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ミッドウェー海戦

ミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん)は、第二次世界大戦中の昭和17年(1942年)6月5日(アメリカ標準時では6月4日)から7日にかけてミッドウェー島をめぐって行われた海戦。ミッドウェー島の攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で発生した。日本海軍の機動部隊とアメリカの機動部隊及びミッドウェー島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は機動部隊の航空母艦4隻とその艦載機を多数一挙に喪失する大損害を被り、この戦争における主導権を失った。ミッドウェー海戦はミッドウェー作戦(MI作戦)の前哨戦であり、この敗北で同作戦は中止された。大東亜戦争開戦前、日本海軍は対米作戦における基本的な方針として守勢の邀撃作戦を採っていた。連合艦隊司令長官であった山本五十六大将は以前よりこの方針に疑問を持ち、独自の対米作戦構想として積極的な攻勢作戦を考えていた。大島一太郎大尉(後に大佐、1928年(昭和3年)海軍水雷学校高等科学生)の戦後の回想によれば、1928年(昭和3年)に海軍水雷学校で「対米作戦はハワイを攻略するような積極作戦を採るべきである」と述べている。これは、まず国力から見て圧倒的な劣勢にある日本が守勢を採っても、時期・方面などを自主的に決めて優勢な戦力で攻撃するアメリカに勝ち目がなく、また短期戦に持ち込むためには、早期に敵の弱点を叩くことで相手国の戦意を喪失させる方法しか勝機を見出しえないと判断したためと言われている。さらに山本長官は大東亜戦争開戦前より、敵の空母部隊が日本を航空攻撃した場合、国内へ物質的な打撃だけでなく精神的な打撃が大きいと考えていた点も関係している。及川海軍大臣宛の書簡、黒島参謀の回想によると、山本長官のミッドウェー作戦の第一の狙いがアメリカ海軍・アメリカ国民の士気を喪失させることであったこと、また本土空襲の精神的な打撃を大きいと認めている点が分かる。すなわち相当の危険性を承知の上でもアメリカに対し、戦争で勝利を収めるためには積極的な攻勢を進めるしかないと考えていた。アメリカ海軍は、1941年(昭和16年)12月の真珠湾攻撃で太平洋艦隊主力の戦艦部隊が行動不能となった後、稼動状態にあった機動部隊を中部太平洋方面に出撃させ、日本軍拠点に対する一撃離脱戦法による襲撃を繰り返した。その度に日本軍は来襲の企図や方面の判断に悩まされた。日本軍はマーシャル諸島、ウェーク島、本土どれにも警戒処置をとっており、加えて戦力に余裕がなかったために哨戒は不十分であった。アメリカ軍の奇襲による被害は小さかったが、連合艦隊は受け身の作戦の困難性を認識した。日本の連合艦隊は、真珠湾攻撃後は南方作戦に機動部隊主力を投入していたが、セイロン島攻略作戦案が採用されなかったために、連合艦隊幕僚は第二段作戦の移行までに残された4週間で代替案を作成しなければいけない立場に置かれていた。連合艦隊幕僚は戦争早期終結に貢献できるような作戦が思いつかなかった。連合艦隊幕僚は、これまで示した作戦案が陸軍部隊を用いるから反対されたと考えており、かといって守勢に回ることの困難性を認識していたために、海上戦力のみで行う攻勢作戦計画の立案を応急的に進めなければいけないと判断した。その結果、黒島亀人連合艦隊先任参謀を中心に、ハワイ攻略を見据えた作戦計画を立案した。そこで、ハワイ作戦の前段階として浮上したのがミッドウェー島の攻略であった。ミッドウェー作戦構想は、ミッドウェー島を攻略することにより、アメリカ艦隊、特に空母機動部隊を誘い出して捕捉撃滅することに主眼が置かれた。日本軍がアメリカ軍の要点であるミッドウェー島を占領した場合、軍事上・国内政治上からアメリカ軍はこれを全力で奪回しようとすることは明白であり、現時点で豪州方面で活動している米空母部隊もミッドウェー近海に出撃する確率は高い、と日本海軍は計算していた。日本軍は情報分析の結果、アメリカ軍の空母戦力を以下のように推定した。これをふまえ日本軍は、ミッドウェー攻撃を行った場合に出現するアメリカ軍規模を、「空母2-3隻、特設空母2-3隻、戦艦2隻、甲巡洋艦4-5隻、乙巡洋艦3-4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦30隻、潜水艦25隻」と判断した。アメリカ軍がミッドウェー島に海兵隊を配備し、砲台を設置して防衛力を高めていることも察知していたが、その戦力は「飛行艇24機、戦闘機11、爆撃機12、海兵隊750、砲台20前後」または「哨戒飛行艇2コ中隊、陸軍爆撃機1乃至2中隊、戦闘機2コ中隊」であり、状況によってはハワイから「飛行艇60機、爆撃機100機、戦闘機200機」の増強もありえると推測している。同島占領の際にはアメリカ軍基地航空隊から空襲を受けることを想定していたが、直掩の零戦と対空砲火で排除できるとしている。日本軍が海兵隊3000名、航空機150機というミッドウェー島の本当の戦力を知るのは、空母部隊が全滅した後の捕虜の尋問結果からだった。日本海軍は、ミッドウェー島を占領してからの維持は極めて困難であると考えていた。あくまでこの作戦は米空母を誘い出して撃滅することを目的とし、さらに占領後には他方面で攻勢を行い、アメリカ軍にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ10月のハワイ攻略作戦までミッドウェー島を確保できると考えた。大本営(参謀本部・軍令部)と連合艦隊司令部はこの作戦について激しく対立した。軍令部は日本の国力からみてハワイ諸島の攻略と維持など不可能と判断し、むしろインド洋方面の作戦を強化してイギリスを追い詰め、間接的に同盟国ナチスドイツを支援することを構想していた。軍令部航空担当部員の三代辰吉中佐は「仮に日本軍がミッドウェー島を占領しても、米艦隊は本当に出現するのか。日本軍の補給路がアメリカ軍に遮断され、疲弊した所を簡単に奪回されるだけではないか」という点を考慮して反対し、FS作戦(ニューカレドニア島とフィジー諸島の攻略)を重視する立場を崩さなかった。