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マハラジャ (ディスコ)

マハラジャ (MAHARAJA) は、1980年代 - 1990年代にNOVA21グループが日本全国に展開した高級ディスコチェーン店の総称。1980年代のバブル期を代表するディスコの1つでもある。2010年11月には六本木に「マハラジャ六本木」として復活。また2014年4月には大阪に「マハラジャ大阪」として復活。両店舗は現在も営業中であるが、旧NOVA21グループとは経営母体が異なる。全国でナイトレジャー店舗を展開する目的で、1968年六本木に日本レヂャー開発株式会社(代表:菅野諒)と、日本アミューズメント株式会社(代表:菅野晃)が創立。「最後の20セント」「深海魚」「泥棒貴族」等、絨毯バーの展開が前身(最後の20セントグループ)である。1981年ノヴァ・インターナショナル株式会社(代表:菅野諒)が創立。傘下のグループ企業(店舗運営会社)は約70社を超える。併せてNOVA21グループを構成する(英会話のNOVAとは無関係)。現在は系列会社が、レストラン「しゃぶ禅」「牛禅」を全国に展開中。1982年8月大阪ミナミにマハラジャ1号店をオープンさせて以降、北は札幌から南は九州・沖縄まで日本全国で展開。1984年12月に7店目の店舗として、東京都港区の麻布十番にオープンした旗艦店舗となる「麻布十番マハラジャ」が社会的現象と呼ばれるほどの人気を博す。その後最盛期には全国に数十店舗を展開。そして1989年5月にはハワイのホノルルにも店舗をオープン。これまでのディスコの概念を打ち破った大理石・真鍮・装飾品を用いた絢爛豪華な内装、当時のコンサートホール並みの音響効果に特殊照明、ガラス張りのVIPルームの登場、今までのディスコでは味わえなかった本格的な料理、従業員による徹底したサービス、そして芸能人御用達が評判を呼び、1980年代に高級ディスコブーム(第二次ディスコブーム)を築いた。その後多くのディスコで取り入れられた「服装チェック(ドレスコード)」を実施。ジーンズ等のカジュアルでの服装や男性同士の入店禁止等、店側による客の選別が話題になった。なお「お立ち台」については六本木スクエアビル3Fの「ギゼ」が元祖の説があるが、その頃はまだ「お立ち台」と呼ばれていなかった。マハラジャに設置されると同時に「お立ち台」と称するようになる。本来はダンスフロア四隅に設置してあるスピーカー(ウーハー)ボックスだったが、混雑時に客が乗り出して踊ったのが始まりである。また「黒服」と呼ばれる役職を持つ店員もマハラジャから生まれた。これは従業員が階級別に色分けされた制服を着。役職はタキシード(黒服)を着ていたことから呼ばれるようになる。さらにハニートースト(はちみつトースト)もマハラジャから誕生した。「麻布十番マハラジャ」等、東京地区のマハラジャを運営する有限会社エヌ・エンタープライズ社長の成田勝が、全国のマハラジャ・チェーンのイメージリーダーとなり、1986年には歌手としてメジャーデビューも果たした。イタリアのユーロビートの雄、マイケル・フォーチュナティの大ヒット曲「INTO THE NIGHT」「GIVE ME UP」やデッド・オア・アライヴの大ヒット曲「TURN AROUND AND COUNT 2 TEN」などをカバーし、オリコンでも30位台に入るなどヒットした他、マハラジャ系列のディスコでプレイされ盛り上がった。また、その後も「東京マハラジャウェスト」、「東京マハラジャイースト」、「青山キング&クイーン」、「川崎キング&クイーン」、「エデンロック・トーキョーベイ」、「ロイヤルトン・トーキョーベイ」などの人気系列ディスコを次々に手掛け、1980年代を象徴する青年実業家といわれた。なお、現在は元「東京マハラジャイースト」の場所にあるレストランバー「プレゴ」を経営しているほか、各種アドバイザーとして活躍している。1988年1月5日の六本木トゥーリアの照明落下事故を機に、六本木界隈の第二次ディスコブームは終焉し、マハラジャの人気も下火になり始めるが地方出店は1991年まで続く。しかし1991年にオープンしたジュリアナ東京のブームに便乗し再人気がでる。