クイーン (Queen) は、イギリス・ロンドン出身の男性4人組ロックバンド。1973年にデビュー。これまでに15枚のスタジオ・アルバム、その他多くのライブ・アルバムやベスト・アルバムを発表。現在の認定セールスでは、アルバムとシングルのセールスで世界第5位の3億枚を超え、「世界で最も売れたアーティスト」にも名を連ねている。1991年にリードボーカルのフレディ・マーキュリーが死去してからも、残されたメンバーによるクイーン名義での活動は断続的に続いており、ギターのブライアン・メイとドラムスのロジャー・テイラーの2人が、2005年から2009年までポール・ロジャースと組んで「クイーン+ポール・ロジャース」として活動を行った。その後はアダム・ランバートを迎えた「クイーン+アダム・ランバート」としての編成での活動も行なっている。2001年には、マイケル・ジャクソン、エアロスミスらと共にロックの殿堂入りをした。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第52位。世界的に有名なヒット曲としてボヘミアン・ラプソディ、ウィ・ウィル・ロック・ユー、伝説のチャンピオン、地獄へ道づれ、キラー・クイーンなどがある。全員が作詞作曲を行い、ギター・キーボード(ピアノ・シンセサイザー・チェレスタも含む)が演奏できるため、上記に当てはまらないケースも多い。各メンバーのページを参照のこと。エレクトリックギターをダビングすることによって作られる「ギター・オーケストレーション」と、マーキュリー、メイ、テイラーの3人のメンバーが声のパートを重ねることによって作られる重厚な「コーラス」が、特に初期に目立ったサウンド上の特徴といわれている。そのギター・オーケストレーションを生み出す源、メイのハンドメイドギター、「レッド・スペシャル」は、友人の家の暖炉の素材として当時100年以上使われていた木材から作られたといわれ、フィードバック奏法をやりやすくするための空洞なども、独自のサウンド作りに貢献している。ジョン・デイーコンが作った(あるいは既存の製品を改造した)とされるギターアンプも、随所で使用されている。シンセサイザーを用いずにギター・オーケストレーションで重厚なサウンドを生み出していることを明示するため、初期のレコードには「ノー・シンセサイザー」というクレジットがなされている。クイーンのコーラスの録音方法については、最上パートはテイラーが担当することが多い。特にオペラ風コーラスに際しては、BS-TBS番組「SONG TO SOUL ボヘミアン・ラプソディ」において当時のエンジニアら制作関係者の証言で、マルチトラックテープが摺り減りテープのベース部分が透けるほど繰り返しコーラス部分のダビングを行った経緯が細かく説明されていた。また、メンバー全員が作曲ができ、作風もそれぞれ異なっているため、ヴァリエーションの多様さがクイーンの強みとなっている。ブライアン・メイとロジャー・テイラーの在籍していたバンド「スマイル」がクイーンの母体となった。スマイルは、1969年9月にシングル「Earth」(B面は「Step On Me」)をリリース。これはまったく成功せず、ヴォーカル兼ベースのティム・スタッフェルが脱退。その後任として、フレディ・マーキュリーが加入。1970年7月12日のライヴよりクイーンと名乗り始める。何人かのベーシストが加入と脱退を繰り返し、最終的にオーディションで加入したのが、ジョン・ディーコンであった。1971年2月のことである。クイーンの英公式サイトでは、4人が揃った1971年を正式なバンド結成の年としている。最初のアルバム『戦慄の王女』リリース当時、母国イギリスでは「ロックなのに、曲構成が複雑で、サウンドに小細工が多い」「ディープ・パープルやレッド・ツェッペリン、イエスの亜流」などとメディアから酷評され、遅れてきたグラムロックバンドと見られることもあった。また、彼らは、このアルバム制作から発売までに2年近くももたつき、結果、後のマーキュリーがインタビューで述べていたように、レコード契約から1年以上待機させられたため「発売時にはあらゆる意味で、時代遅れになっていた」という。