連合艦隊司令部の黒島参謀と渡辺安次参謀は、山本長官が「この作戦が認められないのであれば司令長官の職を辞する」との固い決意を持っているとして、軍令部と折衝した。だが、この論法は真珠湾攻撃の際にも使用されていた事もあって今度は容易には通用せず、交渉は暗礁に乗り上げた。大本営海軍部との交渉に見込みなしと判断した渡邉参謀は、伊藤整一軍令部次長に直接連合艦隊のミッドウェー作戦案を説明し、山本長官の意向を伝えた。伊藤次長はこれをふまえてさらに審議を行い、FS作戦に修正を加え、連合艦隊の作戦案を採用することを4月5日に内定、永野修身軍令部総長の認可も得て、ミッドウェー島の占領および米空母部隊の捕捉撃滅を狙うこととなった。軍令部はミッドウェー作戦と並行して同時にアリューシャン攻略作戦(AL作戦)を行う案を加えた。AL作戦の目的は、アメリカの北方路の進行を阻止するもので、米ソ間の連絡を妨害しシベリアにアメリカの航空部隊が進出するのを妨害しようとするものであった。当時開発されたとの情報があった米大型爆撃機による帝都空襲が行われ、その一部が奇襲に成功したことで同方面の関心はさらに強くなった。図上演習においてアリューシャン方面からアメリカの最新大型爆撃機が首都空襲を行い、その一部が奇襲に成功するという結果が出ており、海軍部も連合艦隊もこの方面への関心を高めていた背景があり、連合艦隊もこれに同意、第二段作戦の全体像が固まった。アリューシャン攻略作戦にはミッドウェー作戦の牽制作戦の意味もあったとする証言もある。作戦は、ミッドウェー島上陸日(N日)を6月7日と決定して一切を計画した。上陸用舟艇で敵のリーフを越えて上陸するため、下弦月が月出する午前0時を選んだ。7月は霧が多く上陸が困難なため、6月7日に固定した。上陸作戦の制空と防備破壊は3日前に南雲艦隊が空母6隻で奇襲することで可能と考えた。連合艦隊は奇襲の成功を前提にしており、アメリカが日本の企図を察知して機動部隊をミッドウェー基地の近辺に用意することは考慮していなかった。米機動部隊の反撃は望むところであったが、米機動部隊は真珠湾にあってミッドウェー基地攻撃後に現れることを前提に作戦を計画した。ミッドウェー島占領後、基地航空部隊の哨戒網で敵機動部隊を発見、一航艦は第二艦隊と協力してそれを攻撃、山本艦隊は機を見て参加し撃滅するというものだった。1942年4月18日、空母ホーネットはミッドウェーでエンタープライズと合流し、第16任務部隊は日本に向けて進撃した。「エンタープライズ」は航空支援を、ホーネットは日本本土に接近、ジミー・ドーリットル中佐率いるB-25ミッチェル双発爆撃機で編成された爆撃隊を輸送する役割分担である。爆撃隊は「ホーネット」から発進後、東京を筆頭に日本の主要都市を攻撃する予定であった。第16任務部隊は4月18日の朝に犬吠埼東方で特設監視艇第二十三日東丸に発見され、ウィリアム・ハルゼー中将は予定より早い攻撃隊発艦を決意する。爆撃隊は前日に発艦準備を整えていたが、40ノットを超える強風と30フィートに及ぶ波が激しいうねりとなり、ホーネットは大きく揺れていた。その中でドーリットル隊は発進し、09:20までに16機のB-25は全て発艦した。B-25爆撃隊は、東京、名古屋、大阪を12時間かけて散発的に爆撃、中国大陸に脱出後、不時着放棄された。セイロン沖海戦で勝利した南雲機動部隊は台湾沖で第16任務部隊追撃命令を受けたが距離は遠すぎ、燃料を浪費しただけだった。空襲による被害は微小であったが、日本本土上空にアメリカ軍機の侵入を許してしまったことは日本に大きな衝撃を与えた。またアメリカ軍が航続距離の長い双発爆撃機を用いたために対応策が考えられず、陸海軍はより大きな衝撃を受けることとなった。国民の間でも不安が広がり、しばらく敵機来襲の誤報が続き、山本長官にも国民からの非難の投書があった。山本長官は以前から本土空襲による物質的精神的な影響を重視していたため、すでに内定していたミッドウェー攻略作戦の必要をこの空襲で一層感じた。連合艦隊航空参謀佐々木彰によれば、山本長官はわが空母によるハワイ奇襲が企図できるのであるから、哨戒兵力の不十分なわが本土に対しても、彼もまた奇襲を企図できると考えていたようであるという。この空襲により日本陸軍もミッドウェー作戦・アリューシャン作戦を重大視するようになり、陸軍兵力の派遣に同意、ミッドウェー作戦は日本陸海軍の総攻撃に発展した。淵田美津雄は昭和天皇の住む東京を爆撃されたことで山本長官のプライドが傷つき、アリューシャンからミッドウェーにわたる航空哨戒線を築くことで東京に対する二度目の米機動部隊襲撃を阻止する狙いがあったと推測している。千早正隆は二度目のドーリットル空襲を防ぐためにミッドウェー攻略作戦を急ぐ必要があり、空母瑞鶴を有する第五航空戦隊の戦力が回復するのを待てなかったと指摘した。山本長官の意気込みとは反対に、4月下旬に日本本土に戻った第一航空艦隊(南雲機動部隊)は問題を抱えていた。開戦以来ドック入り、長期休暇もなく太平洋を奔走したため、艦・人員とも疲労がたまっていた。さらに「相当広範囲の転出入」という人事異動のため、艦艇と航空部隊双方の技量が低下していた。ミッドウェー海戦後の戦闘詳報では「各科共訓練の域を出ず特に新搭乗員は昼間の着艦ようやく可能なる程度」と評している。雷撃隊は「この技量のものが珊瑚海に於いて斯くの如き戦果を収めたるは不思議なり」と講評される程度。水平爆撃と急降下爆撃は満足な訓練ができず、戦闘機隊は基礎訓練のみで編隊訓練は旧搭乗員の一部が行っただけ。着艦訓練は訓練使用可能空母が加賀のみだけだった為、新人搭乗員の訓練が優先され、ベテラン搭乗員でも薄暮着艦訓練を行った者は半分程度であった。戦闘詳報は「敵情に関しては殆ど得る所なく、特に敵空母の現存数、その所在は最後まで不明なりや。要するに各艦各飛行機とも訓練不十分にして且つ敵情不明情況に於いて作戦に参加せり」と述べている。軍令部で説明を受けた一航艦参謀長の草鹿龍之介と第二艦隊参謀長の白石萬隆はドーリットル空襲の騒ぎの直後であり、敵機動部隊来襲を未然に防ぐためという先入観から主目的をミッドウェー基地攻略、副目的を敵機動部隊撃破と解釈した。さらに4月28日から1週間かけて戦艦大和で行われた「連合艦隊第一段階作戦戦訓研究会」と「第二段作戦図上演習」では、日本軍にとって不安な結果が出た。