ページ以上から成る、印刷された非定期刊行物」と、定義している。5ページ以上49ページ未満は小冊子として分類している。内容(コンテンツ)的にはほぼ従来の書籍のようなものでも、紙などに文字を書いたり印刷するのではなく、電磁的または光学的に記録・再生されるものやネットワークで流通させるものは、電子書籍という。漢字の「本」は、「木」という漢字の中心線の部分のやや下寄りのところに短い横線で印をつけることによって その部分を指し示した文字であり、樹木の根もとを意味している。これが日本では「ものごとのおおもと」という意味を表すようになった。そこから書写に使うもとの書物を本というようになり、さらには書物全般を指す言葉になった。なお、中国語においては「本」という言葉に「書籍」という意味は存在しない。書籍という語は、文字を記録した書と、尊い典籍、経籍を意味する「籍」の合成語である(『康煕字典』903頁)。英語のbook、ドイツ語のBuchは古代ゲルマン民族のブナの木を指す言葉から出ており、フランス語のlivre、スペイン語のlibroはもともとラテン語の木の内皮 ("liber") という言葉から来ている。こちらは大昔にそうした木の皮や木の薄板などに文字を書いたことに由来していると言われている。「書物の歴史」(イリーン著)で人間の本と謡われている通り、古代では人間という生きた本が部族の歴史などを口伝で伝えた。しかし人間社会が発達するにつれ、人の記憶だけでは済まされなくなり、様々な記録媒体が登場するようになった。インカ帝国のキープ(結縄)、インディアンが使用した彩色した貝や棒の刻み目や組合せ、古代中国の亀甲文字や獣骨文字や金石文字、インドなどの木の葉に記した文字、メソポタミアの粘土上に記した文字など、文明化した世界各地で様々な書写材料が試みられた。これらのうち、もっとも多くの民族が手軽に利用した、木の皮をはぎ、そこに書き写す行為が本の祖形になったと考えられ、先に挙げたゲルマン系やラテン系の言葉にも伺える。東洋の書籍の書写材料は簡策、絹帛、紙の順に開発された。簡策絹帛紙メソポタミアを流れるチグリス川とユーフラテス川の下流は粘土質であった為、メソポタミア文明ではその土を厚く板状にし、とがった棒や葦の先端で楔形文字を刻み、日に乾かしたり火で焼いたりして粘土板文書(clay tablet)を作った。有名なニネベ遺跡からは2万を越す粘土板文書が出土し、その内容も天文暦数、神話伝説など多岐にわたり、当時の文明の高さを窺い知ることができる。古代エジプトではナイル川河畔に自生するパピルスという植物の髄から書写に適した薄く柔軟な材料を作り、葦で作ったペンと、煤にアラビアゴムなどを加えて作ったインクでそこに文字を書き写した。後のアレクサンドリアの王室図書館ではパピルス本70万巻を超える蔵書を誇ったという。パピルスは英語、フランス語、ドイツ語などの紙の語源であり、また聖書(バイブル)などの言葉もギリシア語を経てパピルスにさかのぼる。獣皮を書写の材料とすることは古くからあったが、これが本格的に本の資材になったのは、紀元前2世紀ごろである。小アジアのペルガモンでエウメネス2世がアレクサンドリアに劣らぬ図書館を作ろうとしたが、エジプトがパピルスの輸出を禁止したため、ペルガモンの主産物であった羊やヤギの皮を利用し、使いやすい羊皮紙を開発した。羊皮紙は薄く、両面に書くことができ、折ることもできたため、パピルスのような「巻く本」から「綴る本」へと、本の体裁を根底から覆した。これ以後、1500年以上にわたり、羊皮紙が使用されることになった。ちなみに、羊皮紙をパーチメントと呼ぶのはラテン語の「ペルガモンの紙」という意味からきている。最初に冊子本を伝えたのは、6世紀初めにベネディクトゥスがイタリアに設けた修道院の修道士たちであった。修道士は斜面の写台の前に座り25cm×45cmの羊皮紙を半分に折り、鵞ペンで各種インクを用いて聖書の句を写した。羊皮紙4枚ごとに咽に皮ひもを通し、それらを重ねて一冊にすると紐で山になった背ぐるみに皮を被せて表紙とした。またその表面から小口をかけて金具を打ったり、表紙に宝石を嵌めたりして装幀の美を競った。羊皮紙よりも軽くて扱いやすい紙の発明は本の歴史にとって画期的であったが、実際に西洋で紙が羊皮紙に替わるようになるのは印刷術の発明以降であり、東西での紙の使用は10世紀以上の開きがある。