東 龍太郎(あずま りょうたろう、1893年(明治26年)1月16日 - 1983年(昭和58年)5月26日)は、日本の医学者・官僚。東京大学名誉教授。東京都知事(第4・5代)、日本赤十字社社長(第10代)等を歴任した。位階勲等は正三位勲一等旭日桐花大綬章。学位は医学博士(東京帝国大学)。称号は東京都名誉都民、日本赤十字社名誉社長等。父・藤九郎は医師。弟の東武雄は、東大野球部の投手として活躍。妻は東京帝国大学総長を務めた山川健次郎(枢密顧問官、男爵)の三女・照子。大阪府出身。藤九郎の長男。天王寺中学校、一高を経て、東京帝国大学医学部卒業後、ロンドン大学に留学し、物理化学・生理学を専攻。帰国後、東京帝大助教授を経て1934年に教授に昇進。戦時中は海軍司政長官・南西方面海軍民政府衛生局長・結核予防会理事を歴任した。戦後は厚生省医務局長等を経て茨城大学長に。1959年、自由民主党の推薦で東京都知事に立候補し、日本社会党等が推した有田八郎らを破って当選。以後1967年まで2期8年都知事を務めた。東京都知事退任後1967年から1969年まで東邦大学の学長を務めた。1983年5月26日、肺炎のため逝去。享年90。1926年 東京帝国大学より医学博士。博士論文は「筋の短縮及伸展に現はる丶熱力学的現象 (英文)」。大学在学中はボート競技の選手として活躍し、その後も日本におけるスポーツ医学の草分けとなったことから、スポーツ振興に造詣が深く、都知事就任前にも1947年から1959年まで日本体育協会会長・日本オリンピック委員会委員長、1950年から1968年までIOC委員を務めるなど国際スポーツ界に通じ1964年東京オリンピックの誘致に深く関わっている。行政としての実績については、後に都知事となる副知事の鈴木俊一によるところが大きいと評価されることがある。東京オリンピック開催に向けたプロジェクトを軌道に乗せた功績は鈴木の手腕に依存しており、その為、「東副知事・鈴木知事」等と揶揄する向きも強かった。東京オリンピック開催が成功した後は高度成長の歪みの問題が続出した。公害問題への対処が甘く、又1964年に水不足となり水制限になったことで批判があった際に雨が降らないからと応えたことに対し、東京都の水利政策がきちんとしていないという批判を浴びる等、民生に対する施策が欠けていた面が強かった。又、東京都議会黒い霧事件等の汚職事件は保守都政に対する都民の倦怠感を促進し、1967年に革新都知事の美濃部亮吉が誕生することにつながったとの指摘がある。また住居表示にともない都心部の歴史のある町名をいっせいにに変更した際には文化人や落語家等から批判を浴びている。東自身の人柄はよく、誰に対してもわけ隔てなく愛想よく振舞い、人によって居丈高になるようなことはなかったという。宗教は仏教。住所は東京都練馬区下石神井。東京都練馬区在籍。
出典:wikipedia
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