ベンチャーズ (The Ventures)は1959年結成の、アメリカ合衆国のインストゥルメンタル・バンド。特に日本に於いてはビートルズと並び、後の日本の音楽界の全般の影響を与えたバンドとされている。2008年にはロックの殿堂入りを果たした。1999年以降、1月と夏の2回来日するようになったが(1月はノーキー、夏はジェリーがリードギターを務める)近年は夏全国横断ツアーのみである。2005年1月公演より、ボブ・ボーグルに代わり、ボブ・スポルディングがベースを務めている。デビュー時は、リードギターとリズムギターのデュオであったが、スカウトによりベース、ドラムが正式に加わり、このバンドの基本である4人編成となった。レコード製作では無名のスタジオミュージシャンが多数加わり、例えば「テルスター」ではエレクトーンが主要メロディーを取り、「十番街の殺人」はアルトサックスに[エフェクター]を介して[シンセサイザー]風に加工した物を加えてみたり、女声コーラスを導入したり、ブラスセクションやオーケストラを起用する等、これらをサウンド面で主要アクセントにした。更にはギターよりキーボード[但し立派な物ではなくチープな電子オルガン等が使われていた]をリードパートに多用した曲が多く、その後正式にキーボーディストをメンバーとして加え5人編成となった事もある。「5人体制時期は1968年~1975年である」ステージ上ではリードギターとベースが途中で交代する場面もある(最初期の演奏ではボブ・ボーグルだけでなくドン・ウィルソンがリードギターを担当するなど、現在と比べて演奏面やサウンド面も大きく異なっている)。旧メンバーこの他、1970年代半ば頃には、スーザン・シュレイバー、リーシャ・キャリー、ジョネル・カレンダーといった女性シンガーがツアーに参加したこともある。1959年ドンとボブにより結成。結成時は「インパクツ」を経て「ヴァーサトーンズ」と名乗っていたが、すでに使われていたため、ドンの母親であるジョシーからの提案によって「ザ・ベンチャーズ」と名乗るようになる。当初の演奏スタイルは、リードギターとリズムギターを曲によって交代し、正式なベースとドラムは不在だった。フェンダー社製のストラトキャスターやジャズマスターを主に使用していた。2人は昼間に建築業をしていたが、夜にはクラブに出演してキャリアを積み、音楽関係の人脈を作る中で、ノーキー、ホーウィーをメンバーとしてスカウトする。デビュー曲は「ブルー・ホライズン」からリリースした「ザ・リアル・マッコイ/クッキーズ&コーク」であるが、続く全米メジャーデビューは1960年発売の「ウォーク・ドント・ラン(急がば廻れ)」で、地元シアトルのラジオ局がニュース番組のテーマ曲として起用したことから火が付き、瞬く間にビルボード誌のヒットチャート第2位を記録した。正式のドラマーが不在だったので、スキップ・ムーアというクラブミュージシャンが担当したほか、ベースを後に正式加入するノーキーが弾いている。程なくホーウィーが交通事故に遭遇し、後遺症が残ったことからツアーに同行することが難しくなったため(脊椎を損傷したことが原因と言われている)脱退、メル・テイラーを迎えて黄金時代の四人が揃うことになる。メルの加入以前に、リードギターの担当がボブからノーキーに交代している。バック・オウエンスのバンドメンバーとして、既にギタリストとしてのスタイルを完成していたノーキーに任せたほうがバンドの将来にもいいだろうとのボブの判断による交代で(ボブ自身もベースの楽しさ、自由度に開眼したことも理由である)、ノーキーも後のインタビューで「ボブがリードギターを担当しているのはせいぜい数曲だろう」という由の発言をしている。初来日は1962年のことで、ドンとボブの2人が東芝音楽工業(のちに東芝EMI)のイベントに参加し、ベースとドラムは日本人が担当した。ボブの回想によると、ベースはなんとウッドベースで、「とにかく何もかも滅茶苦茶だった」とのことである(ほとんど演奏できなかったために結局ドンとボブ二人だけの演奏にすぐ切り替えたという)。ちなみに同時に来日したのはボビー・ヴィー(後に共作のアルバムをリリースする)、ジョー・アン・キャンベルであったが、観客のほとんどは日本側の出演者であったスリーファンキーズのファンだったという。また、当時四人ではなくドンとボブ二人だけの来日となった原因は、日本側が用意したギャラが二人分しか用意できなかったためである。