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プロトタイプレーシングカー

プロトタイプレーシングカー("Prototype racing car" )は、スポーツカーレースで使用される2座席の競技用車両(レーシングカー)である。「プロトタイプ」という語が使われている原義としては「(一般公道用車として市販することを前提にした)試作車」という意味であるが、実際のところいわゆるホモロゲーション(同型の車輛を規定数以上量産して市販しなければならない、という規制)はなく、公道走行に必要とされる制限に似た規程が一応あることもあるものの、ほぼレース専用の高性能な車両設計が認められている。同義語としてスポーツプロトタイプカー("Sports prototype car" )、略称として「プロトタイプ」「スポーツプロト」「プロト」などと呼ばれる。プロトタイプレーシングカーは位置付けとしては、フォーミュラカーと、いわゆる「ツーリングカーレース」に使用される一般車の面影があるレーシングカーとの中間的なあたりにある(フォーミュラカーにはオープンホイールであることといった規定もあるので、単純には比較できないが)。実質的な使用目的は競技用であるが、「将来的には公道走行が可能なスポーツカーとして市販されることを前提にして、開発テストのためレースに出ている」という名目を持つ。そのため、多くの場合は助手席を持ち、公道走行用の安全装備(ヘッドライト、テールライト、ブレーキランプ)を標準装備し、トランクスペースやスペアタイヤの設置が義務付けられる場合もある。実際にプロトタイプレーシングカーの発展型が公道用スポーツカーとして市販される例もあったが、現在では事実上「公道走行用市販車に発展することのない少量生産の2座席レーシングカー」という意味になっており、またその車両の多くにおいて、2個目の座席はレギュレーションを満たす最低限のものとなっていることも多い。フォーミュラカーはおもに比較的短距離・短時間で行われるスプリントレースで使用されるが、プロトタイプレーシングカーは長距離・長時間で行われる耐久レースで使用される。フォーミュラカーは敏捷な運動性能を得るために軽量化を追求しているが、プロトタイプレーシングカーは長距離走行のストレスに耐えられるよう信頼性も考慮して設計される。また、レース中に故障箇所を素早く修理・交換できるよう、メンテナンス性が重視されている。フォーミュラカー/プロトタイプレーシングカーともに、モノコックシャーシの後ろにエンジンをミッドシップマウントするという基本構造は共通しているが、車体(ボディ)の形状は大きく異なる。フォーミュラカーのボディは屋根なしで、タイヤ4輪が露出していなければならないが、プロトタイプレーシングカーのボディは屋根付き(クローズド)と屋根なし(オープン)の2種類があり、タイヤをフェンダーで覆うことが認められている。フォーミュラカーは前後ウィングなどのエアロパーツによって、どちらかといえば大きなダウンフォースを得る方向性のエアロであるのに対し、プロトタイプレーシングカーは燃費向上などの点からボディ全体の凹凸を抑えて、どちらかといえばドラッグを減らす方向性のエアロとなっている。フォーミュラカーとプロトタイプレーシングカーとでは、その性能も異なる特性を示す。前面投影面積、重量、エンジン出力など、車体形状を除く全ての条件が同じである場合、フォーミュラカーは加減速や旋回性能が高く、プロトタイプレーシングカーは最高速性能が高くなる。フォーミュラカーはドライバー主体の競争であり、(F1のような特殊例を除けば)シャーシやエンジンは市販コンポーネンツを使用する。対して、プロトタイプレーシングカーは元来マニュファクチャラー(自動車メーカー)主体の競争であり、社内の技術開発能力やチームワークが重要視される。伝統のル・マン24時間レースでは総合優勝を争うクラスであるため、メーカーの威信を賭けた開発競争が行われる。一口にプロトタイプレーシングカーといっても、レースごとに異なったレギュレーション(規則)が存在するため、ボディ形状やエンジン排気量などには様々な種類がある。設計方針も空力研究の進歩など、時代によって変化している。1960年代までのボディデザインは、市販スポーツカーと同じく丸みを帯びた流線型であった。1960年代に入るとフロントエンジン (FR) に代わってミッドシップが主流になり、薄いノーズからフェンダーや半球形のルーフが盛り上がる抑揚のあるデザインに変化した。全長6kmのストレートを持つル・マン24時間レースでは、直進走行安定性を改善するためロングテールや垂直フィンが装着された。1960年代末には大型リアウィングが登場し、ボディ上面をスロープ状に成形したくさび形(ウェッジシェイプ)ボディが流行した。1970年代になると、ポルシェが先鞭をつけたターボエンジンが普及し始める。1970年代末にF1でグラウンド・エフェクト・カーが考案されると、プロトタイプレーシングカーも車体下面を後方に向けて跳ね上げるデザインが導入された。1980年代に参戦したグループC規定のマシンは、最高速が伸びるよう空気抵抗の少ないクローズドプロトとすることがレギュレーションで決められていた。