ジュリアナ東京ブームが去った後も数店が営業を続けていたが、1997年9月には麻布十番マハラジャが閉店。1998年4月には「横濱マハラジャ」も閉店。皮肉にも第三次パラパラブームを目前としての閉店である。これらをもってマハラジャは約15年の歴史に一旦幕を閉じた。2003年8月には六本木に「マハラジャ東京「が復活オープンするも2005年1月に閉店。同年5月からは経営者が変わり「六本木キング&クイーン」として再オープンするも2010年7月に閉店。また2007年12月には中洲に「マハラジャ福岡」が復活オープンするも2009年8月15日に閉店。その後マハラジャの商標をNOVA21グループから大原俊弘が取得する。2010年11月2日にはオーナー大原俊弘のもと「六本木キング&クイーン」同所に「マハラジャ六本木」として再オープン。運営は日本都市プロダクション株式会社(代表:片山康生)。2014年4月23日には「マハラジャ大阪」がオープン。運営は株式会社創遊(代表:玉木邦甫)。※上記 <○○店> はFC(フランチャイズ)店※上記«○○店»はNOVA21グループの運営ではない日本全国はおろか海外にまで広がったマハラジャの代表的存在であった「麻布十番マハラジャ」は、当時まだ地下鉄の駅が開業しておらず、一番近い日比谷線六本木駅からでさえ徒歩10分以上かかるなど「陸の孤島」とまで呼ばれた東京都港区麻布十番(1-3-9 TBC麻布1F,2F)に1984年12月にオープンした。なお、同店はダンスホールとして風営法の適用を受けるために午前0時で閉店するため、隣接した建物に、「レストラン」として風営法の適用を受けず午前0時以降もオープンできる「マハラジャイースト」が設けられていた。同店はその立地条件を逆手に取り、六本木の多くのディスコのように郊外から電車で来店するようなボリューム層ではなく、自家用車での来店、もしくは港区内など近所に住みタクシーで来店するような比較的裕福な層をターゲットとし、さらにはドレスコードの強化や男性同士の入店を断るなど客の選別を行うことで、客層を一定以上のレベルに保つことに成功した。さらにきらびやかな制服を着用した従業員に徹底的な顧客対応訓練を施すことで、顧客満足度を上げリピーターを増やす事にも成功した。その他、動員力のある裕福な大学生および大学のイベント系サークル向けに割引カード「カレッジカード」を発行し、金曜の夜は「金マハ」という大学生中心の動員がされた。また土曜日や日曜日の午後には、これらのイベント系サークルが開催する貸し切りパーティーも頻繁に開催された。1階はエントランスとレストランコーナーになっており、レストランコーナーではパスタやピラフなど他のディスコでも提供されるメニューの他に、寿司職人が握りたての寿司を提供する他、「はちみつトースト」やパフェなどをはじめとするデザートも提供するなど、本格的な食事を提供していた。なお、エントランス脇には、トミタ夢工場が輸入代理店となっていたハルトゲBMWの最新車種が展示され、高級感の演出に一役買っていた。2階には真鍮製の象牙がエントランスにあしらわれたダンスフロアとDJブース、バーカウンターとVIPルーム、一般客用の座席があり、ダンスフロアを大理石で仕上げた上に、DJブース脇にはモニターを設置し、ところどころに真鍮の飾りを施して高級感を演出した。またトイレの清掃も頻繁に行われ清潔さを保っていた。開店から約13年を経た1997年9月に閉店し、その後跡地にはワインバーがオープンしたが2004年に閉店。その後、USENの宇野康秀が高級会員制社交クラブの「THE HOTEL JUBAN」を開店させたが、USENの経営状況の悪化もあり2009年に閉店。現在はレストラン「MANCY'S TOKYO」となっている。ちなみに、1980年代後半に閉店した『マハラジャイースト』の跡地は系列店のレストラン・バー『プレゴ』となって、現在も営業している。マハラジャという店名の命名者は、経営母体の日本レヂャー開発(NOVA21グループ)の社長菅野諒の友人でスカルノ元インドネシア大統領夫人のデヴィ・スカルノ(通称デヴィ夫人)である。

出典:wikipedia

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