この図上演習において、ミッドウェー攻略作戦の最中に米空母部隊が出現し、艦隊戦闘が行われ、日本の空母に大被害が出て、攻略作戦続行が難しい状況となった。審判をやり直して被害を減らして空母を三隻残して続行させた。空母加賀は爆弾9発命中判定で沈没判定となり、宇垣纏連合艦隊参謀長は「9発命中は多すぎる」として爆弾命中3発に修正させ、加賀を復活させた 。攻略は成功したが、計画より一週間遅れ、艦艇の燃料が足りなくなり、一部駆逐艦は座礁した。アリューシャン方面では、空母隼鷹、龍驤が濃霧の中、アメリカ軍水上部隊の襲撃を受け撃沈判定となった。宇垣は「連合艦隊はこのようにならないように作戦を指導する」と明言した。また、米機動部隊がハワイから出撃してくる可能性はあったが、図上演習でアメリカ軍を担当した松田千秋大佐が出撃させることはなかった。戦訓分科研究会において、宇垣参謀長は草鹿参謀長に対し「敵に先制空襲を受けたる場合、或は陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をたたかれたる場合如何にする」と尋ねると、草鹿参謀長は「かかる事無き様処理する」と答えたため、宇垣参謀長が草鹿参謀長を追及すると、源田が「艦攻に増槽を付したる偵察機を四五〇浬程度まで伸ばし得るもの近く二、三機配当せらるるを以て、これと巡洋艦の零式水偵を使用して側面哨戒に当らしむ。敵に先ぜられたる場合は、現に上空にある戦闘機の外全く策無し」と答えた。そのため宇垣参謀長は注意喚起を続け、作戦打ち合わせ前に「第一航空艦隊はミッドウェー攻撃を二段攻撃とし第二次は敵に備える」と決まった。米機動部隊が現れた際に反撃するために半数は魚雷装備となったが、黒島亀人首席参謀は命令として書き込む必要はないと航空参謀佐々木彰に指示した。第二艦隊長官近藤信竹中将は米空母がほぼ無傷で残っており、ミッドウェー基地にも敵戦力があることからミッドウェー作戦を中止して、米豪遮断に集中すべきと反対した。しかし、山本長官は奇襲が成功すれば負けないと答えた。また近藤中将はミッドウェー島を占領しても補給が続かないと言ったが、宇垣参謀長は不可能なら守備隊は施設を破壊して撤退すると答え、攻略後の保持、補給には考えがなかった。源田は兵力が分散し過ぎて目標を見失っており、集中という兵術の原則にも反していると感じたため、図上演習後の研究会で連合艦隊参謀黒島亀人に「作戦の重点をアメリカ艦隊撃滅に置くべきである。そのためにはアリューシャン攻撃部隊やあらゆる作戦可能な兵力を、たとえ第五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)が参加できるのを待ってもミッドウェーに集中すべきだ」と主張したが、黒島は「連合艦隊長官は一度決めた方針に邪魔が入ることを望まれない。機動部隊の主要任務はミッドウェー攻略支援だ」と答えたため、アメリカ艦隊撃滅は二次的なものと源田は受け止めた。図上演習と研究会は、ミッドウェー作戦の目的である敵空母捕捉撃滅が難しく、高いリスクを伴う作戦であることを示したが、連合艦隊は問題点を確認することなく作戦を発動した。特に山本長官は「本作戦に異議のある艦長は早速退艦せよ」と強く訓示している。第五艦隊参謀長中澤佑によれば、中沢が作戦会議で機動部隊と連合艦隊主隊の距離が離れすぎていることを指摘すると、黒島は問題ないと発言したという。戦後、草鹿は作戦目標があいまいでミッドウェー攻略が優先であったことを指摘し、「二兎を追うことになった」と表現している。また源田実も作戦目標がアメリカ軍機動部隊の撃滅かミッドウェー基地攻略なのか曖昧であったとし、戦略戦術からいってどうにも納得できない部分があり航空主兵なのか戦艦主兵なのかも曖昧で大和と山本長官が後ろからついてくる事も疑問だったという。古村啓蔵(筑摩艦長)は同期の富岡定俊軍令部作戦課長から、艦隊はミッドウェー攻略成功後にトラックに集合・米豪遮断のFS作戦実施予定と聞き、驚いていたという。5月25日最後の図上演習が行われたが、ミッドウェー攻略後の日から始まっており、成功が前提で奇襲失敗や米機動部隊の出撃は全く考慮されていなかった。作戦は準備期間が短く時期尚早と一航艦司令部から反対があり、作戦事前研究会で山口多聞少将と源田実中佐が連合艦隊司令部に反対と食いついたが、連合艦隊司令部は決定済みとして取り合わなかった。1942年5月4日、研究会で一航艦参謀長草鹿龍之介と第二艦隊参謀長白石萬隆は延期を申請したが、却下され5日に再び訪問した際に第二段作戦を手交され、その日は延期の申請をせずに帰った。結局、機動部隊は部品の用意が間に合わないという理由でミッドウェー作戦の延期を一日だけ認められただけだった。不安要素があったとはいえ、連合艦隊司令部、軍令部、南雲機動部隊のいずれも自信に満ち溢れていた。5月5日、永野軍令部総長より山本長官に対し大海令第18号が発令された。第二艦隊参謀長白石萬隆によれば、軍令部は主目的をミッドウェー島攻略、哨戒基地の前進と示していたが、5月の図上演習で陽動で米艦隊を他に引きつける案が出た際に、連合艦隊の宇垣参謀長はそれでは米艦隊を引き出せないと説明、この直後に大海令があり、攻略が主目的であると示され、連合艦隊の解釈が間違っているのではないかと思ったという。大海令第18号により、ハワイ攻略の前哨戦として山本長官、宇垣参謀長の指揮下で艦艇約350隻、航空機約1000機、総兵力10万人からなる大艦隊が編成された。これは戦艦大和他の戦艦部隊(第一艦隊)が呉の柱島を出撃、参加する初めての作戦であった。淵田美津雄中佐によれば、第一航空艦隊航空参謀源田実は当時、第一段階作戦の後始末でミッドウェー作戦を検討する暇も無かったと打ち明けており、草鹿参謀長に至っては真珠湾で戦死した航空機搭乗員の二階級進級問題の折衝で走りまわり(航空機搭乗員の士気に関わるため)、ミッドウェー作戦の研究どころではなかったという。草鹿は「準備期間が不十分で不満もあったが強く反対せず、何とかやれるだろうと考えていた。それよりハワイ攻撃の戦死者の2階級特進の方に関心があった」という。当初、珊瑚海海戦の報告を聞いた時点で海軍首脳部は無傷の空母瑞鶴をミッドウェーに、大破した翔鶴を修理後アリューシャン作戦に回す予定であった。しかし翔鶴の修理には3ヶ月を要し、また瑞鶴も無傷であったものの参加した搭乗員の損耗が激しく、トラック島に停泊して補充を待っている状態であり、本作戦に参加できなかった。