澁川一流(しぶかわいちりゅう)とは、 日本の伝統武術である柔術を中心とし、武器術として棒術、十手術などをも併伝する流派である。 澁川一流柔術の流祖 首藤藏之進満時は、彼の叔父で宇和島藩(あるいは祖父で広島藩士とも。諸説あり。)浪人と伝えられる宮崎儀右衛門満義に連れられて広島藩安芸郡坂村に居住した。 藏之進は宮崎儀右衛門を師として澁川流および難波一甫流を習得し、さらに武者修行の途上、浅山一伝流をも習得して三流をもとに「澁川一流柔術」を創始した。 ある日、広島城下に出ていた首藤藏之進は五、六名の広島藩士と争いになったが、澁川一流柔術の業でこれを難なく退けたところ、たまたま居合わせた松山藩士がこの見事な働きを見ており、その藩士の推挙によって松山藩に仕えることになったと伝えられている。 これは天保10年のころのことと伝えられているが、この後、首藤藏之進は小玉平六と名乗り、松山においても澁川一流柔術の教授をおこなったと伝えられている。 明治維新以降は親族のいる広島県安芸郡坂村にたびたび帰り、広島の門弟にも澁川一流柔術を伝え残し、明治30年、八十九歳で松山において没した。 坂村においては、戦前、護身用として渋川一流を学ぶ者が多く、村内各地で教授が行われており、その名声を聞き、関西地方などから修行に訪れる者もいた。 車地国松師の教えによれば、澁川一流の流名は首藤蔵之進が修行した三つの流派の流名に由来し、あわせると渋川一甫一伝流となり、この意から「澁川一流」と命名されたと伝えられている。 ただし、首藤藏之進の門弟の一部が明治年間に発行した伝書の中には「渋川流」と略称で記載されたものもある他、広報誌などにも「渋川流」との略称での記載も見られる。 また、渋川一流を「しぶかわ」と略称で呼ぶ古老もいる。首藤以降、現存している主な伝系を以下に記す。 ※ H.Pによれば車地善光満秀氏は渋川伴五郎義方を流祖とし、中國新聞(1991.1.23)では「渋川流」11代を名乗る。 明治年間に、首藤藏之進満時の門弟であった宮田玉吉時正(宮田友吉の実弟)が坂八幡宮に掲げた奉納額では、宮崎儀右衛門満義を宮田家の柔術の元祖とし、宮田玉吉に柔術を伝えたのは宮崎儀右衛門満義から渋川流と難波流を伝えられた宮田多四郎と渋川一流を称した首藤蔵之進であると記している。 また、同じく坂八幡宮に明治時代に奉納された川野幸八正国の奉納額には渋川一流元祖首藤蔵之進と記載されていた。 澁川一流柔術の形は、徒手に対して徒手や懐剣、三尺棒、刀等の仕掛けに応じる術と棒術(三尺棒・六尺棒)、十手術、分童術(分銅を鎖の先端に装着した武器)などの得物を用いる術から成り立っている。(車地国松師範伝では、上記棒術等の他、鎖鎌術、居合術及び互棒・小棒などの得物を伝えている。) 伝承されている形は、(車地国松師範伝約400・谷田重一師範伝約300)ほどあるが、その特徴はすべての形に飾り気がなく、素朴で単純な動きで相手を制するところにある。 稽古体系であるが、形を受の仕掛けの方法によってグループ分けして稽古しやすいように設定されている。 具体的には、最初に稽古する履形(受が中段または下段を突いてくるのを制する形)と称する形が全ての形の基本とされ、以後、受が上段を突いてきたり、胸倉を掴んでくるなど仕掛けが変わってきても、履形で学習した要領で制することができるように工夫されている。(ただし、履形で学んだ理法で対応できない場合は、それに対応できるようそれぞれの形のグループに特別な形が設定されている) また、それぞれの形のグループの多くには、受を制することなく、押し返すのみの動作を特徴とした、「礼式」が設定されているが、これらは、澁川一流柔術の理念が人と争わないことにあることを示している。 稽古方法として、形稽古の他に錬鍛法として棒抜けや枕引きなども伝えられている他、柔道の乱取りに相当する意治(地)稽古(「意治(地)」と略していう事もある)も伝えられている。
出典:wikipedia
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