1974年3月2ndアルバム『クイーン II』をリリース。イギリスのメディアの評価はいっこうに変わらなかったが、シングル曲「輝ける7つの海」のヒットもあり、アルバムは全英5位まで上がるヒット作になった。このアルバムをきっかけに本格的なブレイクにつながるようになる。1974年、3rdアルバム『シアー・ハート・アタック』からの先行シングル「キラー・クイーン」が全英2位のヒットとなる(後にマーキュリーはこの曲の作曲者としてアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞する。)またこの年、ディープ・パープル、モット・ザ・フープルの前座として初のアメリカツアーを行うが、メイが肝炎にかかってしまいツアーの途中でクイーンは降板を余儀なくされる。この頃日本では、ルックスや煌びやかなサウンドから若い女性を中心に人気を集め、翌1975年に初来日した。空港には1200人のファンが押し寄せ、武道館ライブは大成功を収めた。1975年2月にはカンサス、スティクスらの前座として再びアメリカツアーを開始する。ツアーは各地で大盛況を得て、「キラー・クイーン」は全米12位まで上昇する。しかしツアーの途中、前回のメイに続き今度はマーキュリーが喉を痛めてしまう。マーキュリーはしばらく安静状態を強いられたが、その後奇跡的に回復して無事にツアーを終了させる。同年10月には、4枚目のアルバム『オペラ座の夜』からの先行シングル「ボヘミアン・ラプソディ」が全英9週連続1位の大ヒットを記録。当初「6分を超える長い曲などラジオで流してくれない」とレコード会社側は曲のカットを指示したが、マーキュリーとテイラーは知り合いのラジオDJであるケニー・エヴェレットに意見を求めた。エヴェレットはこの曲を気に入り、自身のラジオ番組で2日間で14回も流したという。「ボヘミアン・ラプソディ」はチャリティーでない曲としてはイギリス史上最高の売り上げを記録し、マーキュリーはこの曲の世界的ヒットにより2度目のアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞する。その結果、4枚目のアルバム『オペラ座の夜』は初の全英1位を獲得、アルバムはクイーンに批判的だったメディアからも非常に高い評価を得た。1976年、軌道に乗ったクイーンはアメリカ、日本、オーストラリアなどで次々とツアーを成功させる。1977年、自身のレコーディングスタジオで作詞・作曲活動に専念し、初めてセルフ・プロデュースした5枚目のアルバム『華麗なるレース』を発表。これまで以上に分厚いサウンドになっているものの、基本的には『オペラ座の夜』の路線をさらに推し進めた作風となっている。全英2位、全米13位のヒットとなった先行シングル「愛にすべてを」や「懐かしのラヴァー・ボーイ」のほかに、歌詞の一部を日本語で歌った「手をとりあって」が収録され、アルバムはイギリスや日本で1位を獲得するヒット作となった。再びセルフ・プロデュースで臨んだ6枚目のアルバム『世界に捧ぐ』では、パンク・ロックが流行しつつあった当時の音楽シーンの流れを意識し、サウンド的にはシンプルな方向へ向かい、トレードマークの一つであったコーラス・パートの全くない曲(「永遠の翼」など)も収録された。アルバムは日本とイギリスで4位止まりだったが、「伝説のチャンピオン」や「ウィ・ウィル・ロック・ユー」がヒットしたアメリカではこれまでの最高位である3位を記録。またヨーロッパの中で唯一クイーンが苦手としていたフランスで「ウィ・ウィル・ロック・ユー」が12週連続1位となり、13週目には「伝説のチャンピオン」が1位となった。1978年にはヨーロッパ9カ国でツアーを開催。6年目にして初のフランスでのコンサートも大成功を収めた。7枚目のアルバム『ジャズ』では再びロイ・トーマス・ベイカーを迎え、ヴァラエティに富んだサウンドと楽曲を展開している。「バイシクル・レース」プロモーション用に制作された、全裸の女性が自転車レースをするというポスターとプロモーションヴィデオは物議をかもした。