日枝丸(ひえまる)は、かつて日本郵船が保有していた貨客船である。氷川丸級の2番船として建造された。船名は日枝神社(東京都千代田区)に依る。戦前はシアトル航路に就航し、戦争中は海軍の特設潜水母艦となったが、米潜水艦の雷撃により沈没した。日本郵船は北米シアトル航路を強化するため、1万1000トン級貨客船3隻の建造を決定し、浅間丸型「秩父丸」を建造中の横浜船渠は2隻の建造を受注した。これが「氷川丸」と「日枝丸」(本船)である。船橋には東京千代田区日枝神社を祀る。「氷川丸」、「日枝丸」、「秩父丸」は並んで同時に建造された。また氷川丸級3隻(氷川丸、日枝丸、平安丸)は頭文字『H』を持つ神社名(氷川神社、日枝神社、平安神宮)に由来している。1930年(昭和5年)7月、横浜船渠で竣工。シアトル航路に就航した。同航路はグレート・ノーザン鉄道と日本郵船の提携により1896年(明治29年)開設された航路で、当時人口6000人だったシアトルは「ノーザングレート鉄道を父、NYK(日本郵船)を母」として目覚ましい発展を遂げ60万都市になった。就航後、往行では生糸、日本茶、綿製品、玩具などを運び,復航は屑鉄、銅、亜鉛,ニッケル、牛皮、航空機用特殊木材などを運搬した。1938年(昭和13年)、支那事変の影響でアメリカやカナダの対日感情は悪化していた。同年1月20日シアトル港内に停泊していた日枝丸に爆破未遂事件が発生した。港内の桟橋で他人の服を抱えた挙動不審な男を警察が職務質問したところ、日枝丸に爆弾を仕掛けるために海に入った主犯の男を待っている旨の供述をした。付近の海面を捜索した結果、主犯の男の水死体とダイナマイト300本と時限装置を設置した筏が見つかった。時限装置はなぜか予定時刻の30分前で止まっていた。低温の海で凍死していた主犯格の男は、カナダ ビクトリア在住の29歳大学講師であることが判明した。共犯の男は詳しい事情を知らず、共産主義者や中国機関による関与も疑われたが、結局背後関係は不明でその後も不安を抱えながらシアトル航路は維持された。1941年(昭和16年)7月、米・英・加 各国が対日資産凍結に踏み切ったためシアトル航路は閉鎖された。本船は9月から11月まで英印・東アフリカの在留邦人引き揚げのための特別航海についた。11月海軍に徴用され、開戦直前の12月7日、マーシャル諸島のクェゼリン島に軍需物資を輸送した。1942年(昭和17年)2月15日特設潜水母艦に定められ横須賀鎮守府所管となる。4月に特設潜水母艦への改装が終了し、第6艦隊第8潜水戦隊の母艦となった。1943年(昭和18年)7月にはインド洋上で、ドイツに向かう伊8潜水艦に補給を行なった。1943年(昭和18年)10月1日特設潜水母艦の定めを解かれ、特設運送船(雑用船)となる。横須賀鎮守府所管。11月、日枝丸はマニラからラバウルに陸軍部隊を輸送した後、トラック島に向かっていた。11月17日昼前、アメリカ海軍の潜水艦ドラムに発見され、ラバウル北西300海里で14時40分に4本の魚雷を発射、内1本が命中した。日枝丸は約4時間後に沈没したが、乗員・便乗者は全員救助されてトラック島に上陸した。助かった乗員は大鷹型航空母艦3番艦「冲鷹」(旧、新田丸)に便乗して内地に向かったが、12月4日「冲鷹」も米潜水艦の雷撃により沈没した。日枝丸の乗組員21名中20名が戦死した。1944年(昭和19年)1月5日特設運送船(雑用船)の定めを解かれた。
出典:wikipedia
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