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アルゼンチン

アルゼンチン共和国(アルゼンチンきょうわこく、)、通称アルゼンチンは、南アメリカ南部に位置する連邦共和制国家である。西と南にチリ、北にボリビア・パラグアイ、北東にブラジル・ウルグアイと国境を接し、東と南は大西洋に面する。ラテンアメリカではブラジルに次いで2番目に領土が大きく、世界全体でも第8位の領土面積を擁する。首都はブエノスアイレス。チリと共に南アメリカ最南端に位置し、国土の全域がコーノ・スールの域内に収まる。国土南端のフエゴ島には世界最南端の都市ウシュアイアが存在する。アルゼンチンはイギリスが実効支配するマルビーナス諸島(英語ではフォークランド諸島)の領有権を主張している。また、チリ・イギリスと同様に南極の一部に対して領有権を主張しており、アルゼンチン領南極として知られる。2005年と2010年に債務額を大幅にカットする形で債務交換を強行し、9割以上の債務を再編した。これはアメリカ合衆国との国際問題に発展した。正式名称は、'(レプブリカ・アルヘンティーナ)。通称、'(アルヘンティーナ)。日本語の表記はアルゼンチン共和国。通称アルゼンチン。他にアルゼンティンとも表記され、漢字による当て字では、亜尓然丁、亜爾然丁、阿根廷のように表記される。原語音に即したアルヘンティーナと表記されることもある。英語表記はArgentina(アルジェンティーナ)、公式にはArgentine Republic(アルジェンティン・リパプリック)。独立当時にはリオ・デ・ラ・プラタ連合州(あるいは南アメリカ連合州)と呼ばれていた。リオ・デ・ラ・プラタ(Río de la Plata)=ラ・プラタ川は、スペイン語で「銀の川」を意味し、1516年、フアン・ディアス・デ・ソリスの率いるスペイン人の一行がこの地を踏んだときに、銀の飾りを身につけたインディヘナ(チャルーア人)に出会い、上流に「銀の山脈」(Sierra del Plata)があると信じたことから名づけたとされる。アルゼンチン Argentina の名は、この「銀の川」にちなみ、ラテン語で「銀」を意味する Argentum に地名表現のために女性縮小辞を添えたものである。スペイン語の「ラ・プラタ」からラテン語由来の名へと置き換えたのは、スペインによる圧政を忘れるためであり、フランスのスペインへの侵略を契機として、フランス風の呼称であるアルジャンティーヌ(Argentine)に倣ったものでもあるという。1602年にはの叙事詩『』にこの語 "Argentina" が現れている。公式に国名をアルヘンティーナ(アルゼンチン)としたのは1825年のことであった。とはいえ現在でも、憲法により、「リオ・デ・ラ・プラタ連合州」(Provincias Unidas del Río de la Plata)や「アルゼンチン連合」(Confederación Argentina)などの歴史的国名は、「アルゼンチン共和国」(República Argentina)とともに、同国の正式名称として位置づけられている。アルゼンチンの最初の住民は、紀元前11,000年にベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々だった。彼らは現在パタゴニアに残る「手の洞窟」を描いた人々であった。その後15世紀後半に現ペルーのクスコを中心に発展したケチュア人の国家クスコ王国(1197年 - 1438年)は、タワンティンスーユ(インカ帝国、1438年 - 1533年)の皇帝トゥパック・インカ・ユパンキとワイナ・カパックによって征服され、北西部のアンデス山脈地域はタワンティンスーユに編入された。征服された地域はタワンティンスーユ内の四州の内の一州、コジャ・スウユ(、「南州」)の辺境の地となり、30万人ほどのケチュア人やアイマラ人が住むようになった。アルゼンチンにおけるコジャ・スウユの領域は北は現在のフフイ州から南はメンドーサ州、東はサンティアゴ・デル・エステロ州の北部にまで広がっていた。その一方でインカ帝国の権威が及ばなかったチャコやパンパやパタゴニアには、チャルーア人のような狩猟インディヘナが主に居住しており、パンパやチャコにもグアラニー人のような粗放な農耕を営むインディヘナがいたが、全般的にこの地域に住む人間の数は少なかった。16世紀に入ると、1516年にスペインの探検家、フアン・ディアス・デ・ソリスが最初のヨーロッパ人としてこの地を訪れたが、すぐに先住民といさかいを起こし、まもなく殺害された。その後もスペインによってこの地域の植民地化は進められた。1536年にラ・プラタ川の上流にあると思われた「銀の山」を攻めるために、バスク人貴族の率いる植民団によって、ラ・プラタ川の河口にヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレ市が建設されたが、まもなくインディヘナの激しい攻撃に遭って放棄され、以後200年ほどラ・プラタ地域の中心は、1559年にアウディエンシアの設置されたパラグアイのアスンシオンとなった。植民地政策の伸展に伴ってペルー副王領の一部に組み込まれたこの地は、ペルー方面からアンデス地域を軸に開拓が進み、1553年には現存するアルゼンチン最古の都市サンティアゴ・デル・エステロが建設された。アスンシオンからの内陸部開発も盛んになり、1580年には放棄されたブエノスアイレスが再建されたが、それでもこの地域はベネズエラなどと並んでイスパノアメリカでは最も開発の遅れた地域だった。また、1541年に放された12頭の馬がパンパの牧草を食べて自然に大繁殖したことともあり、いつしかガウチョが現れるようになっていった。同じようにして繁殖した牛は19世紀の始めにはラ・プラタ地域全体で2000万頭ほどいたといわれている(ちなみにこの頃の人口はアルゼンチン・ウルグアイ・パラグアイを併せても100万人を越えないほどだった)。植民地政策の経過により、当初は大西洋岸よりも内陸部の発展が早かった。1613年には内陸のコルドバにコルドバ大学が建設され、以降19世紀までコルドバは南米南部の学問の中心となった。18世紀には等に代表されるように、方面から攻撃を続けるポルトガルとの小競り合いが続き、スペイン当局がバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)を防衛するためもあって、1776年にペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が分離されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となって正式に開港され、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国との密貿易により空前の繁栄を遂げた。