「バイシクル・レース」の影響もあり、このアルバムの発売直後にはマスコミは一斉にクイーンを批判したがアルバムは全英2位の大ヒットとなった。このアルバム発売と同年、クイーンはカナダを皮切りに北米ツアーを開催。マーキュリーはステージに上半身ヌード姿で自転車に乗って登場した。翌年1979年にはヨーロッパツアーを開催。東西冷戦状態であったユーゴスラビアもツアーのプログラムに入っていたことで話題を呼んだ。またマーキュリーがバレエ好きであったことから国立バレエ団の知的障害者への義援金チャリティ特別公演に出演。マーキュリー自身もバレエを踊り、大成功を収めた。また、カンボジア救済チャリティコンサートにも出演し、初日に単独コンサートを開いた。さらにこの年発表したマーキュリー作の「愛という名の欲望」が全米1位と、アメリカを始め全世界で大成功を収め、ライヴ・アルバム『ライヴ・キラーズ』で1970年代を締めくくる。エルヴィス・プレスリー風の「愛という名の欲望」の大ヒットに続いて、1980年のアルバム『ザ・ゲーム』も全英・全米ともに1位を記録。またアルバムからシングルカットされ全米1位を記録したディーコン作の「地獄へ道づれ」は、アメリカでの「ファンク」「ソウル」など、ブラックミュージックのチャートでも上位にランクインし、アメリカでのクイーン最大のヒット曲となった。また、その他のサウンド上の特色として、このアルバムから、シンセサイザーが導入されていることが挙げられる。これは『ザ・ゲーム』制作途中で、同名映画のサウンドトラック『フラッシュ・ゴードン』の録音が挟まった形となったことが、大きな要因となっている。1981年、南米でのツアーを終了させたメンバーはスイスでレコーディング中に親交を深めたデヴィッド・ボウイと「アンダー・プレッシャー」を共作する。「アンダー・プレッシャー」はイギリスやアルゼンチンで1位を獲得するなど世界的にヒットした。翌年発表されたアルバム『ホット・スペース』は、「地獄へ道づれ」などがアメリカで成功したことから、マーキュリーとディーコンを中心にファンク、ダンスミュージックの要素をアルバム全編にわたって突き詰めた内容だった。しかしここでの方向転換はファンや評論家らから強い反発を受け、イギリスでは4位、アメリカではトップ20入りを逃すなど、セールス的にも不振を極めた。メンバーも不仲となり、1983年にはバンドを小休止し、各自ソロ活動に専念した。その結果、1984年のアルバム『ザ・ワークス』では軌道修正を図り、ファンが待ち望んでいたような楽曲が集まった保守的ともいえる作品に仕上がった。この頃になるとアメリカや日本での人気は落ち着く一方で、テイラー作の「Radio Ga Ga」が19ヵ国1位と大ヒットしたり、ディーコンの「ブレイク・フリー(自由への旅立ち)」が、南米などで「自由へのシンボルとしての曲」と位置づけられるなど、ヨーロッパ圏だけではなく南アメリカやアフリカといった地域でも人気を集めるようになっていった。しかしこの頃から、前述にもあるように各メンバーのソロ活動も盛んとなり、加えてメンバー間の仲も険悪になっていく。「1985年7月13日のライヴエイド出演がなければ、そのまま、本当に解散していたかもしれない」と、後にメンバーも振り返っている。1985年に行われた20世紀最大のチャリティーコンサート「ライヴエイド」では出演アーティスト中最多の6曲を披露。クイーンの圧倒的なライヴは、スタジアムの観客やライブが中継された国々のファンからも絶大な反響があり、世界各国でクイーンのアルバムがチャートを急上昇した。この思わぬ反響を受けてクイーンは新曲のレコーディングを開始し、同年11月にシングル「ワン・ヴィジョン」を発表。メディアはこぞって「ライヴ・エイドの便乗商売だ」とこれを批判したが、イギリスではチャート7位にランクインした。1986年、アルバム『カインド・オブ・マジック』を発表し、世界中でヒットを記録。またアルバム発表後の「マジック・ツアー」では、ヨーロッパ諸国の全26公演で100万人以上の観客を動員。中でもウェンブリー・スタジアムで行われたコンサートは2日間で15万人の観客動員を記録するなど、クイーンのツアー史上最大の成功を収めた。