グループC規定が廃止された1990年前半もその状況は変わらなかったが、それまで平面だったフロントトレッド内部のボディワークにスポイラーやノーズを与え、空力性能を高める工夫が見られた。ル・マンにオープンボディのマシンの参戦が目立つようになったのは1990年代終盤である。クローズドプロトとオープンプロトにそれぞれ車両規定が設けられ、クローズドプロトはより大きなリストリクタープレートを装着できる反面、より細いタイヤを使用しなければならないことになった。このレギュレーションがオープンプロトに有利に働くことになり、2000年代前半には参戦車両、表彰台獲得車両ともにオープンプロトがほとんどを占めるようになった。2000年代後半にはレースを主催するフランス西部自動車クラブ (ACO) がクローズドプロトの開発を促進することを発表したが、状況に大きな変化はなく、クローズドプロトは少数派のままであった。しかし2010年代にレギュレーション変更によって排気量が5.5Lから3.7Lへと30%以上縮小されたことで、性能を維持・向上するためにクローズドプロトを開発するメーカー、チームが増加した。現在のル・マン・プロトタイプはフォーミュラカーのようなハイノーズを採用して、フロントからサイドへ空気を抜いてダウンフォースを増強するデザインが普及している。また、環境保護や省エネルギー思想に配慮し、ディーゼルエンジンやハイブリッドカー(回生ブレーキ)といった技術の導入が奨励されている。1939年に至るまで、戦前のル・マン24時間レースでは出場する自動車は市販車としてカタログに載せられている必要があった。1945年に第二次世界大戦が終わったものの1949年のル・マン24時間レース開催に当たって未だイギリスやフランスが社会的経済的に疲弊しており台数が集まらず、このため主催者のフランス西部自動車クラブが「公認されたメーカーが製造し、所属する国のレース統括団体の確認を受ければ、市販を前提に設計中または計画中のスポーツカーでも出場できる」「灯火類を始め、フロントガラスやトランクスペース、スペアタイヤ等の装備を義務づける」として車両規定に「プロトタイプカー」を新設し台数の確保を図ったのが始まりである。建前としては「設計中または計画中」だったスポーツカーを将来多くのメーカーが生産するようになれば車両規則から削除される予定であった。「設計中または計画中」の建前で有力メーカーが多額の費用を使ってレース専用車を作るようになり、車両の高性能化が進んだ。これは当時のフォーミュラ1が1960年に1,500ccを上限とするなど排気量制限をして馬力競争やスピード競争に歯止めがかかり、スポーツカーの方がはるかに高速化してル・マン24時間レースが魅力のあるレースとして有名になる一つの理由となった。1982年には国際自動車連盟 (FIA) の車両規定の改正が行われ、それまでのグループ6という分類からグループCという分類に変更された(これが「Cカー」の語源となっている)。それらの車で争われるレースシリーズは、主にヨーロッパを中心に行われ、世界耐久選手権(WEC、1982年~1985年)や世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC、1986年~1990年)といった世界選手権に発展した。当時のレギュレーションは、一レースあたりの燃料総使用量規制がメインで、エンジン形式に関する規制は事実上存在しなかった。そのため、世界中の自動車メーカーが様々なエンジンを用いて各レースの舞台でしのぎを削っていた。特に予選では、ターボエンジン搭載車による過給圧を極端に高めたアタックが行われた(一説には1500馬力以上出ていたと言われている)。エンジンの高性能化と燃費規制による電子制御技術、車体の新素材(カーボン)の応用と風力技術の研究が必須となり高度な技術と多額の開発資金が必要となり、参戦コストがそれまでに比べて急激に高騰した。1991年にはWSPCがスポーツカー世界選手権 (SWC) に衣替えしたが、SWCにおいてはエンジンの規定が当時のF1と同一の3,500ccNAのみとされたことにより、高回転までエンジンを回しても丈夫で24時間走れる高い耐久性を持ち、かつ小排気量から大パワーを出すことのできるエンジンを開発しなければならなくなった。これによって、今までの技術が転用できなくなったため、理不尽なレギュレーション変更と開発資金の兼ね合いから撤退するメーカーが出た。資金のないプライベーター(特にポルシェのマシンを走らせていたチーム)が次々と撤退。また、F1に移行するメーカが出たことなどが原因でエントラントが激減(そのため、F1のエントラントが急激に増え予備予選が必要となった。)、SWCは1992年一杯で消滅、グループC規定のレースは1993年のル・マン24時間レースで終焉を迎えた。プロトタイプレーシングカーはヨーロッパでは消滅し、1994年からはGTによる耐久レースシリーズとしてBPRが発足する。しかし、このBPRとは別に、「GTと言う名のプロト」と呼ばれるマシン、ダウアーポルシェがル・マン24時間レースにGTマシンとして登場する。