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柴田勝久

柴田 勝久(しばた かつひさ、1943年12月4日 - 2010年1月16日)は、日本の元大相撲力士、元プロレスラー、レフェリー。三重県桑名市出身。大相撲時代の四股名は、三重ノ山 勝久(みえのやま かつひさ)。朝日山部屋(入門時は大鳴戸部屋)所属。柴田勝頼は実子。大鳴戸部屋(師匠は二瀬山)に入門して、柴田の四股名で1960年7月場所に16歳で初土俵を踏む。鉄扇(てっせん)と改名して1961年5月場所には序ノ口優勝、1963年9月場所には三段目優勝を果たした。この間、大鳴戸部屋と朝日山部屋の合併に伴い新・朝日山部屋所属となり、四股名も三重ノ山と改名した。しかし1966年9月場所限りで廃業、最高位は幕下35枚目。大相撲廃業後はプロレスへ転向、1966年に東京プロレスに入団して同年10月12日プロレスデビューした。1967年2月の東京プロレス崩壊後は、アントニオ猪木らとともに日本プロレスに移籍。その後、メキシコへ遠征し長くトップルードとして活躍するも、1972年の新日本プロレス旗揚げに参加。1973年4月6日の『ワールドプロレスリング』新日本プロレス第1回放送のメインイベント(猪木&柴田vsジャン・ウィルキンス&サイクロン・ソト)に登場するなど、新日本の中堅を固める存在として活躍。この頃はマスコミから「マットの眠狂四郎」と名付けられていた。1977年2月9日、肩の怪我のため、小沢正志戦で現役を引退、レフェリーへ転向。厳格なレフェリーとして活躍したが、1999年6月25日に新日本プロレス「柴田勝久レフェリー引退記念興行」でレフェリーを引退した。全試合終了後の引退記念セレモニーでは、息子勝頼を激励の意を込めてボディスラムで投げた。2005年9月11日、メインイベントで勝頼が試合を行ったビッグマウス・ラウド旗揚げ戦にレフェリーとして参加した。その後は藤波辰爾が主宰していたドラディションのリングでレフェリーをしていた。2010年1月16日の朝、心筋梗塞にて急逝。。妻は勝頼に「倒れた」と電話で連絡。勝頼は東海道新幹線などで実家に戻る途中の車内で「ダメだったー」というメールを受けて通路で泣き崩れたという。前日には勝頼に「元気だよ」とメールをしたばかりだったという。親子の最後の対面は死亡する3か月程度前で、勝頼は高卒後に独立したせいもあってか「親子の時間を大切にすればよかった」、「お互い酒好きなのに殆ど一緒に飲まなかった」、「メールや電話が多くてあまりじっくり話をしなかった」という。その後は妻のみが実家に残され、勝頼は帰省回数を増やしたという。

出典:wikipedia

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