しかし、クイーンの4人が揃ってツアーを行ったのはこれが最後となった。「マジック・ツアー」の大成功以来、メンバーは各自ソロ活動を行っていたが、1988年1月にはスタジオに再集結し、アルバムの制作を開始。1989年5月に、約2年ぶりのアルバム『ザ・ミラクル』を発表。先行シングル「アイ・ウォント・イット・オール」共々、本国イギリスやヨーロッパ各国でビッグ・ヒットを記録し、人気が健在であることを証明。しかし、アルバムにともなうツアーについては、マーキュリーはあっさり否定。一方以前からマーキュリーには「HIVに感染しているのではないか」との噂が飛び交っていたが、当時本人はこれを否定し続けていた。実際にはマーキュリーがHIVに感染していることは1987年頃に判明したといわれているが、その真相は長年ベールに包まれていた。1991年初頭に、前作からわずか1年あまりで14作目のアルバム『イニュエンドウ』をリリース。サウンド的にはやや初期に戻ったか、ブリティッシュ系ロックバンドをさらに自覚したようなサウンドとなった。タイトル・ナンバーではスティーヴ・ハウによるアコースティック・ギターソロがフィーチャーされた。メンバー以外のミュージシャンがクイーンのスタジオアルバムでギターを演奏したのはこれが最初で最後である。アルバム『イニュエンドゥ』からシングルカットされた「イニュエンドゥ」は全英1位、「ショウ・マスト・ゴー・オン」は全仏2位とシングル面でも大健闘した。しかし、この頃にはすでにマーキュリーの体は病魔に支配されていた。1991年11月23日、マーキュリーの自宅前で記者会見が行われ、スポークスマンを通じて以下の声明文を発表している。「私はHIVテストで陽性と診断され、AIDS患者であることが確認されました。しかし私の身の回りの人々のプライバシーを守るため、この事実を隠しておくことが適当だと考えておりました。しかし今、世界中の友人たちとファンの皆様に真実をお伝えする時が来ました。これからはこの恐ろしい病気に対して、私と私の医師団と世界中で私と同じように苦しんでいる人々と一緒に戦って下さい。」そして翌24日、フレディ・マーキュリーはHIVによる免疫不全が原因となって引き起こされたニューモシスチス肺炎により45歳という若さで死去。亡くなった1991年は、奇しくもクイーン結成20年目だった。マーキュリーの死は世界中に衝撃が走り、葬儀会場は世界中から駆けつけたファンの花束で埋め尽くされた。マーキュリーの死の直後、クイーンのアルバムが世界中でチャートインし、イギリスでは「ボヘミアン・ラプソディ」がイギリス史上初の同一曲2度目の1位という記録を打ち立てた。また、マーキュリーの遺言により初登場1位を獲得した作品の収益金はすべてエイズ基金に寄付された。また、1992年にバルセロナオリンピックの開会式でオペラ歌手のモンセラート・カバリェとマーキュリーがデュエットする予定だったが、マーキュリーの急死によりホセ・カレーラスが代役を務めた。クイーンは正式に解散したことはなく、テイラーとメイがそれぞれソロ活動を行ったり、残されたメンバーでクイーン名義でたびたび活動したりしている。ソロ活動においては、メイは、クイーン時代の延長線上に当たる音楽を、一方、テイラーは、クイーンとは異なったアプローチで、それぞれ音楽活動を断続的に続けていた。ディーコンは、あまり目立った活動は行っておらず、後述するように2011年現在は音楽業界から完全に引退している。マーキュリー死後から活動再開までの、クイーン名義での主な活動は以下の通り。マーキュリーがこの世を去った翌年の1992年2月12日、メンバーからマーキュリーの追悼コンサートが4月20日に開催されることが発表された。出演者は未定だったもののチケットは2時間で完売した。そして同年4月20日に行われたフレディ・マーキュリー追悼コンサートにはロバート・プラント、エルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、メタリカといった大物アーティストが集結し、会場となったウェンブリー・スタジアムには7万人を超えるファンが集まった。