しかし、そのマシンの中身はプロトタイプレーシングカーとしてそれまでル・マンに参戦していたポルシェ・962に、欧州の規定にあわせて保安部品をつけたという手法をとったマシンであった。これは、GT1のレギュレーションで、最低1台公道を走行可能な車両を生産すればよいという規定をうまく利用した結果によるものである。この手法が取られた理由は、プロトタイプクラスに出場するよりもリストリクターが大きくでき、馬力がより出せるなどの利点があったためといわれている。そしてこのマシンは批判を受けながらも1994年のル・マン24時間レースで優勝した。次の年に抜け穴を使ったマシンは登場しなかったが、1996年のル・マン24時間レースにはGTマシンのクラスの一つであるGT1に事実上のプロトタイプであるポルシェ・911 GT1が登場し、翌1997年にはポルシェ・996のフロントマスクをまとったポルシェ・911 GT1が再びGTカテゴリーに登場した。また、同年のル・マンには日産・R390が、(BPRシリーズが発展しこの年スタートした)FIA GT選手権にはメルセデスベンツ・CLK-GTRが、レギュレーション上はGTマシンであるが事実上のプロトタイプレーシングカーとして姿を現した。1998年には、GT1クラスのトップマシンは事実上のプロトタイプレーシングカーばかりとなり、この年からカーボンモノコックになったポルシェ・911 GT1Evo、トヨタGT-One TS020、メルセデスベンツ・CLK-LM、日産・R390などの顔ぶれとなった。1999年に大幅なレギュレーション改定が行われ、GTクラスに名ばかりのGTマシンが参戦できなくなり、LMGTP(クローズドプロトタイプマシン)とLMP900(オープンプロトタイプマシン)という新たなクラスが開設された。1999年のル・マン24時間レースのLMGTPクラスには、メルセデス・CLRや前年に参戦したトヨタGT-Oneの改良型が参戦した。「GT」と言う名のプロトタイプばかりでなく、グループC消滅後の1995年からは、WSC(ワールド・スポーツカー)と呼ばれるオープントッププロトも登場した。後述のとおり、アメリカでは1993年一杯でIMSA-GTPが廃止され、1994年からこのWSCが導入された。ル・マンでもLM-WSCとして導入されるが、IMSAとの違いはターボエンジンの参加を認めたこと。このためポルシェはトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)のシャシーに3リッター・フラット6のターボエンジンを搭載したポルシェ・WSC95でヨーストレーシングから参加(本来1995年のデイトナ24時間レースに参加すべくポルシェワークスが開発したが、ターボの規制の強化で参加を断念、その後ヨーストに放出された)、ワークスの911GT1を破り1996、1997年のル・マンを連覇する。1998年にはBMWがウィリアムズと提携しオープンプロトマシンとしてBMW V12 LMRを開発、1999年のル・マン24時間レースで優勝を飾っているほか、日産も日産・R391を開発し1999年のル・マン24時間レースに参戦した。IMSAでWSC規定が導入された1994年以降、アメリカではプライベーターに販売されたフェラーリ・333SPやR&Sがチャンピオン争いをしていた。これらオープントッププロトのシリーズを欧州でも行いたいプライベーターが中心となり1997年、「インターナショナル・スポーツカー・レーシング・シリーズ」(ISRS)がスタートする。しかしアマチュアプライベーター中心で、決して興行的に魅力あるものではなかった。1999年、もはや「GT」と呼べないGT1をFIA-GT選手権から切り離し、FIAはこれら屋根つきプロト(メルセデス、トヨタ)とプライベーターのオープントッププロトを対象にした新選手権「国際スポーツプロトタイプカー選手権」(IPC)を企画する。シリーズの半分はGT選手権との混走の耐久レース、残り半分はプロトタイプのみによるスプリントレースと、実現すれば興味深い企画だったが、メルセデス・トヨタの参加が実現せず結局キャンセルされた。FIA-GT選手権は本来の「GT」カーのみで継続された。IPCを断念したFIAはISRSにFIAカップを与え「スポーツカー・レーシング・ワールド・カップ」(SRWC)と改称するが、依然として興行に値するレースではなかった。アメリカにおけるスポーツカー耐久レースは1999年、ル・マン24時間レースと同じレギュレーションのアメリカン・ル・マン・シリーズ(ALMS)がスタートした。翌2000年は北米大陸を飛び出し、シルバーストン、ニュルブルクリンク、アデレードでも開催され、アウディ、BMW、GMの3ワークスが参戦する事実上の世界選手権に成長した。しかし翌2001年には北米大陸のみのシリーズに戻り、欧州では別個に欧州ル・マンシリーズ(ELMS)がスタートするも、参加台数が集まらずわずか1年で終了した。一方SRWCは2001年、FIA スポーツカー選手権(FIA-SCC)と改称し、FIA直轄となった。「世界」の文字は入らないが、1992年のSWC崩壊以来のFIA選手権の復活である。このレースには日本の童夢・S101も参戦した。