しかし、この時点においてアルゼンチンの産業の中心は北西部のトゥクマンや中央部のコルドバであり、リトラル地域やブエノスアイレスには見るべき工業はなかった。このブエノスアイレス港の正式開港は、後に植民地時代に繁栄していた内陸部諸州に恐ろしい打撃をもたらすことになった。1806年、1807年の2度にわたるイギリス軍のを打ち破った後、スペインからの解放と自由貿易を求めたポルテーニョは1810年5月25日に五月革命を起こし、ブエノスアイレスは自治を宣言したが、ラ・プラタ副王領のパラグアイ、バンダ・オリエンタル、アルト・ペルー、コルドバはブエノスアイレス主導の自治に賛成しなかった。このためブエノスアイレス政府は各地に軍を送り、コルドバを併合することには成功したが、1811年のマヌエル・ベルグラーノ将軍のは失敗した。1813年のサンロレンソの戦いにも勝利するとスペイン王党派軍との戦いが本格化するが、しかし王党派の支配していた(、)は失敗した。独立戦争が難航する中、1816年7月9日にはで正式に独立を宣言したが、まだこの時点では独立の方向も定まっておらず、インカ皇帝を復活させて立憲君主制を導入しようとしていたベルグラーノ将軍のような人物から、のようにアメリカ合衆国のような連邦共和制を求める勢力もあり、ブエノスアイレスは自由貿易、貿易独占を求めるなど、独立諸派の意見は全く一致しなかった。ベルグラーノ将軍がに失敗し、司令官を辞任すると、後を継いだ司令官のホセ・デ・サン・マルティン将軍がを行い、王党派の牙城リマを攻略するために遠征を重ね、王党派軍を破ってチリ(、)、解放者シモン・ボリーバルのコロンビア共和国解放軍から派遣されたアントニオ・ホセ・デ・スクレがペルー()を解放していったが、本国ではブエノスアイレスの貿易独占に反対する東方州やリトラル三州のアルティーガス派(連邦同盟)とブエノスアイレス(トゥクマン議会派)の対立が激しさを増し、内戦が続いた。内戦の末、1821年にが失脚すると中央政府は崩壊したが、中央政府が存在しないことは外交上不利であったため、各州の妥協により1825年にブエノスアイレス州が連合州の外交権を持つことを認められた。その後、ブエノスイアレスと敵対していた東方州がポルトガル・ブラジル連合王国に併合されたことをブエノスアイレスが見過ごしたことへの批判が強まり、33人の東方人を率いて独立運動を開始した将軍のバンダ・オリエンタル潜入から、かの地を巡って1825年にブラジル帝国との間にブラジル戦争が始まった。この戦争に際して挙国一致が図られ、を首班とした中央政府が一時的に成立し、この時に国名をリオ・デ・ラ・プラタからアルヘンティーナに改名したが、戦争の最中に制定された中央集権憲法と、ブエノスアイレスを正式に首都と定める首都令が国内の全ての層の反発を受けると、リバダビアは失脚し、再び中央政府は消滅した。戦局はアルゼンチン有利に進んだが、内政の混乱が災いし、最終的にはイギリスの介入によってバンダ・オリエンタルを独立国とするモンテビデオ条約が結ばれ、1828年にウルグアイ東方共和国が独立した。そしてこの地を以後再びアルゼンチンが奪回することはなかった。ブラジルに対しての実質的な敗戦の影響もあって連邦派と統一派の戦いは激しさを増したが、1829年に統一派のブエノスアイレス州知事を打倒した連邦派のフアン・マヌエル・デ・ロサスが州知事になると、ロサスはリトラル3州のカウディージョと同盟を結んで1831年11月に中央集権同盟を破り、ほぼ全アルゼンチンの指導者となった。この時期には中央政府こそ作られなかったもののアルゼンチン連合が成立し、以降内戦はしばらくの小康状態に入った。ロサスは1832年に州知事を辞すると、「」で敵対していたパンパのインディヘナを今日のブエノスアイレス州の領域から追い出して征服した土地を部下に分け与え、大土地所有制を強化した。1835年にラ・リオハ州を中心とした内陸部の連邦派の指導者、が暗殺されると再びアルゼンチン全土に内戦の危機が訪れた。この際のロサスの妻ののクーデターもあり、最終的にはブエノスアイレス州議会に請われてロサスは1835年に再びブエノスアイレス州知事に返り咲いた。以降のロサスの政治は恐怖政治であり、統一派だと見られた多くの自由主義者や知識人が弾圧・追放され、25,000人にも及ぶ市民が粛清されたが、その一方でロサスはパンパの伝統を守り、自由主義者によって弾圧されていた黒人やガウチョを保護するなどの面もあった。こうした政策で、ブエノスアイレス州の農民や都市下層民をはじめとする上流階級以外の各層から支持を得て、独裁制は成り立っていた。外交面では国粋主義と大アルゼンチン主義を貫き、移民を禁止するなどの政策をとったロサスは、1833年に マルビーナス諸島を売るように要求したイギリス商人の申し出を断ったため、イギリスに島を占領されてしまったものの、ラ・プラタ地域に野心を持っていたイギリス、フランスとのウルグアイを巡っての大戦争や、それに続くラ・プラタ川の封鎖、さらにはパタゴニアを植民地化するとのフランスから恫喝、1845年から1846年の戦争となって顕在化したカウディージョの支配するパラグアイとの対立、これらの相次ぐ国難全てからロサスはアルゼンチン連合を守り抜いた。しかし戦争によって貿易が封鎖され、疲弊したリトラル諸州の怒りは激しく、まもなくブラジル帝国と同盟した腹心のがエントレ・リオス州から反乱を起こすと、1852年にロサスはでロサスは敗れ、失脚した。カセーロスの戦い以後のアルゼンチン連合は、当時の自由主義知識人の意向により西欧化が進み、土着のスペイン的な伝統や、ガウチョや黒人やインディヘナは近代化の障害として大弾圧された。ウルキーサが設立したアルゼンチン連合のは、事実上の起草者だったの意向を反映して極めて自由主義的な憲法であった。ウルキーサがこの自由主義貿易によって自由貿易を導入すると、安い外国製品との競争に耐えられなかった国内産業はほとんど壊滅してしまった。その後もと周辺諸州との間で内戦が続いたが、1861年にがウルキーサを破り、アルゼンチン連合を併合して国家統一が達成された。このため、勝利した元ブエノスアイレス国知事ら自由主義者が完全な主導権を握ることになり、国家の西欧化のためにヨーロッパから移民が大量に導入されることが決定した。ミトレは周辺国への干渉と中央集権政策を進め、アルゼンチン・ブラジル二大国によるウルグアイへの内政干渉をきっかけにして1864年から始まったパラグアイとの三国同盟戦争を境に、土着勢力の抵抗も整備された連邦軍の軍事力の前に徐々に終わりを迎えて1880年には完全に鎮圧され、国家の近代化、中央集権化が進んだ。この時期に極端な集権化に抵抗した勢力には三国同盟戦争への反対を訴え、ラテンアメリカの連合を求めたなどが存在する。