世界でも生中継され、元祖クイーン大国・日本でも、NHKでクイーンの歴史を紹介するVTRと共にライブの様子が放送された。フレディ・マーキュリーの衝撃の死から4年後、マーキュリーが生前最後に残したスタジオレコーディング曲が収録されたアルバム『メイド・イン・ヘヴン』が発売された。クイーンとしてのオリジナルアルバムはこれがラストとなる。「ヘヴン・フォー・エブリワン」や「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」などの各メンバーのソロ曲のリメイク版と、「マザー・ラヴ」や「イッツ・ア・ビューティフル・デイ」などの新曲、合計11曲が収録されている。また、最後にはCDには記されていない22分間のボーナストラックが出現し、マーキュリーへの追悼または天国をイメージさせるような音声が収録されている。アルバムは世界の音楽市場で1位を連発し、2000万枚以上を売り上げる怪物ヒットとなった。ジョン・ディーコンは、1997年の「ノー・ワン・バット・ユー」の発表を最後に、クイーンとしての活動には一切参加しなくなった。2004年にはテイラーが「ジョンは事実上引退している」と発言したほか、クイーンと付き合いの長い東郷かおる子が寄稿したクイーン+ポール・ロジャース日本公演(2005年)のパンフレットには「音楽業界から引退」と記載された。しかし2002年の「エリザベス女王在位50周年式典」(The Queen's Golden Jubilee)の一環であるロックコンサート以降は、メイとテイラーの二人が「クイーン」名義で出演したため、最低この2人のメンバーが揃うと、「クイーン」のバンド名が使えると解釈しうる。最近のインタヴューによると、ディーコンは荒波の音楽業界を嫌い、家族と共に楽しくのんびり暮らしているとのこと。メイとテイラーがイベントに誘ってもディーコンは一切参加しようとしないが「彼は今でもクイーンの一員だよ」と2人は述べている。2004年後半、テイラーとメイ(前述のとおり、ディーコンは音楽業界から引退)は、英国音楽殿堂の授賞式での共演をきっかけにして、2005年1月、元フリーやバッド・カンパニーのヴォーカリストであったポール・ロジャースと組んで、「クイーン+ポール・ロジャース」として活動することを正式に決定した(メイは、それ以前にもロイヤル・アルバート・ホールでの公演など、数回ロジャースと共演していた)。フレディ・マーキュリーという超個性派ヴォーカリストの後任としてマーキュリーとは似ても似つかない男、ロジャースが選出されたことは世界中から疑問の声が挙がったが、メイは「僕は誰かをフレディの代役に立てるという意見にはずっと反対だった。でもフレディの代わりを務めようなんてこれっぽっちも思っていない男に出会ったんだ。ポールは彼だけの色を持ったフレディには似ても似つかない男さ」と述べた。『愛にすべてを』をカヴァーしたジョージ・マイケル、『伝説のチャンピオン』をカヴァーしたロビー・ウィリアムスなどがクイーンの新ヴォーカルに相応しいのではないかという意見があった。実際、メンバーもウィリアムスをクイーンの新ヴォーカルとして迎え入れる話はしていたそうだが「やはり違う気がする」ということでロジャースを選出した。ヨーロッパツアーのチケットはソールドアウト、来日公演は、さいたま、横浜、名古屋、福岡で行われ、10万人を動員するなど、各地で大成功を収めた。2006年にはクイーン名義では24年ぶりの全米ツアーも成功させる。10月には「クイーン+ポール・ロジャース」としてスタジオ入りするとメイのホームページで宣言され、2008年にはニューアルバム『ザ・コスモス・ロックス』(The Cosmos Rocks)が発売され、それに伴うヨーロッパ・南米ツアーを行っていたのだが、2009年、ロジャースは「クイーン+ポール・ロジャース」としての活動に終止符を打ちバッド・カンパニーの再始動に移行した。この時期クイーンとしての表立った活動はなかったが、ブライアン・メイとロジャー・テイラーの2人によって今もバンドは存続しており、日刊スポーツの取材に対してテイラーは「クイーンは永久に続ける」と誓っている。