しかし同シリーズはSRWC時代からと同様、マシンの販売価格も決められていたなどプライベーター中心のレースで興行的魅力は相変らず薄く、大した盛りあがりもないままわずか3年で終了することになった。FIA-SCCは終了したが、2004年からはニュルブルクリンク、スパ・フランコルシャン、モンツァ、シルバーストンで伝統の1000km耐久レースを復活させた「ル・マン耐久シリーズ」(2006年からルマン・シリーズ=LMSに改称)が開催された。ルマン・シリーズはその名のとおりル・マンと同じレギュレーションで行われる耐久シリーズで、上位チームにはル・マン参加権がシードされた。毎戦40台以上もエントリーを集める盛況な状況であった。徐々にスポーツカーの世界選手権復活の機運が盛り上がって来たのである。2010年、ACOはLMS(シルバーストン)、ALMS(プチ・ル・マン)、そして珠海1000kmレースの3戦から成る「インターコンチネンタル・ル・マン・カップ(ILMC)」をスタートさせた。世界選手権復活への第一歩と言えた。ILMC翌2011年はル・マン24時間レースを含む全7戦のシリーズとなり、アウディ、プジョー、アストンマーティンのワークス参戦で、事実上の世界選手権の復活と言えた。そして2011年6月3日、FIAとACOは2012年よりFIA 世界耐久選手権(WEC)を開催することを発表した。1992年SWC崩壊以来、20年ぶりのスポーツカーの耐久世界選手権の復活である。開催初年度はル・マン24時間レースを含む全8戦が開催され、アウディがハイブリッド車で初代王者に就いた。プジョーの撤退があったものの、トヨタもハイブリッド車でワークス参戦し、3勝を上げるなどまずまずの好成績を残した。アメリカでの自動車は、運搬手段としてのトラック/移動手段としての大衆車が主であった。それらを道具として遊ぶ競技は存在したが、職業としてのオートレーシングは、ダートオーバルコースを舞台としたオープンホイールとストックカーレースに限定されていた。そのため、スポーツカーとかロードコースという発想がなかった。アメリカで有名なスポーツカーレーシング選手権名は、カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ(Can-Am)、IMSA、アメリカン・ル・マン・シリーズ(ALMS)、GARRA(グランダム)の4シリーズがあげられる。1948年に東海岸ニューヨーク州ワトキンスグレンの公道でアメリカ初の本格的ロードレースが開催された。1952年にフロリダ州セブリング飛行場で12時間レースがSCCA(スポーツカー・クラブ・オブ・アメリカ)の主催で開催された(現在のセブリング12時間レース)。翌1953年には「世界スポーツカー選手権」が開始されるとその一戦としてセブリング12時間レースが組み込まれた。ヨーロッパのワークスチームは、これを機に大西洋を渡り始めた。SCCAの基本方針は、アマチュアレースの振興育成であった。そこで プロとして生計を立てたい人間は、ヨーロッパのワークスチーム入りを目指すようになった。50年代後半には、西海岸のカリフォルニア州のラグナ・セカやリバーサイドのロードコースが開設。マシンやドライバー層が厚くなり、集客が可能となって1958年からオープンホイール専門のUSACがプロ選手権を開催して、アメリカのロードレースのプロ化が始まる。1958年からUSACが開催を開始したプロ選手権は、1962年に消滅する。60年代初頭、レーシングカー全般にわたりフロントエンジンからミッドシップへと変換する技術的革新期であった。大きくて重いアメリカンV8をフロントに搭載したアメリカ製スポーツカー群を、小さくて軽い英国製ミッドシップスポーツカー群が追い詰め追い越すようになった。1963年にSCCAがプロ化路線に転向して、国内選手権のUSRRC(ユナイティッドステーツ・ロードレーシング選手権)を開始した。このレースは、ラグナ・セカやリバーサイドを舞台とした単発のプロスポーツカーレースを毎年10月に開催して、秋に開催されるF1のアメリカGPとメキシコGPに参戦するF1チームの面々が北米で過ごす合間に参戦を開始するようになった。F1チームの面々にとっては、高額賞金(F1より高い賞金)に加え好成績を獲得するとアメリカでの知名度向上が可能となる魅力があった。特に英国のコンストラクターにとって、アメリカは未開拓で前途洋々な市場に見えた。ブルース・マクラーレンは、当時所属していたクーパーから独立の準備を始め、ローラやロータスもアメリカ進出を推し進めるようになった。一方アメリカからは、フォードがヨーロッパのスポーツカーレース(特にル・マン24時間レース)の制圧を目指して本格挑戦を開始し、1966年~1969年に念願のル・マン24時間で4連勝を達成するようになった。1966年には、国際格式のカナディアン-アメリカン・チャレンジカップ(Can-Am)が毎年9~11月開催の6戦のシリーズ戦で開催を開始した。開催時期は、ヨーロッパ勢が参加しやすいように配慮されていた。1969年には、USRRCがCan-Amシリーズに吸収されて消滅する。