1868年に大統領に就任した自由主義者の政権は、より自由主義的な経済政策や教育政策を成功に導き、ヨーロッパに倣った経済や社会の近代化が進んだが、反面土着文化の攻撃は激しさを増し、この時期に多くの黒人が出国してモンテビデオに向かうことになる。一方パンパでは未だに敵対的インディヘナとの対立が続いていたが、1878年に将軍の指揮したによってパンパからインディヘナが追いやられると、征服された土地は軍人や寡頭支配層の間で再分配され、より一層の大土地所有制拡大が進んだ。1880年に正式にブエノスアイレスが国家の首都と定められ、首都問題が最終的に解決すると、このことが内政の安定につながり、外国資本と移民の流入が一気に加速した。これにより、イギリスの「非公式帝国」の一部として経済の従属化は進んだが、一方で農牧業を中心としたモノカルチャーによる奇跡と呼ばれるほどの経済発展も進んだ。こうしてヨーロッパからの大量の移民が「洪水」のようにブエノスアイレスになだれ込むと、それまではスペイン的で「偉大な田舎」に過ぎなかったブエノスアイレス市は、一挙にコスモポリタンな大都市の「南米のパリ」に転身し、1914年には実に国民の約30%が外国出身者となるほどであった。同時にこの頃から、移民の流入や都市化以前のアルゼンチンを懐かしむ風潮が生まれ、1874年にはアルゼンチンの国民文学であるガウチョの叙事詩『』が完成した。また、この時期に生まれた中間層を基盤に、寡頭支配層の大地主の不正政治を改めて政治の民主化を求める声も強くなり、1890年の反政府反乱をきっかけに1891年には急進的人民同盟が組織され、これは後の急進市民同盟(急進党)へと発展して行った。また、1890年の反乱は政府証券を保有していたベアリングス銀行に損失を被らせ、結局1893年恐慌に発展させた。急進党は1905年の武装蜂起に失敗したが、この反乱を恐れた保守派の大統領は以降行政による選挙干渉をやめることを提案し、司法が行政に優越する新選挙法を成立させた。この選挙法が適用された1916年の選挙では急進党からイポリト・イリゴージェン大統領が選出され、寡頭支配が切り崩された。国民主義的な政策をもって政治に臨んだイリゴージェンは、第一次世界大戦を中立国として過ごした。民主化の進展によって戦間期には政治も経済も安定に入り、イリゴージェンは1928年に再選され、アルゼンチンは1929年には世界第5位の富裕国となった。しかし、1929年の世界恐慌はアルゼンチンのモノカルチャー経済を襲い、政治は急速に不安定化した。世界恐慌に対する対策を持たなかったイリゴージェンは、翌1930年に軍事クーデターで追放された。クーデターによって1930年に大統領に就任したはアルゼンチンにファシズム体制を築こうとしたが、この試みは失敗した。ファシズム体制の失敗もあって1932年にが大統領に就任すると、伝統的な寡頭支配層の政治が復活した。1930年代には19世紀の不正選挙の伝統も復活し、1930年代は「」と形容された。国際協調を旨としたフスト政権は1933年にイギリスとので、アルゼンチンをイギリスの(Sterling bloc)に組み込んでもらうことに成功したが、見返りに多くの譲歩を強いられてアメリカ市場も失ってしまい、アルゼンチンはまるでイギリスの属国のような様相を呈するようになった。このような潮流から次第に国民主義的な意識が国民の間に高まり、第二次世界大戦の最中にイギリスと戦う枢軸国への好意的な中立を標榜した(GOU)のフアン・ペロン大佐は徐々に人気を集め、ペロンは戦後1946年の選挙で大統領に就任した。大統領に就任したフアン・ペロンは、第二次世界大戦で得た莫大な外貨を梃子に工業化、鉄道などの国有化、労働者保護などの経済的積極国家政策を推し進めた。こうしたポプリスモ的な政策は当初成功したが、すぐに外資を使い果たしてしまい、さらにから聖母のようにあがめられていた妻エバ・ペロン(エビータ)が死ぬと政策は傾きだしていった。それまでもラ・プラタ市をエバ・ペロン市に改名するなどの個人崇拝を強要するような行為は批判を浴びていたが、1954年に離婚法を制定したことからカトリック教会との関係も破綻し、支持基盤の労働者からの失望が広まったこともあり、1955年の軍部保守派によるクーデター()でペロンは亡命した。フアン・ペロンの失脚後、重工業化とモノカルチャー経済の産業構造転換に失敗したアルゼンチンの経済は下降期に入り、政治的にもペロニスタ(ペロン主義者)と軍部の対立が国家の混乱に拍車をかけた。1962年には急進党の大統領が軍部のクーデターで失脚させられ、軍部が実権を握ったが、この時の軍事政権は長続きしなかった。しかし、民政移管した急進党の大統領を追放した(アルゼンチン革命)は様子が異なり、将軍はブラジル型の官僚主義的権威主義体制をアルゼンチンにも導入した。軍事政権は外資導入を基盤に衰退する経済を成長させようとしたが、軍事政権の厳しい統制に反対するペロニスタと軍部の戦いは激しさを増し、ペロニスタから生まれたモントネーロスやペロニスタ武装軍団をはじめとする都市ゲリラと軍部との抗争で多くの犠牲者が出るなど、さながら内戦の様相を呈していった。しかし、1969年にコルドバで起きた(コルドバソ)を受けると軍事政権は穏健政策に転じ、テロの応酬を収めるためにペロニスタを議会に戻すことを決断した軍部は自由選挙を行った。1973年のこの選挙では正義党(ペロン党)が勝利し、亡命先からフアン・ペロンが帰国して三たび大統領に就任した。しかし、ペロンは翌1974年に病死し、1974年に副大統領から世界初の女性大統領に昇格した妻のイサベル・ペロンは困難な政局を乗り切れないまま拙劣な政策を積み重ね、治安、経済共に悪化の一途を辿った。1976年にホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍がクーデター()を起こし、再び官僚主義的権威主義体制(国家再編成プロセス)がアルゼンチンに生まれた。ビデラ政権は1966年の軍事政権よりもさらに強い抑圧、弾圧を進め、周辺の軍事政権と協調した「汚い戦争」、コンドル作戦によりペロニスタや左翼を大弾圧したことで治安回復には成功したものの、ブラジル風に外資を導入して経済全体を拡大しようとした経済政策には大失敗し、天文学的なインフレーションを招いた。軍事政権は行き詰まり、1982年に就任したガルティエリ大統領は、イギリスが1833年以来実効支配を続けているマルビーナス諸島(英:フォークランド諸島)を奪還しようと軍を派遣して占領したが、当初うまくいくと思われたこの行動はサッチャー首相の決断によりフォークランド紛争(マルビーナス戦争)に発展し、イギリスの反撃に遭い失敗した。建国以来初めての敗戦によって高まった国民の不満を受けたガルティエリ大統領は失脚し、軍事政権は崩壊した。しかし、この戦争はアルゼンチンと他のラテンアメリカ諸国との絆を強め、ラテンアメリカの一員としてのアルゼンチンのアイデンティティのあり方に影響も与えた。