これにより日本側の参加空母数が減ることとなったが、それでも隻数の上では4対3(日本軍は、エンタープライズ、ホーネット、ワスプ出現可能性考慮)と、アメリカ軍より優勢であった。ただしミッドウェー基地の航空機を計算にいれると、航空戦力比は日本軍「戦闘機105、急降下爆撃機84、雷撃機94、艦偵2、水上戦闘機24、水上偵察機10、計319(南雲部隊、近藤部隊、輸送部隊合計)」、アメリカ軍機動部隊「戦闘機79、急降下爆撃機112、雷撃機42」、アメリカ軍基地戦力「戦闘機27、急降下爆撃機27、雷撃機6、飛行艇32、大型爆撃機23」総計348機となって、ほぼ互角であった。この翔鶴・瑞鶴の2隻の運用については、後述のヨークタウンの事例と比較され、本海戦における日本側の敗因の一つとして批判の対象となる事が多い。またアメリカの歴史学者であるゴードン・ウィリアム・プランゲはアリューシャン方面に空母龍驤、隼鷹を投入したことが、山本五十六最大の失策だったと指摘している。出撃前、一航艦の草鹿参謀長は、攻撃日が決まっているので奇襲の機動余地がなく、空母はアンテナ受信能力不足で敵情がわかりにくいので、連合艦隊が敵情を把握して作戦転換を指示することを連合艦隊の宇垣参謀長に取りつけた。アメリカ軍は日本軍の来襲についての情報を収集、分析し、ミッドウェー作戦に備えていた。1942年3月4日、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツはオアフ島に日本軍の大型航空機(二式飛行艇)2機が爆撃を行い(K作戦)、同月11日にはミッドウェーに新型飛行艇(前同 二式飛行艇)1機が接近し、撃墜されたことをふまえて、日本軍の攻勢の兆候と判断した。ただ、これは誤解で、実際には日本軍の爆撃は攻勢作戦とは関係のない偵察監視・妨害作戦に過ぎなかった。日本海軍の主力部隊は南方戦線から日本本土へと帰投しており、次に太平洋のどこかを攻撃することは確実であるものの、ハワイ、ミッドウェー、米本土西岸など可能性が幅広く、判断がまとまっていなかった。米本土西岸への日本軍上陸の誤報なども影響している。真珠湾攻撃直前に変更された日本海軍の戦略暗号 "D"は、アメリカ軍の諜報部よりJN-25と呼ばれていた。1942年4月頃には、ハワイ真珠湾のアメリカ海軍 レイトン(情報)班が、日本軍の暗号を断片的に解読し、日本海軍が太平洋正面で新たな大規模作戦を企図していることについても、おおまかに把握していた。この時点では時期・場所などの詳細が不明であった。その後、5月ごろから通信解析の資料が増え、暗号解読との検討を繰り返して作戦計画の全体像が明らかになると、略式符号「AF」という場所が主要攻撃目標であることまでわかってきた。しかし「AF」がどこを指しているのかが不明であった。アメリカ側は、日本海軍の編成表から「A」「AO」「AOB」がアリューシャン方面であることは明白であると判断した。ワシントンのアメリカ統合参謀本部は攻撃目標をハワイ、陸軍航空隊ではサンフランシスコだと考え、またアラスカ、米本土西岸だと考える者もいた。5月中旬になっても決定的な情報は無かったが、チェスター・ニミッツ大将は各種情報と戦略的な観点からミッドウェーが目標であると予想し、ハワイ所在のレイトン情報主任参謀らも次第にミッドウェーが目標であるとの確信を深めていった。5月11日ごろ、諜報部にいた青年将校ジャスパー・ホームズの提案により、決定的な情報を暴くための一計が案じられた。彼は、ミッドウェー島の基地司令官に対してオアフ島・ミッドウェー間の海底ケーブルを使って指示を送り、ミッドウェーからハワイ島宛に「海水のろ過装置の故障により、飲料水が不足しつつあり」といった緊急の電文を英語の平文で送信させた。その後程なくして日本のウェーク島守備隊(クェゼリン環礁所在の第六艦隊説もあり)から発せられた暗号文に、「AFは真水不足という問題あり、攻撃計画はこれを考慮すべし」という内容が表れたことで、AFはミッドウェー島を示す略語であることが確認された。こうしてミッドウェー島及びアリューシャン方面が次の日本軍の攻撃目標だと確定された。なお、このエピソードについては、実際の暗号解読状況や手法を秘匿するための粉飾とする説もある。たとえば、沈没する空母飛龍から脱出後、アメリカ軍に救助され捕虜となった相宗邦造中佐ら機関科兵34名は、アメリカ軍情報士官から1942年5月に就役したばかりの飛鷹型航空母艦隼鷹の写真を見せられて仰天している。萬代久男少尉によれば、「隼鷹」の写真は軍極秘回覧簿で見たものと全く同じであった。萬代は暗号解読云々よりも、むしろ連合軍諜報活動の方が連合軍の情報戦勝利に影響を与えたと述べている。また、半藤一利らによれば、該当する日本側の電文は残っていないという。5月26日までにハワイの情報隊は暗号解読に成功し、各部隊の兵力、指揮官、予定航路、攻撃時期などが判明した。ニミッツ大将はこの結果をミッドウェー基地の部隊に伝えたが、ワシントンではこの情報を全面的には信用せず、日本軍の偽情報ではないかと疑問を持つ者もいた。ニミッツ大将は、日本軍がサンフランシスコを攻撃するのに陸上戦力を伴うわけがなく、自己の意見がほぼ間違いないと主張した。この論争は続いたが、ニミッツ大将は自己の主張に基づいて作戦準備を進めた。5月26日以降は日本軍が暗号・乱数表を変えたために解読できなくなった。一方、日本軍では情報管理に綻びが見え始めていた。空母飛龍では出発前に誰もがミッドウェー作戦を知っており、一般住民の方が乗組員より先に目的地を知っていたという証言もある。異動してきた士官が「今度はミッドウェーですね」と挨拶し、さらに日用品や食料品を機関部の通路にまで詰め込んだ。連合艦隊司令部も、ミッドウェー島占領後に配備予定の21機の零式艦上戦闘機(第六航空隊)を4隻の空母に詰め込んだ。野村留吉(佐世保鎮守府参謀)によれば、海軍第二特別陸戦隊は「6月以降、当隊あての郵便物は左に転送されたし。ミッドウェー」と電報を打ったという。また5月下旬に呉に戻った重巡洋艦加古の高橋艦長は、息子から近々行われる大作戦について教えてくれとせがまれ困惑していた。白石萬(第二艦隊参謀長)は「連合艦隊は、作戦目標を多少漏らすことで敵艦隊の誘出を図ろうとしていた」との見解を述べている。