USRRCは、ヨーロッパからのアメリカ進出と地元アメリカ勢の成長という下地を育成することになり、発展的解消ともいえる。Can-Amは、この年から6月~10月の期間に10戦のシリーズとして開催されるようになった。Can-Amシリーズの初代チャンピオンは、ローラで参戦したジョン・サーティースが獲得したが、翌1967年 - 1971年までマクラーレンで参戦したブルース・マクラーレンとデニス・ハルムが各シーズン毎にチャンピオンを獲るマクラーレン黄金期を構築した。1970年にブルース・マクラーレンがテスト中事故死というショッキングな出来事が発生するが、「ブルースのために」という合言葉でデニス・ハルムがチャンピオンを獲得する。1972年からスポーツカー世界選手権の規定変更をうけ、耐久レースの雄ポルシェがCan-Amに本格参戦を開始する。ポルシェは、ターボチャージャーを搭載した水平対向12気筒DOHCの5,000ccエンジン(公称900PS)を搭載したポルシェ・917/10Kで、一方マクラーレンはサイドラジエターを採用したマクラーレン・M20に自然吸気(NA)でOHVのシボレーV8の8,400cc(公称740PS)を搭載して参戦した。パワーの差はさすがに常勝マクラーレンといえども対抗できずに、ポルシェが全9戦中6勝を挙げチャンピオンを獲得し、マクラーレンのワークス活動を中止に追い込んだ。1973年には、ポルシェが5,400ccのエンジン(公称1,100PS)を搭載したポルシェ・917/30Kを投入し、前年度のポルシェ・917/10Kと合わせて全8戦とも勝利を納めた。このポルシェ・917/30Kは、当時「史上最速のレーシングカー」と呼ばれ開幕2戦は落としたが残りで6連勝でチャンピオンを獲得した。またポルシェ・917/30Kは、1975年夏にタラテガで平均355km/hというクローズドサーキット最速記録を樹立した。1974年には、FIAが燃費規制を導入する方針を示したことでポルシェは参戦意欲を失い、ワークス活動から撤退する。シリーズはオイルショックの余波を受け全5戦に縮小された。シャドウはDN4で全5戦中4勝を挙げチャンピオンを獲得する。1975年は、シリーズ自体が休止に追い込まれた。1977年から以前の規定の2座席オープンプロトタイプレーシングカーのマシンと新規定の「中古F5000のシャーシにスポーツカーカウルを被せた単座席スポーツカー」の混走レースとして復活する。クラスは、5000ccと2000ccの2クラスが設定された。2000ccのクラスでは、新規定の「中古F2のシャーシにスポーツカーカウルを被せた単座席スポーツカー」と従来の2座席オープンスポーツカーの混走レースであった。新規定の「単座席スポーツカー」のフロントカウルは、ベースとなったフォーミュラカーのフロントカウルをそのまま使用するマシンが多かった。1970年代のチャンピオンは、F1経験者のパトリック・タンベイ、アラン・ジョーンズ、ジャッキー・イクスが新規定の単座席スポーツカーで獲得した。日本のモータースポーツはフォーミュラカーよりスポーツプロトタイプで発展してきた感が強い。1960年代の日本グランプリ、1970年代の富士グランチャンピオンレース(GC)、1980年代の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)と、いずれも日本のレース界をリードしてきた。そしてその結晶がマツダのル・マン24時間レース制覇、日産自動車のデイトナ24時間レース制覇と言えるだろう。しかし1990年代以降はスポーツプロトタイプカーの耐久シリーズは消滅してしまい、唯一鈴鹿1000kmだけが残されているといった状態になってしまったが、その鈴鹿1000kmも現在ではSUPER GTのシリーズに組み込まれてしまった。2006年から開始された全日本スポーツカー耐久選手権(JLMC)も2007年限りで消滅してしまい、現在の日本にはスポーツプロトタイプカーのシリーズが存在しないのが現状である。日本で初めて登場したプロトタイプレーシングカーは、1965年にプリンス自動車工業が開発したR380である。前年の第2回日本グランプリにおいて、スカイラインGT(S54A-I型)でポルシェ・904に敗れたプリンス技術陣が、「打倒ポルシェ」を合言葉に生み出したマシンである。ブラバムBT8を購入し、徹底的に研究し完成させた。2リッター直列6気筒24バルブエンジンGR8型をミッドシップに搭載する。1965年は日本グランプリが中止になったため実戦デビューは翌年に持ち越しとなった。1966年に開催された第3回日本グランプリでプリンスR380は砂子義一の手により、ポルシェ・906を破り総合優勝を果たす。プリンスと日産が合併したため翌年の第4回日本グランプリには日産R380として参加するも、元プリンス・ワークスの生沢徹が駆るポルシェ・906に敗れた。翌1968年の'68日本グランプリでは大排気量マシンの参加も可能となり、日産はシボレー製の5.5リッターエンジンを積む「怪鳥」R381、前年参加するマシンがなく欠場したトヨタ自動車工業は3リッターV型8気筒エンジンを積むトヨタ・7でエントリー。この他日本初の本格的プライベートレーシングチーム「タキ・レーシング」がローラT70、ポルシェ・910を持ちこみ、「TNT」対決と話題になった。