1983年に、大統領選挙と議会選挙が行われ、急進党が久々に政権に返り咲いた。大統領に就任したラウル・アルフォンシンは、軍政期からのインフレや対外債務問題、マルビーナス戦争による国際的孤立などの厳しい政局の中、アウストラル計画に失敗し、経済面では成功を収めることが出来なかったものの、長年敵対関係が続いていたチリやブラジルとの関係を大幅に改善し、この融和路線は後のメルコスール形成につながった。また、アルフォンシンは軍政時代に人権侵害(投獄、拷問など)を行った軍人を裁き、軍の予算や人員、政治力を削減した。こうした政策に対して3度にわたる軍部の反乱もあったものの、アルフォンシンは結果として軍部を文民の統制下に置くことに成功した。アルフォンシンは任期を5ヶ月残して1989年に辞任した。1989年に就任した正義党(ペロン党)のカルロス・メネムは、1990年の湾岸戦争に南アメリカで唯一軍を派遣し、1991年には非同盟諸国首脳会議から脱退するなど、先進国との国際協調路線を標榜し、孤立していたアルゼンチンを国際社会に復帰させた。軍事面でもメネム時代には「汚い戦争」に携わった軍人の恩赦が認められた一方で、核軍縮や徴兵制の廃止など、軍部の権力の制限がさらに進んだ。一方で経済面では、当初公約で掲げていたペロニスモ路線(社会民主主義)とは180度異なる新自由主義政策を取った。社会インフラや年金をも民営化した、新自由主義政策は成功したかに見え、メネム特有のネオ・ポプリスモ政策と、対ドルペッグ固定相場政策で、長年の懸念だったインフレーションを抑制し、アルゼンチン経済を持ち直したかに見えたが、1997年頃にはこの政策の無理が徐々に明らかになっていった。1999年の大統領選挙では急進党のフェルナンド・デ・ラ・ルアが勝利したが、すでに経済は危険な水準に達しており、IMFからの援助や公務員給与の削減なども効果はなく、最終的にはドルペッグ制の破綻をきっかけに、2001年にデ・ラ・ルアは債務不履行を決行した。なお、アルゼンチンはそれまでに5回の債務不履行(1827年・1890年・1951年・1956年・1982年・1989年)を経験しており、2001年の債務不履行は通算6回目となる。アルゼンチン経済の崩壊後、アルゼンチンの世界的な評価は地に落ちた。政治面では大統領が次々と入れ替わる大混乱に陥り、社会的にもデモや暴動が多発する異常事態に陥った。しかし2003年に正義党左派から就任したネストル・キルチネルの下で、政治は安定を取り戻し、それまでの新自由主義、市場原理主義と決別した。富裕層優遇をやめ、国民の大多数を占めている貧困層を減らし、中間層へと移行させるなどより、公正な社会を目指す政策を実行した。経済的な再建も進んだ。2007年10月、正義党からキルチネルの妻のクリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネルが、同国史上初の「選挙による」女性大統領に就任した。就任演説で「雇用と工業・輸出・農業を基礎とする新しい多様化した経済基盤」を構築すると述べた。2007年の経済成長率は8%を記録し、近年のアルゼンチンはリーマンショック以降の世界的不況とは裏腹に好調を維持していた。しかし2014年には、アメリカ合衆国のヘッジファンドが1度目のアルゼンチン債務不履行債権を債権者から買い取り、アルゼンチン債権をアルゼンチン政府から返還することを要求し、アメリカ合衆国で訴訟を提起した。連邦最高裁判所は、ヘッジファンド側の訴えを認めた。アルゼンチン政府はヘッジファンド側との交渉を続けたが和解に漕ぎ着けず、防衛的措置として「計画的債務不履行」を決行した。2015年11月の大統領選挙では、新自由主義政策による経済復興を主張した中道右派のマウリシオ・マクリが勝利した。キチルネル時代以前に取られていた格差縮小や富の再分配の重視よりも、国際金融資本・グローバル資本の利益を重視して経済成長を目指す新自由主義を中心とした政策へと回帰しつつあるとされる大統領を元首とする連邦共和制国家であり、内閣、上下両院制の複数政党制議会を備える。大統領・副大統領ともに直接選挙で選ばれ、その任期は4年(かつては6年)。現職大統領の大統領選挙への再出馬(当選した場合は再選)は1回のみ認められている。2007年10月の大統領選挙(前回)では、イサベル・ペロンに次ぐ同国二人目(選挙によるものでは初)の女性大統領が誕生している(クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル前大統領)2015年10月25日の大統領選挙(1回目の投票)では、過半数の得票を獲得した候補者が現れず、翌11月22日に実施された上位二候補による決選投票の結果、「共和国の提案」・「急進市民同盟」(以下、急進党)らが推す保守系のマウリシオ・マクリ氏が当選した。但し、大統領選(1回目)と同日に行われた議会選挙(上院の1/3と下院の約1/2を改選)では正義党が引き続き比較第一党の座を上下両院で維持した為、連立3党(急進党系の地域政党を含めると4党)は議会内では少数派となる。大統領と内閣は行政権を行使し、首相(Jefe de Gabinete de Ministros)を含む内閣の大臣は大統領によって任命される。大統領による職務執行が一時的(療養など)又は永続的(弾劾・辞任・死去に伴う欠位が発生した場合)に困難となった時は副大統領がそれを代行もしくは大統領に昇格する。首相(官房長官と和訳される場合も)職は、閣内の意見集約に加え、行政(中央政府)の代表者として立法(議会)及び地方政府(連邦構成州/各種自治体)との渉外・調整も担当。韓国における国務総理(首相)職に類似しているが、アルゼンチンでは副大統領が正職欠位時の代行者であると憲法で既定されている為、その権限はより限られたものとなっている。下院の与党系会派から選出される場合が多いが、必須条件とはなっておらず、カピタニッチ氏(上院議員・州知事などを歴任)や経済学者のコロンボ氏(国立銀行総裁を経てルア政権二人目の首相に就任)のように、非下院系及び民間からの起用事例も存在する。他の大臣職同様、議会に対しては責任を負わない為、仮に議会内で与党が少数派に転落しても、野党側から首相を選ぶ義務はなく、所属勢力の異なる大統領と首相が併存する所謂「ねじれ現象」は発生しないが、逆転の度合いによっては大統領の求心力が低下し、政情流動化の原因となる可能性はある。急進党のラウル・アルフォンシン氏が政権を担当していた80年代後半頃より首相制導入論(権限の一部を首相に移譲する事で大統領を激務から解放するのがその趣旨)は存在していたが、構想が具体化したのは正義党(ペロン党)出身のカルロス・メネム氏に政権が引き継がれてからである。1994年に議会を通過、大統領の署名により成立した憲法改正案には、首相ポストの追設の他、大統領任期の6年から4年への短縮と再選禁止条項の撤廃が含まれていた。