そして山本五十六に至っては愛人の河合千代子と密会し、別離を惜しんだ後の手紙に『5月29日に出撃して、三週間ばかり全軍を指揮する。多分あまり面白いことはないだろう。この戦いが終わったら、全てを捨てて二人きりになろう』と記している。ハワイ諸島は、アメリカにとって太平洋正面の防衛・進攻の戦略的に重要な根拠地であった。ミッドウェーはハワイ諸島の前哨であり、戦略的要所である。ニミッツ大将は日本軍の来襲の危険性があるミッドウェーを5月3日に視察し、同島守備隊の指揮官のシマード海軍中佐と防備の強化について打ち合わせた。このとき、シマード中佐は兵器と人員が充足すれば防衛は可能であると意見を述べ、ニミッツ大将はシマード中佐の要望通りの補強を行うことにして防備を固めようとした。こうして、ミッドウェー島に集結した航空機は当時最新鋭のTBFを含む約120機、アメリカ海兵隊を含む人員の補強は3027人に達し、防爆掩蓋や砲台も配備していた。陸上部隊は士気が高かったが、航空部隊は寄せ集めの部隊が多く、整備員の増強がなかったために搭乗員は自前で整備・燃料補給を行っていたため、完全に充足した部隊ではなかった。それでも、日本海軍陸戦隊5000名を撃退するには十分な兵力だった。ハワイの情報隊は、日本海軍のミッドウェーへの攻撃が6月3日から5日までに行われることを事前に察知し、日本側が陽動作戦として計画していた、空母龍驤と隼鷹を中心とする部隊をアリューシャン方面に向かわせてアッツ島、キスカ島などを占領、ダッチハーバーなどを空爆する作戦も陽動であることを事前に見抜いており、ニミッツ大将はこれらの情報に基づいて邀撃作戦計画を立案した。日本軍の兵力は大きく、ニミッツ大将の指揮下にある使用可能な戦力を全て投入しても対抗するためには不足が大きかった。そのため、アリューシャン・アラスカ方面には最低限の戦力を送るにとどめ、主力をミッドウェーに集中することにした。アメリカ軍の作戦計画は5月28日に『太平洋艦隊司令長官作戦計画第29-42号』として発令され、内容は、第1に敵を遠距離で発見捕捉して奇襲を防止、第2に空母を撃破してミッドウェー空襲を阻止、第3に潜水艦は哨戒及び攻撃、第4にミッドウェー島守備隊は同島を死守などというものであった。5月28日に作戦計画を発した時点において、ニミッツ大将は2隻の空母しか使用が期待できなかった。サラトガは日本海軍の潜水艦による攻撃で損傷を受けて修理を要する状態にあり、第17任務部隊(TF-17)の2隻は、次にのべるように珊瑚海海戦により大打撃を受けていた。フレッチャー少将の第17任務部隊は、珊瑚海海戦においてポートモレスビー防衛を成功させ、日本海軍の軽空母1隻撃沈し、主力空母にもダメージを与えたものの、自身も主力空母レキシントンを失い、ヨークタウンが中破するという犠牲を払っていた。ヨークタウンへの命中は爆弾1発のみであったが、排煙経路を破壊されるという重大なダメージを受けており、機関からの燃焼煙を正常に排出できないことでボイラーが出力を上げられず、速力が24ノットに低下していたのである。また、2発の至近弾によって左舷燃料タンクの溶接が外れ、燃料が漏れ出していた。特に珊瑚海海戦では艦隊付属の油槽船ネオショーを失っていたため、この燃料漏れは海上での立ち往生という重大な結果を招きかねなかった。ニミッツ大将は、日本軍の侵攻に備えて太平洋南西部よりフレッチャー少将の第17任務部隊をハワイに呼び戻した。途中で何とか燃料を補給できたヨークタウンは5月27日に真珠湾に到着、直ちに乾ドックに入れられて驚異的な応急修理が実施された。特に燃料タンクの損傷については、アメリカ西海岸のワシントン州ブレマートン港にて長期の修理を行う必要があるとの見通しがあったが、ハワイでの72時間の不眠不休の作業によって応急修理が施され、戦闘艦としての機能を取り戻し、ヨークタウンは5月30日に乾ドックを出た。出撃時、艦には修理工が乗ったままであり、戦場へ向かって航行中も修理が続けられた。このことについて乗組員は「いいかげんな間に合わせ」と評している。また、珊瑚海海戦にて大きく損耗したヨークタウンを母艦とする第5航空群は、修理のために本国に戻るサラトガの第3航空群と入れ替えることで、アメリカ軍は3隻目の空母をこの戦闘に参加させることができたが、これは当時のアメリカ海軍太平洋艦隊が投入できる空母戦力の全てであった。もし、ニミッツ大将が準備できた空母が、第16任務部隊のエンタープライズ、ホーネットの2隻のみであった場合、戦いの様相もまた違っていた可能性は高い。前述にもあるが、日本側はアメリカ海軍の太平洋における戦闘可能空母をこの時点で正規空母2-3隻、軽空母2-3隻と見積もっており、ワスプや軽空母が出現することはあっても、先の珊瑚海海戦で自力航行不能にまで損害を与えたヨークタウンがミッドウェー作戦に間に合うことを考慮していなかった。1942年5月28日、アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官発の作戦計画に従い、エンタープライズ、ホーネットを基幹とする第16任務部隊(TF-16)が真珠湾を出撃し、続いて5月30日には第17任務部隊(TF-17)も基幹となるヨークタウンの緊急修理の完了を待つ形で真珠湾を出撃した。各任務部隊はミッドウェー島へ襲い来る日本軍と戦い、作戦計画において死守命令を受けたミッドウェー島守備隊を助けるべく一路ミッドウェー島を目指した。1942年(昭和17年)5月27日(海軍記念日)、南雲忠一海軍中将率いる第一航空戦隊(赤城、加賀)、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)を中心とする第一航空艦隊(通称、南雲機動艦隊)が広島湾柱島から厳重な無線封止を実施しつつ出撃した。主力部隊他も2日後に同島を出撃している。三和義勇(連合艦隊作戦参謀)は『今は唯よき敵に逢はしめ給えと神に祈るのみ。敵は豪州近海に兵力を集中せる疑あり。かくては大決戦は出来ず。我はこれを恐れる』『長官から兵にいたるまで誰一人として勝利についていささかの疑問をいだく者はいない。戦わずして敵に勝つの概ありと言うべきか』と日記にしたためている。宇垣参謀長はアメリカ軍の無線交信が増えたことを気にして『日本軍輸送船団が察知されたのではないか』と疑ったがそれ以上の手を打つことはなく、戦後日記を分析した千早正隆は「これ以上なく悔やまれる」と述べている。