結果は北野元が駆る日産R381の優勝。観衆は主催者発表で11万人、NET(現テレビ朝日)による生中継の視聴率は19%にも達した。翌1969年にはグランプリはさらに加熱し、ディフェンディングチャンピオンの日産は自社製6リッターV型12気筒GR-Xエンジンを搭載するR382、トヨタはエンジン排気量を5リッターに拡大した2代目トヨタ7をそれぞれエントリー。タキ・レーシングはワークスのポルシェ・917をスタッフ・ドライバーごと招聘してしまった。この他ダイハツ、いすゞ、日野もワークス参戦。そして12万人の観衆を集めた決勝レースを制したのは黒澤元治駆る日産R382であった。プロトタイプで行われたこの年の日本グランプリは、日本モータースポーツ界の一つの頂点であったと言えた。1970年の日本グランプリは、5リッターV型8気筒ターボエンジンを搭載するニュー・トヨタ7と、日産のニューマシン・R383の激突が予想され、さらに白熱したレースが期待されていた。ところが、6月の「富士300マイル」でR382が1-2フィニッシュを遂げた直後、日産は突如1970年日本グランプリの参戦中止を発表する。表向きの理由は公害対策に専念するため、当初の目的を達成した大排気量プロトタイプマシンの開発を中止するというもの。この後相手をなくしたトヨタも日産を追うように欠場を表明し、同年の日本グランプリは主催者の日本自動車連盟(JAF)より中止が発表されることになる。戦う相手をなくしたトヨタと日産は共に海外に目を向け、トヨタは当時北米で最高の人気を誇ったCan-Amへ、トヨタ・7ターボで挑戦することを決意する。しかしそのことが役員会で正式決定した8月26日、鈴鹿サーキットで7ターボをテスト中の川合稔が事故死し、トヨタはこれを受けCan-Am挑戦と7ターボの開発を中止。また日産もCan-Am参戦の可能性を探るべくR382をアメリカへと送るが、結局レースに参戦することは一度もなかった。ここにトヨタ・日産のビッグマシン対決を中心としたプロトタイプレースの時代は突如完全に終焉を迎えることになったのである。トヨタ・日産のプロトタイプマシンがサーキットに戻ってくるのはこれから10年以上後のことである。本来日本グランプリの前哨戦となるはずだった9月の「富士インター200マイル」には、イタリアから最新型フェラーリ・512Sが招聘され、優勝を遂げる。興行的にもまずまずの成功を収めた。これが伏線となり、翌1971年、富士スピードウェイでは日本グランプリに代わる看板レースとしてスポーツカーレースによるシリーズ戦を開始する。これが富士グランチャンピオンレース(通称GC、グラチャン)である。メーカー同士の激突から、プライベートレーシングチームがスポンサーを募り、マシンを購入し、ドライバーと契約し、賞金を得ると言う、今日では当たり前のレーシングビジネスがこの時スタートしたのである。シリーズは全5戦が組まれ、当初は7リッターシボレーエンジンを搭載するマクラーレンM12から3リッターのポルシェ・908、GTクラスの日産・フェアレディZまでが混走するレースであった。初年度はマクラーレンの酒井正がチャンピオンになったが、雨の第2戦「富士グラン300マイル」ではGTクラスのフェアレディZが優勝する波乱もあった。翌1972年は若干規則が変更される。マクラーレンM12やポルシェ・908のような大排気量車も参加は可能だが、チャンピオンシップは2リッター以下のスポーツカーのみに与えられることになったのである。シェブロンB21P、ローラT290、GRD-S72と個性的なスポーツカーが競い合う激戦の中、元トヨタワークスの鮒子田寛(シェブロンB21P/フォード)がチャンピオンに輝いた。1973年からは2リッターまでとエンジン規定は統一されたが、それでも毎レースエントリーは30台を超え、また観客も1レース平均5万人を超えるなど、完全に日本の看板レースに成長していた。フォーミュラカーによる全日本F2000選手権(GCは全日本タイトルはかかっていない)もこの年スタートしてはいたが、日本のレースの中心はフォーミュラでなく依然スポーツカーだったのである。しかし隆盛を極めた富士GCも、1973年末のオイルショック、そして1974年6月の「富士グラン300キロ」での多重クラッシュに伴う鈴木誠一と風戸裕の死亡事故で、その勢いは急速に衰えていくことになる。日本のモータースポーツの元気がなくなった1970年代後半だが、紫電、ノバ・エンジニアリングという日本のコンストラクター製のスポーツカーも登場した。エンジンもBMWとともにマツダのロータリーエンジンが活躍した。1977年からは富士1000km、500マイル、500kmの3戦からなる耐久シリーズ「富士ロングディスタンスシリーズ」(富士LD)がスタートし、GCマシンがGTクラスのマシンと混走した。またアルピーヌ・ルノーA441なども登場し優勝している。しかし1979年、Can-Amに範をとり富士GCはシングルシーター化する。実際には本家Can-Amと交流もないまま、富士GCはF2の亜流と化し個性をなくし、10年後の1989年にはシリーズが終焉を迎えることとなる。