アンドラ公国(アンドラこうこく、)、通称アンドラは、ピレネー山中にあり、フランスとスペインに挟まれた国家。フランス大統領とスペインのウルヘル司教を国家元首とするミニ国家である。首都はアンドラ・ラ・ベリャ。正式国名はカタルーニャ語で、Principat d'Andorra(プリンシパット・ダンドーラ)、通称、Andorra(アンドーラ)。フランス語では、Principauté d'Andorre(プランシポテ・ダンドール)、通称、Andorre(アンドール)、スペイン語では、Principado de Andorra(プリンシパード・デ・アンドーラ)、通称、Andorra(アンドーラ)である。日本語での正式国名はアンドラ公国、通称はアンドラ、漢字表記は安道爾である。国名はバスク語起源の語に由来すると推定されるが、詳細は不明である。803年、フランク王国のシャルルマーニュがピレネー山脈中においたスペイン辺境領の一つ、を起源とする。1133年、ウルヘル伯はウルヘル司教にアンドラの宗主権を譲り渡した。1096年、司教はにアンドラの防衛を委ねる代わりに、代償としてアンドラの一部カボー谷の統治権を与えた。カボー家の権利はとの婚姻によって移動し、1208年には家によって掌握された。フォワ伯家はアンドラ全体の統治権を狙い、司教と争うようになった。事態の解決のため、1278年に両者を対等の共同統治者とする宗主契約が結ばれた。1419年には最初の議会が設置されている。フォワ伯のガストン4世はナバラ女王のレオノールと婚姻し、以降フォワ伯位とアンドラの統治権にくわえてナバラ王を継承するようになった。フォワ伯の地位は女系を経てブルボン家に渡り、1589年にアンリ4世がナバラ王兼フランス王となったことでフランス王がアンドラの宗主権を受け継ぐことになる。1607年にはアンリ4世が、フランス王とウルヘル司教を共同大公とする勅令を出し、アンドラは公国となった。フランス革命が発生して1793年にルイ16世が処刑されると、フランス側の共同大公は存在しなくなった。アンドラ側は革命政権を承認せず、フランス第一共和政政府もアンドラとの関係を絶った。1794年、スペインとの間でを戦っていた共和政政府は、この機にアンドラを併合しようともくろんだ。この時アンドラの代表がフランス軍の司令官のもとにおもむき、侵攻を断念するよう説得している。1806年、フランス皇帝に即位したナポレオン・ボナパルトとの間で両国関係は修復され、再びフランスの元首が共同大公につくことになった。以降封建的な制度はそのまま受け継がれていくことになる。。それ故、ヴェルサイユ条約の範囲外にあった(条約締結の際、フランス元首がアンドラ公国元首としての署名をしなかったため)。そのため、形式的にアンドラ公国は「第一次世界大戦を継続したまま、第二次世界大戦を迎える」という珍事が起こった。この戦争状態は1958年まで続いた。1934年7月にはリトアニアの冒険家、がフランスの庇護下にあるアンドラ王を称して、ウルヘル司教に対して宣戦布告したが、まもなく国外追放される事件が起きている。スペイン内戦の時期には中立を守り、フランス軍が駐屯している。第二次世界大戦では中立を守ったものの、スペイン軍が駐留している。第二次世界大戦中にはスペインとヴィシー政権の密輸ルートとして利用されている。また1944年にはドイツ軍の部隊がアンドラに侵入しているが、1945年に退去するまで戦闘行為は発生しなかった。1993年3月、新憲法が国民投票により可決され、ウルヘル司教とフランス大統領を共同元首とする議会制民主主義を敷く独立国家となる事が決定された。フランスおよびスペインはこれを6月1日に承認し、正式に独立国家となった。同年7月、国際連合に加盟した。国家元首である大公 "princes d'Andorre" は、スペインのウルヘル司教 "Obispado de Urgell
出典:wikipedia
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