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諸君!

『諸君!』(しょくん)は、株式会社文藝春秋が発刊していた月刊オピニオン雑誌。毎月1日(年末は25・26日、以前は毎月2・3日であった)発売。最終号の編集長は内田博人。編集部員は5-7名と少人数の編集活動だった。発行部数は2008年9月時点で約6万部、実売は約4万部だった。2009年6月号を最後に休刊した。1969年5月に7月号として創刊。初代編集長は田中健五。『文藝春秋』の兄弟誌として位置づけられ、「文春の社説」とも言われた。当時の文藝春秋社長池島信平は、当時学園紛争が激化しており、論壇も左翼一辺倒過ぎないかと捉えていた。そこで、看板雑誌『文藝春秋』では扱いにくい「日本人として恥ずかしくない」保守的な記事を扱える雑誌を作ろうとした。池島は「文藝春秋は売れすぎて言いたいことが言える雑誌ではなくなった、だから小数部でも言いたいことを言う雑誌を作ろう」と、『諸君!』を創刊したと述べている。池島は同様の危機感を持つ福田恆存、三島由紀夫などを中心に、前年に結成された保守系団体「日本文化会議」(1994年春に解散)の依頼を引き受け、その機関誌として創刊する予定であったが、社内の強い反発により、現状の形に落ち着いたという。三島由紀夫は自決直前の夏に「革命の哲学としての陽明学」を、田中編集長の立会いで口述筆記し、三島唯一の論文掲載となった(『行動学入門』に収録、現:文春文庫)。1971年2月号は「三島事件」の総特集号となった。初期から中期は保守系論壇人としては小林秀雄、竹山道雄、田中美知太郎、福田恒存、林健太郎、高坂正尭、江藤淳、村松剛らが寄稿。のちに山本七平、渡部昇一、谷沢永一、佐伯彰一、野田宣雄、西尾幹二、平川祐弘らが常連となった。創刊時の田中美知太郎『時代と私』から始まり、宮本常一や井上光貞・松田毅一などの著名な学者の回顧録を連載した。また1980年代には、作家辺見じゅんが今西錦司、谷川徹三、土屋文明、永井龍男といった当時健在だった明治生まれの作家・学者らへのインタビュー対談を掲載していた。のちに『初めて語ること―賢師歴談』として刊行された。1980年1月号より開始した巻頭コラム「紳士と淑女」(筆者は徳岡孝夫、最終号で明かされた)。また巻末コラムの山本夏彦「笑わぬでもなし」(2002年に没する少し前までの約350回)も著名であった。1980年には1960年代初頭まで左派であった清水幾太郎が本誌上にて核武装論を展開し、転向として話題となるなど、保守論壇の中核的月刊誌としての地位を確立した。なお清水は回顧録『わが人生の断片』を連載した。初代編集長の田中健五(のち社長・会長)の意向が強く反映した内容を踏襲してきた。『正論』・『Voice』・『WiLL』などと共に保守系論壇誌であり、岩波書店の『世界』、朝日新聞社の『論座』(2008年休刊)などの左派系論壇誌と対をなしていた。そのため戦前戦中日本(大日本帝国)を直視する立場をとっており中国や韓国、北朝鮮といった周辺諸国のナショナリズムを警戒する論文を掲載していた。『文藝春秋』・『週刊文春』同様に公明党・創価学会には批判的。池田大作らの言動を巻頭コラム「紳士と淑女」でたびたび取り上げたほか、元毎日新聞編集委員内藤国夫による論説「月刊創価学会問題」を内藤が死去した1999年まで10年以上にわたって連載、論壇誌の中でも特に対決姿勢を鮮明にしていた。実際には革新系のマスメディアや政治家も追及しているものの、北朝鮮の拉致問題は左派系マスコミが沈黙すると考える中で、当初から大きく取り上げていた。また、サイエンス関係の企画も初期は立花隆が、後期は中野不二男などが扱っていた。とりわけ朝日新聞批判は創刊以来のライフワーク的存在であり、しばしば特集を組んで批判論陣を張った。古くは本多勝一の『中国の旅』批判(その中から後述のイザヤ・ベンダサン(=山本七平)と本多の誌上討論が起こった)、21世紀に入ってからは女性国際戦犯法廷のNHK番組改変問題で安倍晋三の主張と同じく「捏造を行った朝日」と批判を大々的に行った。岩波書店で多く本を出し、雑誌『世界』に論文を掲載する、主に左派文化人の呼称である「進歩的文化人」批判も多く行った。