2011年にクイーン結成40周年を記念して、音源をクリアにしたリマスター盤のオリジナルアルバムおよびベストアルバムが随時発売されているが、7月現在まだ3分の1ほどしかリリースしていないにも関わらず、日本円にして56億7600万円以上もの売上を記録し、改めて未だ人気が衰えていないことを証明した。さらにメイとテイラーによると「今、フレディとマイケル・ジャクソンが共同制作した大量の未発表音源をいじっているんだけど、近いうちに2人のコラボアルバムが発売できたらいいなと思うんだ」と述べており、世紀のスーパースターであるフレディ・マーキュリーとマイケル・ジャクソンのコラボアルバム発表間近かと世界中で注目されている。ちなみに先日行われたNMEの「世界最高のヴォーカリストは?」という1000万人以上を対象とした大規模アンケートで1位にジャクソン、2位にマーキュリーが輝き、この2人が他のアーティストを大きく離していたことが発表された。メイはイギリスの女性ミュージカル歌手ケリー・エリスとアルバムを制作したり、全英ツアーを行ったりと相変わらず積極的な音楽活動を続けている。また、2011年5月23日に発売された世界的ポップスシンガーであるレディー・ガガの3rdアルバム『ボーン・ディス・ウェイ』にメイとのコラボ曲「ユー・アンド・アイ」が収録された。メイはバックボーカルとリードギターで参加している。2011 MTV Video Music Awardsでは、男装したガガとメイがステージ上で「ユー・アンド・アイ」を披露し、ガガの受賞が発表された際には2人が抱擁する場面が映し出された。このことをきっかけにガガの実力を確信したメイは、NMEのインタヴューでクイーンの新ヴォーカル候補として彼女の名前を挙げている。この提案には、熱烈なクイーンファンであるガガの方も乗り気なようで、近いうちにガガがクイーンのメンバーに加入する可能性がある。しかし唯一無二のヴォーカリスト、マーキュリーの存在は大きく、抜群の歌唱力を誇るポールが加入した時でさえファンから複雑な反応を受けたため、メイは「テレビの特番でいろんなアーティストをヴォーカルに迎えて演奏してみたい」と付け加えており、新ヴォーカリスト選びには慎重な姿勢を見せている。一方、テイラーの方は「2012年のロンドンオリンピックに合わせてポールともう一度組む可能性がある」と発言しており、今後どのような形でクイーンとしての活動を進めていくのかが注目されている。さらにテイラーは2012年に一般応募から選考した若い才能のある歌手を迎えて、クイーンのトリビュートツアー Queen Extravaganza を北米で行っている。また、前述のようにクイーンがロンドンオリンピック関係でメディアに露出することが確認されており、メイもインタヴューで五輪の閉会式にクイーンが参加するという趣旨の内容をほのめかしていた。2012年8月12日に行われたロンドンオリンピック閉会式にジェシー・Jと共に参加した。2009年、ブライアン・メイとロジャー・テイラーはアメリカのオーディション番組『アメリカン・アイドル』にゲスト出演する。シーズン8の結果発表の前にふたりの演奏で最終候補者のクリス・アレンとアダム・ランバートが「伝説のチャンピオン」を熱唱する。ブライアン・メイとロジャー・テイラーがアダム・ランバートのボーカルに惚れこみ、その場でクイーンへの参加を打診したと伝えられている。その件に関してその気があるのかとAP通信がランバートに聞いたところ「それは難しい質問だね。だって、正直クイーンにならないかっていう申し出をどう断ったらいいんだ?そんなの信じられないよ!でも、今、自分でやりたいこともあって、それが僕の目標でもあるんだ。だから、できることなら両方やってみたいね」と述べている。2011年、クイーンがMTVヨーロッパ・ミュージック・アワードでグローバル・アイコン賞を受賞。ブライアン・メイとロジャー・テイラーはアダム・ランバートと再共演し「ショウ・マスト・ゴー・オン」「ウィ・ウィル・ロック・ユー」「伝説のチャンピオン」の3曲をメドレーで披露した。2012年、6月から7月にかけてウクライナ、ロシア、ポーランド、イギリスの4都市で6公演を行った。