1970年代のスポーツカーシーンのもう一つの特徴が、シグマオートモーティブ(後のサード)、童夢と言ったプライベート・コンストラクターによるル・マン24時間レース参戦である。1971年に鈴木板金(後ベルコ)がエントリーするも参戦できず、1973年、元トヨタ第7技術部の加藤眞率いるシグマオートモーティブが自製マシン、シグマ・MC73/マツダで日本チーム初のル・マン参戦を果たした。シグマの挑戦は1974年のシグマ・MC74/マツダ、1975年のシグマ・MC75/トヨタと3年続くが完走は果たせなかった。1979年は林みのる率いる京都の童夢が、童夢・零RL/フォード2台で参戦。シグマ、童夢、そして当初はプロトタイプでなくマツダ・RX-7の改造車で参加したマツダオート東京(後のマツダスピード)のル・マン挑戦が、1980年代グループCによるメーカーワークスの挑戦へとつながっていくことになる。1976年に世界メーカー選手権に導入された市販車大改造のグループ5規定(シルエットフォーミュラ)によるレースが、日本でも1979年から1983年にかけて富士GCの前座「富士スーパーシルエット」(SS)として行われるようになった。トヨタはドイツで活躍していたシュニッツァーチューンのA20セリカ・ターボを逆輸入したり、童夢製作のA40セリカを投入。日産は当初710型やA10型のバイオレット・ターボが参戦。後にS110シルビア・ガゼール、910ブルーバード、R30スカイラインを投入し、その迫力あるスタイル・走りからレース自体もおおいに人気を集めた。このころになると、トヨタ・日産も徐々にモータースポーツ活動を再開するようになってきた。1982年、国際自動車連盟(FIA)はグループ5およびグループ6(オープントップ・プロトタイプ)の後継カテゴリーとしてクローズドボディのプロトタイプ・グループC規定を導入する。このグループCによって争われる世界耐久選手権(WEC)が1982年から日本でも開催されるようになった。このWEC日本大会(WEC-JAPAN)に、日本初のグループCカートムス童夢・セリカCが参戦し、5位に入賞する。翌1983年、日本でもグループC規定によるシリーズ「全日本耐久選手権」がスタートする。以下「全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権」(JSPC)の項参照のこと。1990年にはようやくJSPCで国産マシン(日産・R90CP)がチャンピオンを獲得する。この頃のJSPCは絶大な人気を誇り、(シリーズ最大人気の)WEC-JAPANが消滅したにも関わらず1レース平均5万人(主催者発表)を超える動員を記録していた。しかし一方でワークス対決が激化したことにより国産メーカーは台数を絞り、1986年当時は12台参加したトヨタ・日産のグループCカーは1990年には6台に半減していた。とはいえポルシェ・962が多数市場に出回り、またバブル景気の影響で多くの企業がスポンサーに付きポルシェの台数は最大時8台にまで増加し、Cカーの総参加台数は減少しなかった。しかしCカー自体が速く進化しすぎたため、耐久レースに欠かせないGTクラスのマシンやRS(単座の小型スポーツカー)は1990年頃には淘汰されてしまい、1000kmレースでもエントリーが20台を切るような状況になっていた。翌1991年もJSPCはトヨタ・日産の対決に沸くが、ポルシェ・962の戦闘力がなくなり、また景気後退もあり撤退するチームも出てきた。参加台数も平均15台にまで減ってしまう。1992年にはポルシェを使うプライベーターは完全に消滅し、1レース平均出走台数は10台にまで激減してしまう。最終戦MINE500kmには、トヨタ(TS010)、日産(NP35)、マツダ(MXR-01)の新世代Cカー「カテゴリー1」(F1と同規定の3.5リッター自然吸気エンジン搭載車)が出揃うが、皮肉にもそれが最初で最後になってしまった。JSPCはこの年で事実上終焉を迎えることとなる(マツダはこの年限りでレースから撤退)。日本自動車連盟(JAF)は翌年以降もJSPCを継続させるべく新たに始まるN3規定の全日本GT選手権と混走させる耐久シリーズ「インター・サーキット・リーグ」(ICL)構想を発表する。しかし意に反しエントリーは集まらず、結局開催された耐久レースは鈴鹿1000km1戦のみ。日産2台と、スパイス・アキュラの計3台で事実上日本最後のCカーレースとなった(他GTクラスやRSが多数)。翌1994年、ル・マンで2位になったサードのトヨタ・94C-V(Cカーを大幅に改造したLMP1規定)が鈴鹿1000kmに参戦。ル・マン優勝のダウアー962LM・ポルシェ(クラスはGT1だが事実上のプロト)が来日し、ル・マンの対決の再現になるはずだったが、直前に来日がキャンセル。サードの94C-Vはライバル不在のレースに出走するが、トラブルでリタイヤ。このレースをもって日本からプロトタイプカーのレースが暫く中断することになる。SWC崩壊(ヨーロッパの項参照)後、鈴鹿1000kmもシリーズの1戦に加わっていたGTのグローバル耐久レース「BPR」が、1997年より「FIA GT選手権」に昇格し、鈴鹿もその1戦に加わった。