施行直後に実施された大統領選挙(1995年5月)ではメネム氏が再選を果たし、翌々月の組閣でエドワルド・バウサ氏を初代首相に任命した。旧正義党政権(左派)を率いたキルチネル夫妻からの信任が厚く、ネストル氏(夫)の政権では同氏の大統領就任から退任まで、クリスティーナ氏(妻)の前政権でも再任(成立を目指していた輸出税関連の法案が上院で否決された事などを理由に中途辞任)されているアルベルト・フェルナンデス元首相の約5年2ヶ月(2003年5月 - 2007年12月及び2007年12月 - 2008年7月)を除くと、首相の平均的な在任期間は現在2年前後となっているが、経済が混乱を極めていた2000年代の初頭には短命の内閣が続き、現政権党(共和国の提案)の総裁・ウンベルト・チャボニ氏の首相在任期間は僅か4日となっている。11年ぶりに首相職に復帰したホルヘ・カピタニッチ元首相(2013年11月 - )も、1度目(エドワルド・ドゥアルデ氏を大統領代理とする暫定政権)の在任期間は約4ヶ月(2002年1月 - 2002年5月)であった。2015年12月に発足した現連立内閣では、首相を含む全21の大臣ポスト中、政権党の「共和国の提案」に首相・外相など10ポスト、与党第一党の「急進党」(国会の議席数では政権党を上回る為)に防衛・通信など4ポスト、「市民連合」には蔵相・公安の2ポストがそれぞれ割り当てられ、残りの5名は民間などからの起用となった。立法権は国民議会(下院)と元老院(上院)に属し、国民議会は定数257人(任期4年)、元老院は定数72人(任期6年)である。下院では2年毎に約半数の議席が、上院も同じく2年毎に1/3の議席がそれぞれ改選される。下院の議席がドント方式によって比例配分(各州及び首都圏を1選挙区とみなし、定数は選挙区毎に異なる)されているのに対し、上院では、各州及び首都圏にそれぞれ一律で3つの議席が割り当てられており、最大の得票を獲得した政党に2/3(2議席)が、次点の政党に1/3(1議席)がそれぞれ付与される仕組みになっている。下院の議員総数(各選挙区の定数)は、国勢調査(10年に1回)の結果に応じて見直される。勢力図が更新(2年周期)される都度、両院の正副議長ポストの顔ぶれも変わる。下院の議長は政権党会派から選出され、副議長(3名)は政権党を除く上位3会派に割り当てられる。上院では、現職の副大統領が議長職を兼任し、副議長(3名)は下院同様、政権党以外の上位3会派からの選出となる。司法権は国家最高司法裁判所に属し、行政、立法から独立している。議会における比較第一党である野党「正義党」(統一会派「勝利戦線」の基軸政党)の他、連立関係にある「急進党」(比較第二党・与党第一党)と「共和国の提案」(現政権で正副大統領・首相・上下両院の議長を輩出している保守政党)、「市民連合」、正義党より分派した保守系の「新たなる選択の為の連合」、穏健左派の「拡大進歩戦線」(社会党系の連合体)、「統一」(急進党の分派を含むリベラル勢力)、「左翼労働戦線」(トロツキズム的な極左政党)、5議席未満の地域政党らが国会に議席を有している。正義・急進両党によって政界の勢力図が二分されていた時期には、首都圏を中心に「中道民主連合」(1982年に故アルバロ・アルソガライ氏が結成した穏健的な保守政党。以下、中民連)が一定の存在感(第3党相当)を有していたが、事実上の与党として旧メネム政権(正義党)と協力関係に入った90年代より党勢が徐々に低迷。2009年1月、過去2回の選挙(2005年と2007年)で2%以上の得票率を獲得する事ができなかった同党は、司法判断によりブエノスアイレス州での政党資格が剥奪され、同年3月には、党の収支報告書(2007年度版)に不備があった事を理由に、政党助成金の給付も停止された。なお、前政権で副大統領を務めていたアマド・ボウドウ氏は国政レベルの現役政治家では唯一の中民連出身者である。相次ぐ国軍の反乱等や度重なるデフォルトなどに見られるように、歴史上、『中進国』とされてきた国々の中では最も政情の安定していない国のひとつであり、この政情不安定さは1983年の民政移管後の失政や、2001年11月の経済破綻等、一連の経済不安や現在の極度に拡大した貧富格差の元凶とされている。この不安定さを国民統合が成功していない(国民全体に受け入れられる国民文化が成立していない)ことに求める言説は多い。2009年3月26日、上院は10月に予定されていた上・下両院の中間選挙を6月28日に行う法案を可決した。クリスティーナ・キルチネル前大統領は国際金融危機に対応する必要から議会選挙の前倒しを提案していた。2012年4月16日、政府はレプソル傘下のアルゼンチン最大の石油会社YPFの株式の過半数にあたる51%を取得し、同社の経営権を取得する方針を明らかにした。アルゼンチン軍は国防大臣によって指揮され、大統領が最高指揮官を兼ねる。兵制は志願兵制を採用している。軍隊は陸海空の三軍の他に国家憲兵隊から構成される。歴史的にアルゼンチン軍は、チリやブラジルとの軍拡競争の結果もあり、ラテンアメリカで最もよく整備された軍隊だった。アルゼンチンはブラジルと同じように建国以来軍部の力が強く、クーデターが日常的に起きる不安定な国だった。1970年代のクーデター以降、アルゼンチン軍は都市ゲリラ排除のために国内で『汚い戦争』に従事し、8,000人とも30,000人ともいわれる市民の犠牲者を出しており、これは現在でも五月広場の母の会などの訴えにより問題となっている。しかし、建国以来初の敗戦となったマルビーナス戦争により軍の威信は落ち、民政移管後の1983年に長らく第一の仮想敵国だったチリとも国境線が確定され、核計画やアメリカ合衆国の肝煎りで進められていたミサイル計画が放棄されると軍は大幅に削減され、その後の幾つかの反乱計画も未然に終わるなど現在は政治力を減らしている。敗戦の結果から徴兵制を敷いていない国でもあるが、一部で復活を求める意見もある。アルゼンチン陸軍 (Ejército Argentino)は兵員4万1400人からなる。軍団3。空挺旅団1、機械化旅団1、などを擁し、装備品はTAM200両、軽戦車150両。地対空ミサイルはタイガーキャットなど。アルゼンチン陸軍は現在PKOのため、ハイチとキプロスに派遣されている。アルゼンチン海軍 (Armada de la República Argentina (ARA)) は兵員1万7200人からなる。8基地。潜水艦3隻、駆逐艦6隻、フリゲート7隻、航空隊作戦機21機、武装ヘリ14機、フランス製シュペルエタンダール11機、エグゾセ空対艦ミサイルなど。艦艇についてはアルゼンチン海軍艦艇一覧を参照のこと。20世紀初頭に起きた日露戦争の際には、本来アルゼンチン海軍に納品される予定だった欧州製の駆逐艦が各種交渉の結果、日本海軍に買い取られる事となり、日露戦争の勝利に貢献したという意外な関わりを持つ組織でもある。