2013年の活動は「iHeartRadio Music Festival 2013」への出演だけだったが、2014年には6月から7月にかけて24公演の北米ツアーを行い、8月には「SUMMER SONIC 2014」のヘッドライナーとして来日公演を行った。アダム・ランバートはクイーンとの共演について「僕の見方としては僕はフレディの代わりを演じるつもりも、フレディの上を行くつもりも、フレディと競うつもりもまったくないし、そんなことはまるで考えてないんだ。フレディとバンドとで書いた音楽を歌って、それをステージに持っていっていいショーをやるように請われたってことはすごい光栄なことだと、そう思ってるんだ。でも、観てるみんなが比較することばかりに気を取られると、きっとライヴを楽しめなくなるとも思うよ」と語っている。アダム・ランバートをフロントマンに迎え活動を継続することに不満を持つファンについては、メンバーは「フレディ・マーキュリーも承認したと思う」とアダムの起用を擁護している。1970年代半ば、日本で最も大きな影響力をもっていたロック雑誌「ミュージック・ライフ」が最大限のプッシュをしたこともあり、若い女性の間で人気が爆発し、アイドル的人気を博した。初来日した1975年4月の時点で、クイーンは「キラー・クイーン」や『シアー・ハート・アタック』の大ヒットなどもあり、必ずしも本国に先駆けて日本で最初に人気が出たというわけではなかった。ただ相変わらず本国の音楽評論家からは酷評されていた上に、当時のマネージメント会社とのトラブルやメインアクトとして臨んだ初の全米・カナダツアーがフレディの喉が悪化して途中でキャンセルされるなど、バンドにとっては非常に厳しい状態が続いていた。そんな中での遠い異国・日本での人気は衝撃だったと後にメンバーも語っている。初来日の際は空港にファン1200人が集結しパンク状態になった。そしてメンバーは会見を行い芸子らから日本のお茶をいただいたり、ファンからもらったけん玉で遊んだりするなどして日本文化を満喫し、武道館公演では着物を着て演奏し見事成功を収めた。初来日の際、ロジャーとブライアンは2人だけで東京タワーへ観光に行ったところ多くの子供に「クイーン!クイーン!」とサインをせがまれながら囲まれ、その後結局ホテルで缶詰状態だったという。日本の歓迎以来、メンバーは親日家となり、5枚目のアルバム『華麗なるレース』には、歌詞の一部を日本語で歌った「手をとりあって」を収録した。メンバーはツアー以外にも何度かお忍びで来日しており、とくに日本文化に関心があったフレディは伊万里焼を集めたり、自宅の庭に日本庭園を造らせたりしていた。ブライアンは来日した際、日本の畳が気に入ったが、大きすぎて持ち帰れないことに非常に残念がっていたという。また、新宿にはフレディの行きつけのゲイバーがあり、度々通っていたと思われる。2004年には木村拓哉主演のテレビドラマ『プライド』の主題歌にクイーンの楽曲「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」使用され、日本独自のベストアルバム『ジュエルズ』がオリコンチャート1位を獲得し、180万枚を売り上げる大ヒットを記録、「第2次クイーンブーム」が起こった。クイーンはその年の日本ゴールド・ディスク大賞海外部門を受賞する。これによりクイーンを知らなかった若年層のファンも増え、日本でのクイーン人気はさらに上昇した。これについてメイは「クイーンのベストアルバムが日本で売れていることを聞いてとても驚いているよ。クイーンが日本にとって海外アーティストの中では大きな存在だということは知っていたけれど、日本の音楽史の中ではクイーンは小さい存在だと思っていたんだ。けれども今回のヒットで日本の大物アーティストと肩を並べられてとてもうれしいよ。」と語っている。2011年、日本で東北地方太平洋沖地震が起きた際、ブライアンは「朝起きてテレビを付けたら津波の様子が映っていて涙が出た。僕たちと日本は強い絆で結ばれている。みなさんが一日でも早くこれまでの生活を取り戻し、この悲劇を記憶のはるか彼方へ追いやられるよう愛のメッセージと同情の気持ちを送りたい」と語った。