5月28日、ミッドウェー島占領部隊輸送船団が水上機母艦千歳、駆逐艦親潮、黒潮と共にサイパンを出航した。海軍陸戦隊(太田実海軍少将)と設営部隊、陸軍からは一木清直陸軍大佐率いる陸軍一木支隊が乗船していた。船団は第二水雷戦隊(旗艦 軽巡洋艦神通)他に護衛され北上した。作戦では日本側の事前索敵計画として6月2日までに2個潜水戦隊をもって哨戒線を構築する予定だった。しかし担当する第六艦隊(潜水戦隊で構成された艦隊)で長距離哨戒任務に適した3個潜水戦隊の内、第二潜水戦隊はインド洋での通商破壊戦後の整備中、第八潜水戦隊は豪州・アフリカでの作戦任務中、第一潜水戦隊は北方作戦に充てられる事になった為どれも作戦には投入できなかった。このため、「海大型」で構成される第三・五潜水戦隊が担当する事になったが五潜戦は日本からクェゼリンへの回航途上で(第六艦隊に作戦が通知された5月19日時点)予定期日に間に合うのは不可能、三潜戦も所属の潜水艦の内3隻が第2次K作戦に充てられた為、両隊あわせて9隻の潜水艦が予定配置についたのは6月4日になってしまった。特に第16任務部隊が6月2日に五潜戦の担当海域を通過しており本作戦における大きな禍根になった。次に予定されていたのは第二十四航空戦隊によるミッドウェー周辺への航空索敵である。これは二式大艇によるウェーク島を経由した索敵計画であったが、ウェーク環礁が二式大艇を運用するには浅すぎ、経由地がウォッゼ環礁に変更された結果ミッドウェー全海域の索敵が不可能となった。更にパイロットの技量不足で夜間着水が困難であることから薄暮までにはウォッゼ環礁に帰還する必要があったので肝心な北方海域哨戒(5月31日)が短縮された。これにより、結局米艦隊を発見する事は出来なかった。仮に予定通り北方海域を哨戒していたら米艦隊を発見できた確率は非常に高かった。最後に計画され、連合艦隊が最も重視した第2次K作戦は、オアフ島西北西480海里にあるフレンチフリゲート礁で潜水艦の補給を受けた二十四航戦の二式大艇によるオアフ島の航空索敵である。第1次は3月に実施し、さらに二式大艇によるハワイ空襲時にもフレンチフリゲート礁は使用された。しかし、アメリカ軍は日本軍の作戦を暗号解読で察知すると、海域一帯に警戒艦艇を配置して封鎖した。潜入した伊123は「見込み無し」という報告を送った。これを受け第十一航空艦隊は5月31日21時23分に作戦中止を二十四航戦に指示した。この作戦も、もし実施されていたらオアフ島には米空母がいないことが判明し、以後の作戦が大きく変わった可能性が高かった。さらに南雲機動部隊にも作戦中止を連絡しなかった。6月3日午後、南雲機動部隊に追従する主力部隊旗艦大和に乗り込んだ連合艦隊司令部敵信班はミッドウェー島付近で敵空母らしい呼び出し符号を傍受した。連合艦隊首席参謀黒島亀人によれば、4日頃に(大本営からの連絡、又は通信傍受で)ミッドウェーに機動部隊がいる兆候をつかみ、山本長官は一航艦に知らせるかと尋ねたが、黒島は無線封止の優先、一航艦が搭載機の半数をもって反撃に備えていること、機動部隊も兆候をつかんだであろうことから、知らせないように具申したとして自分の失敗であると話している。連合艦隊参謀佐々木彰によれば、4日に通信呼出符号を傍受したという。回虫から来る腹痛に悩まされていた山本だが、直ちに南雲機動部隊に通報するよう参謀に伝えた。だが「無線封鎖を破れば敵に位置を知られる」「南雲機動部隊の方が近く同じく傍受したはず」という判断から見送られた。しかし南雲機動部隊は傍受しておらず、予定通りに作戦を続けた。この件を取材した亀井宏によれば、黒島参謀を含めて連合艦隊、軍令部、第六艦隊、全員の証言が一致しなかったという。土井美二(第八戦隊首席参謀)は、草鹿龍之介参謀長が「空母はマストが低くて敵信傍受が期待できない。怪しい徴候をつかんだらくれぐれも頼む」と出撃前に何度も確認していたと証言し、草鹿の回顧録にも同様の記述がある。日本時間6月3日午前10時30分、南雲機動部隊は深い霧の中で混乱し、旗艦赤城は飛龍、蒼龍、榛名、霧島の艦影を見失った。飛龍と霧島は衝突しかけたため、司令部では無電を使用するかどうか議論があったが、長波無電を使用して艦隊の針路を定めた。無線の使用によりアメリカ軍が南雲部隊の行動を察知したという説が日本側にあるが、アメリカ軍側にこの通信を傍受した記録はない。6月4日午前3時37分、南雲部隊は補給隊と駆逐艦秋雲を分離した。午前10時25分、南雲司令部は各艦に「敵情に応じ行動に変更あるやも知れず」とし、制空隊の集合や収容に注意するよう通達を出している。午後4時30分、赤城と利根がアメリカ軍機らしき機影を発見すると、赤城から3機の零戦が発進して迎撃に向かった。南雲機動部隊は、誤認の可能性が高いと判断している。午後11時30分、赤城は雲間にアメリカ軍機を発見して総員を戦闘配置につけたが、その後は平穏に過ぎた。赤城では日本軍輸送船団が爆撃を受けたことを知り、またアメリカ軍索敵機を撃墜できなかったことでミッドウェー基地に対する奇襲効果が失われたことを悟ったが、米空母に関しては無警戒であった。アメリカ軍は5月30日以降、ミッドウェー島基地航空隊の32機のPBYカタリナ飛行艇による哨戒が行われていた。6月2日、フランク・J・フレッチャー少将の第17任務部隊とレイモンド・スプルーアンス少将の第16任務部隊がミッドウェー島の北東で合流、この合流した機動部隊の指揮はフレッチャー少将がとることになった。6月3日(09:00)、カタリナ飛行艇1機(ジャック・リード少尉機)が日本軍輸送船団と護衛の第二水雷戦隊を発見する。(12:30)、ミッドウェー島から第7陸軍航空部隊分遣隊のB-17爆撃機9機(指揮官:ウォルター・スウィーニー中佐)が発進、攻撃に向った。日本時間6月4日午後1時(16:23)、船団を発見したB-17部隊は爆撃を開始し、戦艦、空母、輸送船など、多数の艦艇撃破を報告した。実際は輸送船あるぜんちな丸、霧島丸が至近弾を受けたのみで損害も無かった。(21:30)、オアフ島より増援されたPBYカタリナ飛行艇4機(指揮官:チャールズ・ヒッパード中尉)に魚雷を積んだ雷撃隊が出撃する。(現地時間6月4日01:15)レーダーで船団を発見(1:43)し、雷撃を開始した。