この頃はパッケージツアーとして、オーストラリアやニュージーランドなどをツアーし、米軍基地への慰問なども行った記録が残っている。ベンチャーズが日本で人気が出たのは2回目の来日(1965年1月、アストロノウツなどとのパッケージツアー)で、ドン、ボブ、ノーキー、メルの4人で行った日本公演からであった。彼らは専用ギターである、モズライトのギターを真空管アンプにプラグ・インすることで生まれるラウドなサウンドで、たちまち日本の若者たちをとりこにし、日本に於いて一大エレキ・ブームサーフ・サウンド・ブームを巻き起こした。アンプのリヴァーブをフルにし低音弦をスライドさせて、トレモロ・ピッキングを行う「ピッキング・グリスダウン」奏法(日本では一般的に「テケテケ」と呼ばれる。しかし開祖はキング・オブ・サーフ・ギターと謳われるディック・デイルであり、ベンチャーズが編み出したわけではない)と共に、「ダイアモンド・ヘッド」、「パイプライン」(これを題材にしたのが映画化もされた芦原すなお原作の『青春デンデケデケデケ』)、「10番街の殺人」、「ウォーク・ドント・ラン」、「キャラバン」など、数々のヒット曲を生み出した。彼らが本国米国で一番人気があったのは60年代までで、日本では長く人気を保ち来日回数は50回を超え、いわゆるビッグ・イン・ジャパンの代表例とされている。1966年に加山雄三の「君といつまでも」のカバーを日本で発売してヒットしたことをきっかけに、1960年代後半から1970年代前半にかけて日本を意識した曲を作るようになり、日本の作詞家が歌詞を付けて発売したことで、歌謡曲の作曲家としても注目されるようになる。越路吹雪のために書いた銀座の夜景をイメージした「GINZA LIGHTS」が「二人の銀座」(和泉雅子&山内賢)としてリリースされたのを皮切りに、「北国の青い空」(奥村チヨ)、「京都の恋」「京都慕情」(渚ゆう子)、「雨の御堂筋」(欧陽菲菲)などの歌謡曲を送り出し、それらはベンチャーズ歌謡と呼ばれた。これには当時メンバーを離れたノーキーに代わって参加したジェリー・マギーの幅広い音楽性が作用しているとも言われている。特に「京都の恋」は、(1970年)第12回日本レコード大賞企画賞を受賞している。現在でも日本に於いて定期的にコンサートツアーを行っている。米国のバンドではあるものの、インストゥルメンタル主体のバンドであるが故、言語の壁を乗り越えてその明快な楽曲が受け入れられ、米国以上に日本のポップシーンに影響を及ぼした。日本におけるレコード等の総売上は4000万枚を超える。そのため、アメリカ本国より日本で得た収入の方が圧倒的に多い。1960年代当時、2ヶ月に1枚のハイペースでアルバムを出しながらツアーを回るというスケジュール事情から、ベンチャーズのメンバーが1960年代前半は基本的にステージメンバーであり、レコーディングでは過半数の音源がスタジオ・ミュージシャンによるものであると主張する者もいる。(また[悲しき闘牛/the lonely bull]のベンチャーズ版が実はハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラスが先に録音した音源をそのまま拝借したものである。しかし、ハーブ・アルパート盤のレコーディングにメル・テイラーが参加していた事もあり黙認された)これは前述通りシングル発売と同じペースでアルバムを制作、発売していたためで、メンバーのスケジュール等の制約によって一部の曲にはメンバーの全面参加していない物も多く存在していると推測される。2004年日米交流150周年記念外務大臣賞を受賞し、ドン、ボブ・ボーグル、ノーキーが授賞式に参加した。2006年、彼らの最初の大ヒット曲である"Walk Don't Run"がグラミー賞の殿堂入りを果たす。2008年ロックの殿堂(The Rock and Roll Hall of Fame and Museum)入りを果たす。ドン、ノーキー、リオン、ボブ・スポルディング、ジョン・ダリル(ジェリー・マギーの代理として出席)がニューヨーク・ウォルドルフ・アストリアホテルで開催された授賞式に出演し、ベンチャーズの影響を受けていた事を公言したジョン・フォガティがプレゼンターとして登場。フォガティの紹介に続いてベンチャーズが登場し、「ウォーク・ドント・ラン」を基本編成の4人で、「ハワイ・ファイブ・オー」をブラスセクション付きで演奏した。