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北条藩

北条藩(ほうじょうはん)は、江戸時代初期から後期にかけて、安房国に存在した藩。藩庁は安房郡北条村(現在の千葉県館山市北条)の北条陣屋。1638年の立藩以後、屋代氏が3代約70年にわたって治めたが、1711年に発生した万石騒動によって改易された。中断期間を挟んで水野氏が入り、3代約100年にわたって存続した。北条藩は寛永15年(1638年)2月、屋代忠正が安房国内に1万石を与えられて立藩された。忠正はもともと駿河大納言(駿府藩主)徳川忠長に附家老として仕えていた人物である。寛永9年(1632年)、忠長改易の連座によって蟄居処分に処せられていたが、赦免されて旧領と同じ1万石が与えられ、大名に復帰した。初代忠正は寛文2年(1662年)4月に死去し、後を養嗣子の屋代忠興(徳川忠長の附家老であった朝倉宣正の子)が継いだが、忠興は在任1年足らずして翌年1月に死去。甥で養嗣子の屋代忠位が3代藩主となった。忠位は百人組頭・大番頭などを歴任したが、小藩にとってその負担は重く、たちまち財政難に陥った。正徳元年(1711年)、忠位は職を辞して出費を節減し、川井藤左衛門を登用して財政再建を図ったが、川井の再建策は年貢の増徴であったために領民の多くが反発し、11月には一部が江戸藩邸、さらには老中の秋元喬知にまで訴える状況に発展した。川井は農民側の代表者3名の処刑という強硬手段で応えたが、農民側は勢いを盛り返して再度幕府に訴え出た。訴えは幕府に取り上げられ、正徳2年(1712年)7月22日、川井父子は死罪、藩主忠位は失政を咎められて改易となり、ここに北条藩は廃藩となった。1万石の藩領27ヶ村の民が参加したことから、万石騒動と呼ばれる。享保10年(1725年)10月、水野忠定が信濃国から安房北条に1万2000石で移封されたため、再び北条藩が立藩される。享保20年(1735年)6月、丹波国内に3000石を加増されて都合1万5000石となった。第2代藩主・水野忠見は奏者番・大番頭を歴任。第3代藩主・水野忠韶も奏者番・大番頭を経て文化5年(1808年)11月に若年寄に就任、文政8年(1825年)には城主格となった。文政10年(1827年)8月、忠韶は上総国鶴牧藩に移封され、北条藩は廃藩となった。1万石。譜代。(1638年 - 1712年)1万2000石→1万5000石。譜代。(1725年 - 1827年)藩祖・水野忠位(ただたか)〈従五位下 肥前守〉

出典:wikipedia

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