夜間だった事で完全な奇襲になり、輸送船清澄丸が機銃掃射され、あけぼの丸に1本が命中し戦死者11名が出たが、両船とも航行に支障はなかった。この時、船団を護衛すべき第七戦隊(栗田健男少将)の重巡洋艦4隻(熊野、鈴谷、三隈、最上)は船団を見失って離れた地点にいた。これは栗田少将のミスというより田中頼三少将(船団指揮官・第二水雷戦隊司令官)の判断により、輸送船団が予定航路から北100浬地点を航行していたからである。ミッドウェー基地からの艦隊発見の報を受け、太平洋艦隊司令部は、B-17が攻撃した艦隊は敵主力機動部隊にあらずと判断し、第16・17両任務部隊に日本軍機動部隊と間違えて攻撃に向わないよう緊急電を打った。フレッチャー司令官も同じ判断を下し、行動を行わなかった。午後4時50分(19:50)には予想迎撃地点に向けて南西に進路を変更している。この段階では、フレッチャーとスプルーアンスも南雲機動部隊の位置を把握していなかった。ミッドウェー作戦では、二つの時間が存在する。アメリカ軍はミッドウェー島と同じ西経日付を使用し、さらにアメリカ軍機動部隊は日付帯時間に10時間を加えているので、ミッドウェー時間より2時間遅れている。日本軍は東経日付を使用し、さらに東京時間を使用している。従って日本軍各艦各隊の戦闘詳報も東京時間であり、ミッドウェー時間とは21時間異なる。ここから(00:00)内を現地ミッドウェー時間とし、戦闘詳報に記載された東京時間を「午前/午後○○時○○分」で併記する。「軍艦加賀戦闘詳報」によれば、日の出は日本時間6月5日午前2時、日没は午後4時頃、南雲機動部隊上空の天候は曇り、雲量8、雲高500から1000であった。日本時間6月5日(現地時間6月4日1:30)、米空母では航空機搭乗員に朝食が出され、その後出撃待機となり命令を待った。一時間後、搭乗員整列が下令、艦長や航空群司令からの指示や注意事項が通達された。日本時間午前1時15分(4:15)、ミッドウェー基地からPBY飛行艇による哨戒隊、15分後には第17任務部隊の空母ヨークタウンからSBD ドーントレス爆撃機からなる偵察隊が航空偵察に出撃した。ウォリィ・ショート大尉の隊は日本軍水上偵察機1機と交戦したと報告した。この時点で南雲機動部隊は、ヨークタウンから西方200浬を航行している。日本時間6月5日午前1時30分(4:30)、南雲機動部隊はミッドウェー空襲隊(友永丈市大尉指揮:零式艦上戦闘機36機、九九式艦上爆撃機36機、九七式艦上攻撃機36機、合計108機)を発進させた。本来ならば淵田中佐が総指揮官として出撃するはずだったが、淵田は虫垂炎による手術を行ったばかりなので出撃できない。源田実航空参謀も風邪により熱を出していた。日本軍は「敵空母を基幹とする有力部隊附近海面に大挙行動と推定せず」という方針の元に攻撃を開始する。近藤中将の攻略部隊(第二艦隊)がミッドウェー島に上陸する日は6月7日と決定されており、南雲機動部隊はそれまでにミッドウェー基地の戦闘力を奪わなければならなかった。奇襲の成立が前提にあり、空襲の攻撃主目標は地上・上空の飛行機、副目標が滑走路、航空施設、防空陣地であった。源田実参謀によれば、滑走路が副目標であるのは支那事変の戦訓から長期間使用不能にすることが困難であるから、また、艦爆が対空砲火による被害が大きいことも支那事変でわかっていたが命中率の良さから採用し、800キロ爆弾は開戦後の経験から陸上攻撃に大きな効果があることが分かっていたため採用したという。各空母からの発艦機数は、赤城から零戦9機、九九艦爆18機、加賀から零戦9機、九九艦爆18機、蒼龍から零戦9機、艦攻18機(800kg爆弾装備)、飛龍から零戦9機、艦攻18機である。このうち、飛龍艦攻1機(赤松作 飛特少尉)が故障で引き返している。四空母に残った戦力は、零戦36(各艦9)、艦爆36(飛龍18、蒼龍18)、艦攻41(赤城17、加賀26)であった。一航戦の艦攻には航空機用魚雷、二航戦の艦爆には250キロの通常爆弾が装着され、各空母格納庫で待機。アメリカ側記録には、二航戦はセイロン沖海戦の戦訓を踏まえ陸上攻撃・艦船攻撃どちらでも対応できるようにする為未装備状態だったとする意見もある(何れのアメリカ側記録資料、研究者によるかは不明)。また偵察機として赤城 、加賀から九七式艦攻各1機、重巡洋艦利根、筑摩から零式水上偵察機各2機、戦艦榛名から九五式水上偵察機が発進した。索敵機の発進は日の出の30分前、午前1時30分と定められていた。だが第八戦隊司令官阿部弘毅少将の判断で利根は対潜哨戒につく九五式水上偵察機の発艦が優先された。このため筑摩機は(04:35)午前1時35分(第5索敵線)、(04:38)午前1時38分(第6索敵線)に零式水上偵察機が発進、(04:50)午前1時50分に対潜哨戒機発進。利根は(04:38)午前1時38分に対潜哨戒機、(04:42)午前1時42分(第3索敵線)、(05:00)午前2時(第4索敵線)にそれぞれ水偵が発進した。戦闘詳報には「利根、筑摩とも出発著しく遅延す」「筑摩6号機は天候不良のため午前3時35分に引き返せり」という記載がある。筑摩の遅れは、機長兼飛行長の黒田信大尉によれば、待機していたが艦長から発艦命令がなかったので催促したという。艦長の古村啓蔵によれば、発艦が遅れた理由は思い出せないが催促されて判断し発艦させたという。利根の遅れは、通信参謀矢島源太郎と飛行長武田春雄によれば、射出機の故障は記憶になく、大きく遅れた感じはなかったという。第八戦隊首席参謀土井美二中佐によれば、なにか滑走車のピンが抜けた入らないで騒いでいた気がするという。最後に各空母より零戦1個小隊3機が直掩のため出撃した。このうち、加賀の零戦1機が故障のために飛び立てず合計11機となる。そして南雲艦隊は針路を再びミッドウェー島に向け進撃を開始した。午前2時20分(05:20)、南雲長官より「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編成(指揮官加賀飛行隊長)をもって本日実施予定」という信号が送られた。これは米艦隊が出現しない事が明確になった時点で兵装を対地用に変更し、ミッドウェーを再空襲する事を予令として通知したものである。仮に第二次攻撃隊が出撃すると、南雲機動部隊に残された航空兵力は各空母零戦3機となるはずだった。吉岡航空参謀によればこの時の赤城からの信号命令には「本日敵機動部隊出撃ノ算ナシ」の一文が冒頭にあり、南雲司令部は敵空母が出てこないと思っていたとある。