現在も世界各国にファンがおり[アメリカ本国では多くはない。ただしエアロスミスがリスペクトを抱いている事は有名]、コピーバンドも多数存在する[特に日本では老若男女、さらには子供までいるほどである]。しかし、日本との特別な関係や、与えた影響という観点から、日本の音楽史に無くてはならない存在ともなっている[更に、日本では他の歌手やバンドが先にリリースした曲だろうとベンチャーズが取り上げたら「ベンチャーズの曲」となる概念まで存在する]。1996年にメル・テイラーが、2009年に結成時のメンバーであるボブ・ボーグルが他界したが、今もなお現役でステージに立ち続けている。2009年に結成50周年、2014年に結成55周年を迎えた。2010年春の叙勲にて旭日小綬章を受章した。2015年度のジャパンツアーをもって、結成メンバーであるドン・ウィルソンがツアーからの引退を正式に表明、同年ジャパンツアー最終日において、ボブ・スポルディングが以後リズムギターを担当し、ベーシストとしてボブ・スポルディングの息子であるイアン・スポルディングを迎えることが正式に発表された。また同年より、リオン、ボブ、イアンのスポルディング親子を中心とするニューバンド[V-2]が活動を開始した。最初のヒットシングルとなった「ウォーク・ドント・ラン(急がば廻れ)」は、ドン・ウィルソンのインタビューによると、チェット・アトキンスが自身で編み出した「ギャロッピング奏法」をベース、メロディ、コードバッキングに分解し、それにドラムパートを加え、ロックンロールのリズムに乗せた物であり、この単調かつ明快なスタイルが以後のベンチャーズの基本的な演奏パターンとなって現在に至っている。ベンチャーズが登場して翌年、西海岸を中心にサーフ・ミュージックギター・バンドが出現、そのほとんどのバンドがベンチャーズから直接的、間接的な影響を受けていたのは明白である二代目のリード・ギタリスト(初期はベーシスト)であるノーキー・エドワーズは2回目の来日公演(1965年1月)で「電気ギターの王様」と紹介され、天才的で卓越したテクニックは多くの日本人ギタリスト達に影響を与えた。彼はカントリー・ピッキング(親指にピックを固定し、人差し指や中指を同時に利用する多指奏法)を基本としたテクニックで、トレモロアームをアクセントとして使用し、モズライトギターの高出力ピックアップを活かしたラウドで金属的なサウンドを作り出していた。特に1965年7月来日時の録音を収めた赤盤ライブの、「クルーエル・シー」、「ペネトレイション」、「ドライビング・ギター」、「キャラバン」などはその特徴が顕著である。その後、彼は1980年代にベンチャーズを脱退(2度目の脱退)し、ソロ活動が中心となっているが、公式ホームページでは脱退扱いにはなっておらず、実際本国では何度か、ノーキーがベンチャーズに参加して活動している。近年は、オリジナルモデルのギターを用い、よりカントリースタイルを意識した演奏となっており音色もソフトなものとなっている。1968年にノーキーが1度目の脱退をし、三代目リード・ギタリストとして加入したのがジェリー・マギーである。ジェリーのサムピックを使用した奏法(ノーキーも1972年に復帰したときからレコーディングやステージでサムピックを使用するようになった)や彼の出身地ルイジアナをルーツとした南部色の強いソウルフルなサウンドが特徴的である。「朝日のあたる家」は、ベンチャーズが1960年代からもともとレパートリーとしているが、1980年代にジェリーが再加入した後のステージでは彼独特のアドリブによるブルージーなサウンドが、新たな聞かせどころとなっている。また元来スタジオミュージシャンとしてエミルー・ハリス、エルビス・プレスリー、モンキーズなど多数のレコーディングやセッションなどの経験を積んで来たため、幅広いスタイルの音楽に柔軟に対応できる懐の深さを持ち合わせている。近年は、中音域をブーストさせる回路付きのフェンダー・ストラトキャスターを用いており、曲によってブーストのかかり具合を微調整して、音色にバリエーションを持たせる工夫をしている。ステージでは2部構成のプログラム進行を採り、アンコールで必ず「キャラバン」が演奏されこれがお約束となっている。
出典:wikipedia
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