アルゼンチン空軍 (Fuerza Aérea Argentina)は兵員1万2500人からなる。航空旅団8など。作戦機133機、武装ヘリ27機、戦闘機はミラージュ3シリーズ、A-4スカイホークなど。2001年のデフォールト以来、アルゼンチンは諸外国に大きく不信感を持たれ、1982年のマルビーナス戦争以来の国際的な孤立に陥ったが、現在は債務の返済などを軸に国際社会への復帰が進められている。アルゼンチンは南極条約締結国であるが、南極の領有権を主張している(アルゼンチン領南極)。またアルゼンチンは、フォークランド紛争に敗北したのちもなおイギリスが実効支配するマルビーナス諸島の領有権も主張している。2007年12月、クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル大統領は、多国間主義とテロ根絶を強調した。戦前はイギリスに周辺国化され半ば属国のような様相を呈していながらも、輸出で蓄えた経済力を背景に、スペイン語圏を代表する国家として旧宗主国スペインをしのぐ勢いで権勢を誇っていた。北米において似たような立場にあったアメリカ合衆国をライバル視し、同国がモンロー主義の下で中南米を勢力圏に入れようとしていたのに対し、ヨーロッパ諸国を重視する独自外交のもとでアメリカ合衆国とは距離を置き、常に他のラテンアメリカ諸国とは一線を画していた。ビーグル水道で領土問題を抱えていたチリとは伝統的に関係が悪く、第二次大戦後は何度か戦争直前にまで陥ったこともあった。1984年にローマ教皇フアン・パブロ2世の仲介により、アルゼンチンが係争地のピクトン島・レノックス島・ヌエバ島のチリ帰属を認め、領土問題において妥協することにより友好関係が確立された。しかし、その後2004年に事前に連絡なくチリへの天然ガスの輸送を停止してしまったことが大きな外交問題となった。アルゼンチンの最大のライバルは隣の大国ブラジルであり、オリンピックやサッカーの大会があるたび互いに強烈な対抗意識を持って争っていたが、ラウル・アルフォンシンの融和政策が功を奏して両者ともメルコスールに加盟するなどの経済統合が進んでいる。以上のような事情により、現在のアルゼンチンはブラジルを軸としたラテンアメリカ統合を受容し、その主要国として影響力を保っている。また対外政策では一線を画しながらも、石油や天然ガスなどの資源を背景にベネズエラの歴代政権との友好関係が続いている。ヨーロッパとの関係も重要であり、最も仲の良い国家はスペインである。言語が共通するために多くのラテンアメリカ人がスペインに出稼ぎ、移民として居住しているが、アルゼンチンもその例外ではなく多くのアルゼンチン人が移住している。日本に売却した日進 (装甲巡洋艦)、春日 (装甲巡洋艦)は日露戦争で活躍した。アルゼンチンは23の州(provincia)と1つの特別区*から成る。他にイギリス領のマルビーナス諸島の領有権を主張している。国土統一直後の1853年に首都令があったものの、ブエノスアイレスは1880年までは正式な首都ではなかった。各州は州内でさらに小さな行政単位に分割され、県(departomentos)は合計376県にもなる。ブエノスアイレス州は県に類似した134ものpartidosに分割される。departomentos・partidosともに市町村や地域の中から分割された区分である。アルゼンチンは北西部のアンデス山脈周辺から開発が進められたが、独立後は歴史的に外港がブエノスアイレスしか存在しなかったことを反映して、19世紀、20世紀を通して内陸部の開発は進まず、現在も極端なブエノスアイレス一極集中である。1980年代のアルフォンシン時代に、パタゴニアのリオ・ネグロ州州都ビエドマへの遷都計画もあったが、結局実行されないまま計画は凍結された。アルゼンチンの国土は、南北に3500km以上の長さに及ぶ、ブラジルについで南米で二番目に大きい国で、面積は全体で2,766,890km²になり、陸地のみでは2,736,690km²に、水域のみでは30,200 km²に及ぶ。アルゼンチンで最も標高が高いのはメンドーサ州のアコンカグア山(6962m)であり、これは米州と西半球全体で最も高い山でもある。反対に最も標高が低いのはサンタ・クルス州のカルボン湖であり、海抜マイナス105mは南アメリカ大陸全体でも最も低い。国土の中心はラ・パンパ州の南西である。アルゼンチンは、中華人民共和国と、北部の一部は中華民国(台湾)、南部の一部はモンゴル国やロシア(シベリア)の対蹠地でもある。アルゼンチンは1904年から南極大陸の領有権を主張している。イギリスが実効支配しているマルビーナス諸島の領有権も主張している。アルゼンチンは伝統的にいくつかの地理的な区分に分けられる。北は亜熱帯に属し、熱帯雨林が形成されている。西にアンデス山脈、東にはパンパと呼ばれる大草原が広がる。パンパは国土の約20%を占める。ウルグアイ川とパラナ川に挟まれた地方は、メソポタミア地方でパンパと同じく草原地帯である。南緯40度付近に位置するコロラド川以南をパタゴニア地方と呼び、荒涼たる砂漠が広がっている。パンパは国土の約25%を占め、アルゼンチンの富の多くを生み出している。ブエノスアイレスの西と南に広がる草原はと呼ばれ、ブエノスアイレス州とコルドバ州のほぼ全てと、サンタフェ州とラ・パンパ州の大部分を占める。ラ・パンパ州の西部はになっている。は年間降水量が750mm以上で、アルファルファ(マメ科・栄養があり、土地を豊かにする牧草)・とうもろこしなどを栽培し、牧牛をしている。は年間降水量が550mm以下で乾燥に強い牧羊をしている。移行地帯では小麦(年間降水量が550mm - 750mmが丁度良い)の栽培をしている。コルドバ州西部のコルドバ山脈はサン・ルイス州まで延び、パンパの中では最も重要な地域となっている。パンパとパタゴニアの境界線は、かつてはコロラド川だったが、現在はネグロ川となっている。グラン・チャコ地方はアルゼンチン北部に位置し、雨季と乾季がはっきりと分かれ、主に綿花の栽培や家畜の飼育が盛んである。こうした地域はチャコ州とフォルモサ州の大部分を占める。植生としては亜熱帯雨林や低木林地や湿地帯が点在し、多くの動植物が生息する。サンティアゴ・デル・エステロ州はグラン・チャコの中で最も乾燥した地域である。パラナ川とウルグアイ川に囲まれた地域はメソポタミア地方と呼ばれ、ミシオネス州、コリエンテス州とエントレ・リオス州が属する。かつてはグアラニー人が多く住んでいた土地で、文化的にはパラグアイやウルグアイに近く、牧草地や植物の育ちやすい平坦な土地が特徴であり、コリエンテス州中部にが存在する。ミシオネス州はより熱帯に近く地理的にはに属し、イグアスの滝と亜熱帯雨林が特徴である。ネウケン州、リオ・ネグロ州、チュブ州、サンタ・クルス州にまたがるパタゴニアのステップは先住民の地域である。