ジャルート環礁(マーシャル語:Jālwōj/Jālooj, )、またはヤルート環礁とは、マーシャル諸島共和国の首都マジュロから南西220kmにある、91の島からなる環礁である。陸地の面積は11 km で、ラグーンは690 km ある。人口は1998年の時点で1,699人である。なお、環礁全体がラムサール条約に登録されている。ジャルート環礁は1884年からドイツの保護領となり、1906年からはドイツ領ニューギニアの一部として統治された。第一次世界大戦中にジャルート環礁は日本海軍によって占領された。軍政期を経て、1922年(大正11年)よりマーシャル諸島を含む南洋諸島全域が日本の委任統治領となった。日本統治時代、ジャルート環礁はドイツ語読みのヤルート環礁と呼称され、同環礁のジャボール島(Jabor)には南洋庁のヤルート支庁(後に東部支庁ヤルート出張所)が置かれ、日本のマーシャル諸島統治の中心地となった。そのため、横浜港やパラオのコロールからジャルート環礁まで、日本郵船のサイパン丸やパラオ丸による定期航路が就航していた。1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦後、ジャルート環礁東部に位置するイミエジ(Imiej)島には日本海軍の基地があったため、ジャルート環礁は米軍の攻撃目標となった。1942年(昭和17年)2月21日には米軍によるマーシャル・ギルバート諸島機動空襲が行われ、艦上攻撃機11機(爆弾装備)と艦上爆撃機17機が飛来し、特設運送船関東丸が損傷を受けた。1943年(昭和18年)10月、マーシャル諸島の南隣に位置するギルバート諸島が米軍に占領されると、日本陸軍は満洲国の関東軍から兵力を抽出し、海上機動第1旅団を編成した。ジャルート環礁へはそのうち2,311名の兵力が送られ、海軍陸戦隊員とともに守備についた。米軍のマーシャル諸島に対する攻撃は翌1944年(昭和19年)1月31日に開始されたが、ジャルート環礁に対しては空襲と艦艇による砲撃が行われたのみで、米軍部隊の上陸はなかった。しかし、この後日本本土からの食糧や医薬品などの補給が途絶えたため、飢餓や疫病によって守備隊員たちに多数の死者を出した。戦後、米軍による軍政期を経て、1947年に太平洋諸島信託統治領が発足し、ジャルート環礁はアメリカの信託統治領となった。新たな支配者となったアメリカは、マーシャル諸島の中心地を戦時中に占領したマジュロ環礁へ移転したため、ジャルート環礁は衰退した。1979年にマーシャル諸島政府が発足した後、1986年に自由連合盟約が発効したためマーシャル諸島は独立し、ジャルート環礁はその一部となった。1941年(昭和16年)、公学校用の教科書編纂のためにパラオへ赴任していた作家の中島敦は、同年9月27日から9月30日まで出張でジャルート環礁に滞在している。ジャルートを大変気に入った中島敦は、と妻に宛てた手紙に記している。これに対し、ジャルートに長く駐在していた役人からは「南洋群島でヤルートが一番いい、と言ったのは、あんたが始めてだ」と呆れられている。その後、中島敦は環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―という短編集のなかでジャルート環礁について取り上げ、ジャボール島の大酋長アマタ・カブアの家に招待された時の出来事などを書いている。アマタ・カブアは後にマーシャル諸島共和国初代大統領となった人物である。ジャボール島にはジャルート空港がある。マーシャル諸島航空が首都マジュロとキリ島へ定期便を就航させている。
出典:wikipedia
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