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甲骨文字

甲骨文字(こうこつもじ)とは、中国・殷(商)に行われた漢字書体の一つで、現在確認できる最古の漢字。古代中国で生まれ発達してきた文字(漢字)と獣骨を用いる占卜とが結びついて文字記録となったものである。亀甲獣骨文字、甲骨文ともいう。殷後期(第22代殷王武丁以降)の考古学資料が小屯村(殷墟)で大量に出土した。亀の甲羅(腹甲)や牛や鹿の骨(肩胛骨)に刻まれた。甲骨文字は絵文字様であるが、文字としてすでに抽象性が高い段階に発達している。現在確認できる最古の漢字であるため、甲骨文に現れた形から、なぜこのような字形になったかという字形解釈の典拠にされている。殷の卜占()では、これらの骨・甲羅などの裏側に小さな穴を穿ち、熱した金属棒(青銅製であったといわれている)を穴に差し込む。しばらくすると表側に卜形のひび割れが生じる。事前に占うことを刻んでおき、割れ目の形で占い、判断を甲骨に刻みつけ、爾後占いの対象について実際に起きた結果が追記された。その際に使われた文字が甲骨文である。発掘された甲骨文はもっぱら占いの内容が記録されている。ただし、現時点で解読されている甲骨文字は発見された史料の20%程度であるといわれている。紀元前14世紀ごろのものから残っている。なお、近年では殷墟から600km離れた周原でも甲骨文字が発見されており、殷朝の末期には周でも使われていたことが明らかになっている。実際に周原から出土した甲骨文字には、殷の東方に位置する部族に対して共闘を申し込んだ記述などが判明している。殷とは異なり、周では記録や契約等の記述としてすでに使われ始めていることが明らかになっている。甲骨には朱が塗り込められ、神と交信する地位としての王の神聖性などを示す意味があったともいう。董作賓による書風の分類ではとなり、また、研究では占いを担当する者(貞人)の集団の変遷とも大体一致することが明らかになっている。金石文はかなり古くから研究が進んでいたが、甲骨文が発見・研究されるようになったのは19世紀末のことである。1899年、当時の清の国子監祭酒(文部長官相当)であった王懿栄が竜骨と呼ばれていた骨に刻まれた文字を発見し、研究の先駆者となった。その後王懿栄は自殺したが、引き継いだ劉鶚によって、1903年に甲骨文字の図録「鉄雲蔵亀」が出版され、甲骨文字が知られるようになった。甲骨が出土していたのは殷墟(河南省安陽市の近郊、小屯村の近く)であり、かなり前から農民により発掘されていたが、価値を知らない農民は大部分を捨ててしまっていたという。19世紀末期の中国古代史界では、疑古派と呼ばれる『過去の記録を疑う』方針の考えが強く、『史記』の殷の王の系譜も全て架空の存在と考えられていたが、発見された甲骨に『史記』とほぼ一致する王の名前が確認されたことで、史記の内容の正しさが裏付けられた。殷王室の卜占に用いられた甲骨文は、あらゆる状況から5つの時代に分類できる。この5つの時代に甲骨文を当てはめる作業を「断代」と呼んでいる。董作賓は1932年に「甲骨文断代研究例」を著し、10種の標準を示した。この結果、と断代できる。甲骨を用いた占いは以下に大別される。占いは吉兆か凶兆かの二者択一だが、実際は凶兆が出ても、決行日を先送りしたり生けにえの数を増やすなどしたうえで問い直し、吉兆が出るまで繰り返された。そのため、定期的な占いに用いた甲骨の場合、凶兆が出ない限り「癸○の日に貞人□が占う、この旬間に凶事はないか?」という文言が延々と並ぶだけになる。仮に凶兆が出た場合は、その対処法として「神前に生贄として△を×匹捧げる」などの処置が追記される。記録内容は一応の定型文がある。実際に出土した甲骨ではこの定型文全てがそろったものは少なく、やはり占いが外れたことも多かったのか、占辞・験辞が欠落している甲骨文が圧倒的に多い。実際の出土例は今のところないが、筆や木簡を像った文字が甲骨に刻まれていることから、甲骨文に刻まれた文章の草稿は木簡に記録されていたと思われる。また、甲骨文の中に横画を刻み忘れたものが混じっていることから、甲骨に下書きをしたうえで字を刻んだと推定される。亀の腹甲を用いる場合には、中心線を基準として線対称の位置に肯定文と否定文のセットを刻むことが多く、牛の肩甲骨を用いる場合は線対称を意識せずに羅列していくことが多い。

出典:wikipedia

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