多くの地域では雨が少なく、北は寒くて南は不毛の地であるが、西部の周辺には森林があり、後述するように幾つかの大きい湖も点在する。ティエラ・デル・フエゴ州は寒くて湿っており、大西洋からの海流の影響で多少は過ごしやすい。パタゴニア北部(ネグロ川以南のリオ・ネグロ州とネウケン州)はコマウエ地域と呼ばれることがある。アルゼンチン中西部はそびえるアンデス山脈に支配されている。同地域の東部は乾燥したクージョ地域として知られており、クージョ(Cuyo)という名前もマプーチェ語で「砂地」という意味の言葉から来ているとされている。高山から溶けてきた水は低地のオアシスの灌漑用水となり、メンドーサ州とサン・フアン州を豊かな果実とワインの生産の中心としている。さらに北の地域、ラ・リオハ州などは地理的な理由でより暑く、乾燥した地域になる。北西部地域はアルゼンチンでも最も海抜の高い地域であり、6,000mを越えるいくつかの平行なアンデス山脈が領域を貫いている。これらの山脈は北方に向かって延びており、それらは肥沃な流域によって分断され、その中でも最も重要な渓谷はカタマルカ州、トゥクマン州、サルタ州に広がるである。フフイ州北部のボリビア国境付近からは、中央アンデスのアルティプラーノ高原が広がる。国土西部を南北にアンデス山脈が貫き、アルゼンチンの山地や国内最高峰のアコンカグアをはじめとする高山の多くはこの地域に集中する。コルドバ州の西部にもコルドバ山脈が存在するが、標高はあまり高くない。アルゼンチンの主要な河川はピルコマジョ川、パラグアイ川、ベルメホ川、 コロラド川、ネグロ川、サラド川、ウルグアイ川などであり、国内最長の河川はブラジルから流れるパラナ川である。ウルグアイ川とパラナ川は大西洋に流れ出る前に合流し、ラ・プラタ川の河口を形成する。各地域ごとに重要な河川としては、メンドーサ州と同名のメンドーサ川、パタゴニアのチュブ川、フフイ州の、サルタ州のなどがある。パタゴニアを中心にいくつかの大きな湖が存在する。アルヘンティーノ湖とビエドマ湖がサンタ・クルス州に、ナウエル・ウアピ湖がリオ・ネグロ州に、ファグナーノ湖がティエラ・デル・フエゴ州に、コルウエ・ウアピ湖とムステル湖がチュブ州に、ブエノスアイレス湖とサン・マルティン湖はチリとの国境を形成している。国内で最も大きい塩湖はマール・チキータである。アルゼンチンの多数の貯水池がダムによって作られている。エントレ・リオス州にはテルマス・デ・リオ・オンドなど、水温は30℃から65℃の温泉があり、川を挟んで対岸のウルグアイ北部にも温泉がある。アルゼンチンは4,665kmの海岸線を有している。大陸の上陸可能地点は非常に広く、アルゼンチンではこの広大な大西洋の浅瀬はアルゼンチン海と呼ばれる。海中には多くの魚が住み、炭化水素エネルギー資源を保有していると予想されている。アルゼンチンの沿岸は砂丘と崖に挟まれている。沿岸に影響を及ぼしている二つの海流のうち、暖流はブラジル海流であり、寒流はフォークランド海流(スペイン語では大西洋海流、もしくはマルビーナス海流)である。沿岸の大地では不規則な形状のため、二つの海流は気候に対して相互に影響し、高緯度地方においても気温を下げさせない。ティエラ・デル・フエゴの南端はドレーク海峡の北岸を構成している。アルゼンチンには飛地が一つある。マルティン・ガルシア島である。パラナ川とウルグアイ川の合流点付近に存在し、約1kmほどウルグアイの水域に入っており、3.5kmほど離れたウルグアイの沿岸にはマルティン・チコ(ヌエバ・パルミラとコロニア・デル・サクラメントの中間)が存在する。一世紀に亘る両国紛糾の末に、アルゼンチンとウルグアイは1973年に島の管理権について合意に達した。協定に従って、マルティン・ガルシアは排他的自然保護区として用いられることとなった。面積は約2km²であり、住民は約200人である。地域によって大きく異なるが、亜熱帯、温帯、乾燥帯、寒帯の4つに大別される。北部は非常に蒸し暑い夏と、穏やかで乾いた冬があり、周期的に旱魃に見舞われる。アルゼンチン中部では雷を伴う大嵐(西部では世界で最も多くの雹が降る)のある暑い夏と、涼しい冬がある。南部は暖かい夏と、特に山岳地帯では豪雪に見舞われる寒い冬がある。全ての緯度の地域において、標高の高い地点では冷たい気候となる。南米における観測史上での最高気温と最低気温は共にアルゼンチンで観測された。最高気温の49.1 ℃は1920年1月20日にコルドバ州のビジャ・デ・マリアで記録された。最低気温の−39 ℃は1972年7月17日にサン・フアン州のビジャ・デ・ロス・パトース・スペリオールで記録された。IMFの統計によると、2013年のアルゼンチンのGDPは約6,103億ドルである。世界21位であり、南米ではブラジルに次ぐ2位である。一人当たりのGDPは14,709ドルで、こちらはウルグアイ、チリに次いで南米3位である。 アルゼンチンはメルコスール、南米共同体の加盟国である。主要輸出品目は小麦、トウモロコシ、牛肉、ワインなどの農産物に加え、パタゴニアの石油と、近年は天然ガスも有望視されている。2回にわたる世界大戦に直接関与せず、各国への農産品畜産品の輸出により利益を得た20世紀半ばまでは世界有数の富裕国であった。第二次世界大戦後、ペロン政権は国民主義的な政策により、保護政策による工業化偏重政策をとるが産業構造の転換に成功せず、次第に経済が低迷。ペロン政権以降顕著になった福祉のための放漫財政や、ペロンの残した労働組合 (CGT) の強さにより、投資のしづらい国となり、1960年代以降に頻発する政変、クーデター、1982年のマルビーナス(フォークランド)戦争とその敗北、民政移管後も長年の放漫財政のツケや敗戦のショックの影響で混迷する経済状況に安易なポプリスモで対処したために累積債務は雪だるま式に増えていった。1988年から1989年の間に5000パーセントというハイパーインフレーションというを記録。物の価値は1年間で50倍にもなり、アルゼンチン経済は崩壊し、通貨は紙くず同然となってしまった。結局、アルゼンチンは1989年に対外債務不履行を宣言した。この間の混迷による富裕層の没落、中産階級の海外脱出が続くなど経済は混迷の度を深めた。その後、1988年から親米・親IMF路線を掲げたメネム政権の新自由主義政策により、1990年代には年率9%にも達する経済成長を遂げるなど、一時的に安定した。しかし、1999年に起きたブラジルのレアル切り下げでペソが相対的に高くなり輸出競争力を喪失、国際収支は悪化した。結果的に通貨危機(通貨ペソの対米ドルペッグ制崩壊)により完全に暗転、2001年11月14日には国債をはじめとした対外債務の返済不履行宣言(デフォルト)を発する事態に陥り、経済が破綻。国際的な評価は地に落ちた。デフォルトにより貧困も拡大し、イタリアやスペインに職を求め大量の移民が流出、その中には医者・弁護士などの知識層も少なくなかった。