15世紀半ばにドイツのヨハネス・グーテンベルクが金属による可動性の活字を使い、ブドウ絞り機を利用した印刷機を操作して印刷術を興してから本は全く面目を改めることになる。1455年以降グーテンベルクによって印刷された『グーテンベルク聖書』などによって印刷技術の意義が示されたことで印刷術は全欧州に広がり飛躍的な発展を遂げることとなった。日本で作られた本、いわゆる和書の歴史は、洋書の歴史とは異なり、いきなり紙の本から始まる。日本にいつ紙が入り、製紙術が伝えられたのか定かではない。日本書紀には、610年に曇徴が来朝し、絵具・紙・墨を巧みに作ったと記されている。おそらくは日本における碾磑(みずうす)の創製者であるとは書かれているものの絵具・紙墨については言及がない。したがって、彼が来朝する以前には製紙術は伝わっていただろうと考えられる。現在残っている最古の本は7世紀初めの聖徳太子の自筆といわれる法華義疏であるとされている。また、奈良時代の本の遺品は数千点にのぼり、1000年以上昔の紙の本がこれほど多数残されているのは世界に例が無い。また、日本では製紙法の改良により、楮、三椏などですいた優れた紙の本が生まれている事も特筆すべき点である。印刷術に関しては、8世紀に現存するものでは世界最古の印刷物である百万塔陀羅尼が発行されたが、平安時代には経文や文学作品を上質の和紙の上に美しい筆遣いで書き写す手法がとられ、印刷に関しては長く後を絶つようになる。平安時代末から鎌倉時代には中国の影響で木版印刷が広く行われるようになり、主に仏教関連の書籍が寺院から刊行された。また慶長年間には勅命により日本最初の木製活字本が現れ、「古文考経」「日本書紀神代巻」などのいわゆる慶長勅版本が刊行された。一方1590年にはアレッサンドロ・ヴァリニャーノによってグーテンベルクの活版印刷術がもたらされ、キリシタン版数種が誕生したが、キリスト教禁止などの影響により技術が途絶えた。また活字という印刷形態自体が繋げ書きが一般的だった当時の書物には馴染まなかったようで徐々に廃れた。現在の日本の活字印刷の基礎を築いたのは本木昌造で、幕末の1852年に鉛活字を用いて「蘭和通弁」を刷り、明治になって今日の号数活字の制定など活字印刷の緒をつけた。写経書籍の将来書籍の目録書籍の大量生産洋装本の時代以降、木版の和装本から、明治20年頃には洋装本の時代となった。図書、書籍の名を冠した館書物は様々な分類方法がある。国により多少の差はあるが、単発的に小部数を発行する書籍と、定期的に大量部数を発行する雑誌とは、流通上分けられている。日本は例外的に書籍流通と雑誌流通の差が少ない国であり、書籍も雑誌流通システムを利用している形になっている。そのため、書籍の流通が効率的になり、流通コストが抑えられ比較的安価である、書籍出版社の負担が少なく資本規模が小さくてすむなどのメリットがある。その一方で、返本サイクルが短く、出版年次の古い書籍を書店で入手しにくいなどのデメリットがある。古本は古書店にて流通している。再販売価格維持が適用される国・地域もある。本が購入されると、著作権者に所定の印税が支払われる。1981年1月以降に日本で発行された書籍には、国際標準図書番号(ISBN)に読者対象・発行形態・内容分類を表す「Cコード」と本体価格を加えた日本図書コードが振られている。それ以前で1970年1月以降の書籍には、書籍コードが振られている。それ以前の書籍には、国立情報学研究所によるNII書誌ID(NCID)や、国立国会図書館による日本全国書誌番号(NBN)などが振られている。なお、逐次刊行物にはISSNや雑誌コードが振られる。日本では年間7万7417点(2007年、以下同じ)の新刊が出版されており、出回り部数(取次出荷部数。新刊・重版・注文品の流通総量。返品の再出荷を含む)は13億1805万部、販売部数は7億5542万部である。新刊点数は年々増加しているが、部数・販売額は減少している。日本では、書籍の販売額は9026億円で、書籍・雑誌計の43%である。この額は1996年の1兆0931億円をピークに減少し、ピーク時の8割強である(なお、雑誌のピークは1997年)。金額ベースで39.4%、部数ベースで42.6%が返品されている。造本出版形態
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