また、震災支援のために発売されたチャリティーアルバム『ソングス・フォー・ジャパン』にレディー・ガガやボブ・ディラン、ビヨンセ、ボン・ジョヴィ、マドンナ、エルトン・ジョンといった世界のトップアーティスト38組の楽曲と共にクイーンの「手をとりあって」が収録された。前述にもあるように「手をとりあって」は歌詞の一部を日本語で歌った曲である。アルバムはiTunesで配信され、世界18ヵ国で1位を獲得した。現在でも、ベストアルバムに日本限定のボーナストラックを収録したり、クイーン+ポール・ロジャースやクイーン+アダム・ランバートの来日公演の際に「手をとりあって」や「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」を限定でセットリストに加えたりしている。クイーンはデビュー時から地元英国の音楽評論家から「時代遅れのロックバンド」「女と子供専用のロックバンド」として嫌われている存在であった。しかしその批判とは反比例するかのようにクイーンの人気は瞬く間に上昇し、世界のロック界を先導する存在となった。日本でもミュージック・ライフ誌の猛プッシュにより、世界でもいち早くクイーン人気に火が付いた。アルバムが出る度に人気を博していくクイーンに対し、音楽評論家たちも徐々に一目置くようになる。その後も「こんなバンドが成功したら私は帽子でも何でも食おう!」「これぞグラム・ロックの残りカス。こんなバンドが希望の星と言うのなら、我々はロックン・ロールで自殺しているのと同じだ」と相変わらずイギリスでは酷評が大半を占めていたが、アメリカのローリング・ストーン誌ではクイーンがビッグネームになることを既に予想していた。ブライアンは「アルバムがどんなに売れている時でも評論家は僕らの作品を、ゴミ扱いしていたからね。でも、そうなってくるとこっちもいろんなことを考えちゃうものなんだよ。『本当のところはどうなんだろう? 僕達は本当にいいバンドなんだろうか? それともやっぱりゴミなんだろうか? 何を尺度にすればいいんだろう?』ってね。でも、結局のところは答えなんかみつからないし、自分を信じるしか手はないんだ」と後に語っている。1984年、クイーンはイギリスの音楽雑誌どころか世界中からバッシングを浴びるような事件を起こす。当時、南アフリカで問題になっていた人種差別のアパルトヘイト制度を弾圧するため、スポーツ選手やミュージシャンなどの著名人は南アフリカへ行かないようボイコット運動が進められていた。しかし、クイーンはそれを破って南アフリカの白人専用リゾート施設サンシティでライヴを行った。クイーンは帰国と同時に国際的な非難にさらされ、同じくサンシティで公演を行ったエルトン・ジョンやロッド・スチュワート、オリビア・ニュートン・ジョンなどのアーティストも批判された。サンシティはギャラが高いことで有名だったため、金目的でライヴを行ったように世間からは見られた。しかし、ブライアンは「僕たちは熟慮の上で、サンシティへ行ったんだ」と述べ「南アフリカで反アパルトヘイト運動をしている人たちに親愛感を覚えたんだ。僕らが行くことで彼らを助けることになったと思うし、彼らがそう感じていることも知っている」と語った。実際、南アフリカでもクイーンの人気は高く、同年発売されたシングル「ブレイク・フリー」は南アフリカで1位を獲得するのみならず反アパルトヘイト運動を行っている人々のプロテストソングとして歌われていた。さらにブライアンは「ボイコットという形で彼らを孤立させることを疑問に思う」と述べたが、クイーンの主張は誰からも相手にされず、音楽評論家たちはクイーンに罰金を支払うよう命じ、国連はクイーンの名をブラックリストに刻んだ。その後もクイーンに対する批判は続いていった。ちなみにクイーンは2003年と2005年に反アパルトヘイト運動で活躍したネルソン・マンデラ主催のチャリティコンサート「46664」に出演している。
出典:wikipedia
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