1980年代に国民の約60%を占めていた中間層は2005年には国民の約20%となり、他方貧困率は2002年で53%に達するなど、かつてラテンアメリカで比類なき中流層の国だったアルゼンチンはもはや過去のものとなった。20世紀半ばまでは南米の指導者としての実力を備えていたアルゼンチンは、もはや完全にチリ、ブラジルに先を越されてしまったといえるだろう。このようにペロン政権以来、一貫した経済政策が採られなかったツケが回り、2002年(アルゼンチン通貨危機)には経済が破綻してしまったものの、2002年に変動相場制を導入してからは通貨安のために輸出が拡大してからは持ち直した。キルチネル大統領は、2006年7月9日の「独立190年記念式典」で、「われわれは国際通貨基金 (IMF) にチャオ(さよなら)を告げた。」と演説した。IMFの干渉を排除するため百億ドル近い債務を完済し、2000年末の経済破綻直後の失業率24%を、2006年5月には11.4%にまで改善した。さらに、2003年から2007年まで平均約8%の高成長を続け、2002年の経済崩壊以来の遅れから立ち直りつつある。とはいえ、再び上昇に転じた対外債務率、一向に回復しない内需および内需不振の主要な一因である国民の30%にまで拡大した貧困層の存在など、課題は山積している。現在はメルコスール加盟国であることにより、南米諸国との経済交流の活発化による諸外国からの投資の増大に、経済の復活を賭けている。特にブラジル、ベネスエラとは政治面でも関係を深め、ベネスエラからの南米大陸縦断天然ガス輸送管の設立も計画している。現在のアルゼンチンの課題は、この成長を維持したままどのようにして競争力のある新しい産業を育てるか、あるいは国内の法制度、政治文化などの歪みから来る投資リスクをいかに下げるかなどにかかっている。アルゼンチンのインフラは他のラテンアメリカ諸国に比べると良好である。約215,471 kmの道路網と734 kmの高速道路があり、その多くが民営化された。多車線の幹線道路は現在幾つかの主要都市を結び、さらに現在工事中である。アルゼンチンの鉄道網は総延長31,902kmである。ブエノスアイレスの地下鉄(Subte、スブテ)はスペイン語圏、ラテンアメリカ、南半球全域の中で最も早く建設された。数十年に亘る整備不足とサービスの腐敗により、多くの路線は1992年の鉄道民営化に伴って閉鎖され、今も数千キロに亘る路線が修理されていない。鉄道輸送は幾つか都市で現役に戻されている。2015年に鉄道が再び国有化され、アルゼンチン国鉄が設立された。アルゼンチンには約3,000kmに及ぶ水路があり、多くはラ・プラタ川、パラナ川、ウルグアイ川、ネグロ川、パラグアイ川を通行する。アルゼンチンの国民はヨーロッパ系が85%、メスティーソおよびインディヘナなどが15%である。もっともヨーロッパ系アルゼンチン人の占める比率は89.7%から97%と資料によって大きな差があり、近年の研究では実はアルゼンチン国民の56%に先住民の血が流れていることが明らかになっており、自らを白人だと認識しているアルゼンチン人の過半数に、実は先住民の血が流れていることになる。ヨーロッパ系アルゼンチン人にはイタリア系、ドイツ系、スペイン系の住民が多い。このイタリア系統の荒い言葉遣いが現在のアルゼンチン人全体の性格に受け継がれているため、アルゼンチンのスペイン語にはイタリア語のナポリ方言の影響が強く見られる。アルゼンチン人はしばしば「燃えたぎるような愛国者」と形容され、自国への批判に異常に敏感であるが、その一方で概して国を批判する傾向がある。強烈な個人主義者としても知られ、「ビベサ・クリオージャ」と呼ばれるクリオージョ的な人を出し抜く抜き目のなさと、アミーゴと家族以外の非人間的な政府や社会といった組織は信用できないという心性から来る、人を出し抜くような行為によって不快な思いをさせられ、アルゼンチン人はアミーゴ以外には不親切であるという人間も出るのである。これはアルゼンチン人が国家に代表される抽象的なものよりも、友情といった具体的な対象への強く忠誠を抱くことの裏返しでもある。ペルーの文学者、マリオ・バルガス・リョサは「アルゼンチンの誇り高さは病癖であり、他のラテンアメリカ諸国から批判されても仕方がない」と述べた。アルゼンチン人は自国を選良であると思ってきたが、こうした優越感と劣等感はその選良意識の裏返しであり、強い愛国心の称揚の一方で行われる自国への強烈な批判は、国家が自分に十分な誇りをもたせてくれるには足りない存在であることの裏返しである。こうしたことの起きる原因としては、19世紀半ば以来の自由主義化、ヨーロッパ化が、アルゼンチン国民全体に受け入れられるような国民文化を育てることができなかったためだといわれている。ただし、ガウチョのような例外もあり、アルゼンチン人はガウチョであることを誇る。五月革命が起きた1810年に70万人だった人口は、ウルキーサがロサスを打倒した直後の1853年には90万人となり、その時点では純粋な白人は6万人ほどで残りはメスティーソや黒人やインディヘナだった。カセーロス以降自由主義者の政権はヨーロッパから移民を大量導入すると、アルゼンチンの人口は増加し、1869年の初の公的な人口調査では約1,757,000人だった。その後1900年には4,543,000人、1930年には1,186,000人、1940年には14,169,000人、1950年には約1709万人、1960年センサスでは20,065,691人、1975年には約2,538万人、1983年年央推計では約2,963万人となった。2005年の見積もりによると、人口は38,747,000人と推測され、これは南米大陸の国家で三番目に多い。2005年度の人口密度は1平方kmあたり14人になるが、人口は均衡を持って配分されているわけではなく特にブエノスアイレス市周辺に集中しており、ブエノスアイレス市では人口密度が14,000人/km²になるのに対して、パタゴニアの最南部のサンタ・クルス州では1人/km²以下となる。アルゼンチンは南米で唯一純粋な移民の増加率が0.4%を越える国である。2008年現在では総人口が4000万人近くなっている。19世紀半ばの国家の西欧化=白人化を望んだ自由主義者が勝利し、1853年憲法の第25条や、1876年の移民法の制定によってヨーロッパ移民が大量導入されると、次第に都市からは黒人が、パンパからはインディヘナやガウチョが姿を消し、以降アルゼンチンは白人国家であることを誇り、アインデンティティにするようになった。20世紀に入ってからマイノリティが特にブエノスアイレスで目立たない存在になると、自らをヨーロッパになぞらえて、(ヨーロッパ

出典:wikipedia

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