この選手権にはセミプロトタイプとも言えるGT1マシン、メルセデスCLK-GTR、ポルシェ911GT1、マクラーレン・F1-GTR LMがワークス体制で参戦し、鈴鹿1000kmにも来日した。翌1998年も発展型メルセデスCLK-LMが来日。この時のGT1は、Cカー時代と遜色ないタイムで1000kmを走破している。この時期ル・マンに参戦していたトヨタ・日産は、それぞれトヨタ・GT-One TS020、日産・R390と言うGT1マシン(ル・マンのACO規定とFIA規定は微妙に異なるのだが)を保有していたが、諸般の事情でこの母国ラウンドには参戦できなかった。JSPCで見慣れたマシンがル・マンに参戦したCカー時代と異なり、この時期の国産ル・マンチャレンジャーを日本のファンは目の当たりにできなかったのである。1999年には鈴鹿1000kmはFIA-GTから外れるが、富士スピードウェイで開設35周年と銘打つ「ル・マン富士1000km」が開催される。その名のとおりル・マン規定で行われる耐久レースである。富士では1992年以来となるプロトタイプの耐久レースでもある。当初アウディ、BMWのワークス・プロトの参戦も期待されたが、同日にアメリカン・ル・マン・シリーズ(ALMS)が開催されたため実現しなかった。しかしトヨタのTS020、日産・R391が参戦。日本のファンはこのレースで初めてこのル・マン参戦車を見ることができたのである。この7年ぶりのTN対決は日産に軍配が上がる。そしてこのレース以降、トヨタ・日産ともプロトタイプのレース活動は10年以上休止することとなった。2000年代に入ると、GTカーによって争われる全日本GT選手権(2005年よりSUPER GT)が大きな盛り上がりを見せる一方、プロトタイプカーが出場したレースは、ル・マンに参戦したチーム郷のアウディ・R8がエントリーした2002年の鈴鹿1000kmのみであった(リタイヤに終わる)。その鈴鹿1000kmが2006年よりSUPER GTのシリーズ戦に組み込まれたことになり、日本におけるプロトタイプカーが出場可能のレースは完全消滅してしまう可能性も生まれた。2006年より、ル・マン24時間レースの主催者であるフランス西部自動車クラブ(ACO)の公認を受けるシリーズとして全日本スポーツカー耐久選手権(JLMC)がスタートする。当初プロトタイプカーの参戦は一ツ山レーシングが走らせるザイテック、M-TECが走らせるクラージュの2台のみにとどまっていたが、2008年以降は同シリーズのチャンピオンに翌年のル・マンの参戦枠が無条件で与えられることになっているため、参戦するチームの増加が期待されていた。しかし、翌2007年以降も参加チームの増加とはならず、また興行的にも苦戦を強いられたため、同年をもってシリーズは終了、日本におけるプロトタイプレースは再び消滅することとなってしまった。2009年にはACOが自ら主催となりアジアン・ル・マン・シリーズを立ち上げ岡山国際サーキットにてレースを行い、プロトタイプカーによるレースの命脈をかろうじてつないだ。日本におけるレース開催は冬の時代に入ってしまった2000年代のプロトタイプカーレースだが、ル・マン24時間等に参加するチームは相変わらず多かった。童夢は2001年、S101で15年ぶりにプロトタイプカーレースに復帰、FIA-SCCやル・マンに参戦する。メーカーの支援のない純粋なプライベート参戦のため、ル・マンにおける最高位は2003年、2004年の6位に留まる。2008年からはクローズド・ボディのS102を投入し優勝を目指していたが、リーマン・ショック以降の景気低迷の影響を受けS102の参戦は2008年のみに終わった。1997年から参戦を開始したチーム郷は、2004年にアウディ・R8で日本のプライベーターとして初めてル・マンを制覇している。2009年にはポルシェ・RSスパイダーでル・マンに参戦している。また東海大学(林義正研究室)が、大学としては世界初のプロジェクトとして2008年のル・マンに参戦した。マシンは東海大学で製作したエンジン(YGK)をクラージュ・オレカ製シャシーに搭載したものであった。2012年、長らくプロトタイプカーレースから遠ざかっていたトヨタが、FIA世界耐久選手権(WEC)にエントリーすることを正式に発表した。クローズド・ボディにハイブリッドシステムを搭載したTS030 HYBRIDで、WEC第3戦ル・マン24時間レースに出場、しかし結果は全車リタイアに終わった。トヨタはル・マン以降のWECにフル参戦し、参戦初年度ながら3勝をあげる健闘を見せた。10月には、富士としては1988年のWEC-JAPAN以来、日本としても1992年SWC鈴鹿1000km以来20年ぶりとなるスポーツカー耐久の世界選手権が富士6時間として開催され、トヨタが優勝を飾っている。また童夢が2008年以来、プロトタイプの活動を再開した。S102.5と言うアップデートマシンで、フランスのペスカロロチームからWEC第2戦スパと、第3戦ル・マンにエントリーしたが目立った成績は残せなかった。

出典:wikipedia

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