特にソ連解体(ソ連崩壊)後の、左派文化人がソ連共産党の独裁体制や中国の文化大革命、北朝鮮の金日成崇拝を無条件で礼賛していた各種の過去の発言を雑誌や新聞から発掘し、個人名を挙げて出典付きで紹介する「悪魔祓いの戦後史」(稲垣武)の連載は山本七平賞を受賞した。また2001年2月号では南京事件論争では多種多様なアンケート結果を掲載し、誌上で産経新聞論説委員石川水穂(当時)の司会で、「中間派」の秦郁彦と「まぼろし派」の東中野修道による座談会を行った。2005年には「あなたが朝日に狙われたら」や「あなたが中国に狙われたら」などの特集が組まれたが、これらの一見刺激的なタイトルもいわゆる『諸君!』のタイトル付けの伝統である。特にイザヤ・ベンダサンこと山本七平と本多との誌上論戦は有名で、ベストセラー『日本人とユダヤ人』の著者として有名人であったベンダサンの主張(スタートは上記の『中国の旅』への批判)に対して本多の反論(その後数回に渡り往復書簡形式を取ることになる)を載せたことで本誌の部数の増大には大いに貢献したとも言われる。この討論は全文が本多の著書『殺す側の論理』に収録された。本多はこの討論と書籍化の過程でベンダサンの実在を疑うことになるが、「代理人」を称していた山本はそれを認めることはなかった。1990年代には自由主義史観の主要論陣拠点となり、1996年に結成された新しい歴史教科書をつくる会に、産経新聞系の『正論』とともに深く関わっていた。靖国神社参拝を支持する立場を取っていたが、2006年の富田メモ発見後は強硬論を和らげる特集も組んだ。安倍内閣の時は保守派の論客に寄稿させる形で「美しい国」に関わる特集を多く組んでいたが、2007年の第21回参議院議員通常選挙で自民党が大敗すると、安倍が総理を辞任する直前に編集長を交代。路線転換を図っていた。以前から小林良彰、浅田彰、山口二郎、大塚英志、金子勝など、保守陣営に属さない人物に寄稿させることもあったが、近年も上野千鶴子、大沼保昭、稲葉振一郎、井上章一など保守派に属さない論客が対談や論説など様々な形で登場しており、この点は「正論」とは異なるところであった。また時折アンケートという形で各界の識者の意見を聞く特集を組んだが、その場合、登場する面子は左派から政治的な色彩が薄い人物まで様々だった。斎藤貴男によると、ある時期までは「天皇の悪口を言わない限り何を書いてもいい」ところがあったという。また、斎藤は休刊前の『諸君!』を「月刊2ちゃんねる」と評していた。これは主義主張が2ちゃんねる上で日々行われている反特定アジア・保守回帰(復古)の書き込みと同質であることに加え、毎月の特集の組み方自体が2ちゃんねる同様に繰り返されていることを批判したものである。元統一協会員の仲正昌樹が斎藤貴男らを批判した「サヨクの最後の砦 - 「格差社会」「愛国心」「共謀罪」ハンタイ」(2006年8月号)に2ページでいいから反論させろと要求したところ、「読者投稿欄なら」との編集部の回答に失望したという。数ページにわたる批判記事への言論人の反論には2ページ割いて反論を載せるのは従来『諸君!』の伝統であって、石井英夫のそれに対しても俵孝太郎は2ページ反論する機会を与えられている。斎藤は結局、投稿欄への反論を行わなかった。また、以前は本多勝一が投書欄への反論すら拒絶されたことで、訴訟沙汰となっている。掲載された本多への批判の論説は、本多が書いた記事の曲解に基づくものであり、読者に誤解をさせるから名誉毀損であるとし、本多は発行元の文芸春秋社を提訴した。判決は、掲載された文に本多の記事が引用されているため読者には元の文がわかるとして請求棄却であった。2009年3月、創刊から40年となる2009年5月1日発売の2009年6月号で休刊することが発表された。2005年8月までの年間平均部数は8万部強、最高部数は2006年の8万5000部だったが、2008年9月までには約6万5000部に低落。実売は4万部を切っていたという。文藝春秋社全体の広告収入の落ち込みもあり、社業全体の見直しの一環として休刊となった。現在、後継誌発刊の予定はない。2012年1月31日、『文藝春秋』2012年2月号増刊という体裁で3年ぶりに復刊され、北朝鮮問題を特集した。

出典:wikipedia

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