午前2時15分(05:15)ごろ、アディ大尉が操縦するPBYカタリナ飛行艇は日本軍零式水上偵察機 (利根4号機)を発見、近くに日本艦隊がいると判断した大尉は付近を捜索した結果、15分後に南雲部隊を発見して「日本空母1、ミッドウェーの320度、150浬」と平文で報告した。日本側もPBY飛行艇を発見し、警戒隊の軽巡洋艦長良から、続けて戦艦霧島から敵機発見の煙幕があがった。南雲機動部隊は直掩零戦隊を発進させはじめたが、アメリカ軍飛行艇は雲を利用して回避しつつ接触を続け、零戦隊はとうとうアディ大尉のPBY飛行艇を撃墜できなかった。午前2時40分(05:40)、アディ大尉機と同じ針路を遅れて飛んでいたチェイス大尉のPBY飛行艇もミッドウェー空襲隊を発見・報告した。アメリカ軍偵察機が南雲部隊発見を通報した無電はミッドウェー基地や南雲部隊などには傍受されたが、第16・17任務部隊には混線したため内容が把握できなかった。両部隊が内容を把握できたのはPBYからの続報を元にして、(06:03)にミッドウェー基地が打電した平文の緊急電を傍受してからである。この平文電報は赤城でも傍受している。空襲が予想されるミッドウェー基地では午前3時(06:00)に迎撃の戦闘機26機(バッファロー20、ワイルドキャット6機)が出撃し、続いてTBFアベンジャー雷撃機6機、B-26マローダー爆撃機4機、 SB2Uビンジゲーター急降下爆撃機12機、SBDドーントレス急降下爆撃機16機という混成攻撃隊が南雲部隊へ向けて発進した。基地には予備のSB2U 5機及びSBD 3機が残された。午前4時7分(06:07)、ミッドウェー基地経由で日本軍空母発見の報告を受けたフレッチャー少将は直ちに行動を開始すると、エンタープライズのスプルーアンスに対して攻撃を命令した。アメリカ海軍の3空母は直ちに出撃準備を開始、スプルーアンスはエンタープライズとホーネットの攻撃隊発進を午前4時(07:00)と指定した。午前3時16分(06:16)、ミッドウェー基地上空の米軍戦闘機隊は接近する艦攻・艦爆・戦闘機隊の順で進撃する日本軍攻撃隊(友永隊)107機を発見する。戦闘はカタリナ飛行艇の吊光弾投下と米軍機の奇襲で始まり、先頭の友永隊長機を始め艦攻多数が火に包まれ、直後に零戦隊が逆襲に転じて空中戦となった。約15分の空中戦は日本側の勝利に終わる。迎撃したF2Aブリュースター・バッファロー戦闘機20機のうち13機が撃墜され、F4Fワイルドキャット戦闘機6機のうち2機が撃墜され、帰還したバッファロー5機、ワイルドキャット2機が使用不能となった。アメリカ軍の妨害を排除した日本軍攻撃隊は午前3時30分(06:30)から午前4時10分(07:10)にかけて空襲を実施した。映像撮影のため派遣されていた映画監督のジョン・フォードなどが見守る中、重油タンクや水上機格納庫、戦闘指揮所、発電所、一部の対空砲台を破壊し基地施設に打撃を与えたが、滑走路の損傷は小さく、死傷者も20名と少なかった。九九艦爆の搭乗員は、飛行機のない滑走路を爆撃して虚しい思いをしたと回想している。日本軍攻撃隊は、アメリカ軍戦闘機41機撃墜確実・9機不確実を主張し、艦攻5機、艦爆1機、零戦2機を失った。残る機も相当数が被弾しており、艦攻16、艦爆4、戦闘機12(修理不能2)が損傷した。友永大尉機も被弾によって無線機が使用不能となり、小型黒板を通じて二番機に中継代行をさせている。アメリカ軍側は空中戦で日本軍機40-50機を撃墜・地上砲火で10機撃墜を主張し、バッファロー13機、ワイルドキャット2機を失い、残る戦闘機も被弾して出撃可能機は2機となった。また、帰途につく艦攻隊に最初の空戦で海面に不時着した艦航隊第二中隊長機菊池六郎中隊長以下3名がゴム筏の上でマフラーを振っているのが発見され非常食が投下されたがその後の戦況のため救助されることはなかった。攻撃の成果が不十分と判断した友永大尉は午前4時(07:00)、南雲機動部隊に対し『カワ・カワ・カワ(第二次攻撃の要あり)』と打電して第一次攻撃隊の攻撃は不十分であることを伝えた。2ヶ月前のセイロン沖海戦と全く同じ展開である。ミッドウェー基地攻撃中の午前3時49分(06:49)、筑摩の4号機が天候不良のため引き返すと報告(受信午前3時55分)。午前3時55分(06:55)、利根の1号機から「敵15機わが艦隊に向け移動中」という報告を受け、更に零戦6機を直掩に加えた。アメリカ軍側の記録によれば、ヨークタウンから発進した10機の索敵機である。同じく四空母に分乗している第六航空隊の零戦21機を使用できるよう準備を指示している。直掩隊は弾薬と燃料補給のため頻繁に着艦・交替を繰り返したため、飛行甲板に艦攻や艦爆を並べることが出来なかった。日本軍空襲隊(友永隊)がミッドウェー島を攻撃していたころ、南雲機動部隊は「0400に至り敵第一次攻撃あり、その後0730頃迄殆ど連続執拗なる敵機の襲撃を受ける」というようにアメリカ軍機の継続的な空襲に悩まされていた。午前4時5分(07:05)、重巡洋艦利根はアメリカ軍重爆撃機10機を発見する。アメリカ軍攻撃隊の正体は、ミッドウェー基地から発進したTBF アベンジャー雷撃機6機(フィバリング大尉)と、爆弾のかわりに魚雷を抱えたB-26マローダー双発爆撃機4機(コリンズ大尉)だった。シマード大佐(ミッドウェー司令官)が友永隊の迎撃に全戦闘機を投入してしまったため、彼らは戦闘機の護衛なしに進撃してきたのである。赤城と利根が発砲し、直掩の零戦10機が迎撃する。アベンジャー6機のうち3機は直掩機により撃墜され、残り2機も投下後に撃墜、アーネスト中尉機だけが生還した。赤城はアメリカ軍の魚雷を全て回避した。被害は機銃掃射で赤城三番高角砲が旋回不能(30分後に修理完了)、砲員に負傷者が出たほか、両舷送信用空中線が使用不能となり、赤城(旗艦)の通信能力に支障が生じた。赤城を狙ったB-26隊は魚雷2-3本命中を主張しているが、実際には回避されている。B-26は2機が撃墜され、生還した2機もひどく損傷して放棄された。ミッドウェー基地から発進したアメリカ軍陸上機による空襲は、ミッドウェー島の基地戦力が健在である証拠であった。友永隊の報告をふまえ、南雲中将はミッドウェー島基地への再空襲を決定する。近藤信竹中将の率いるミッドウェー攻略部隊(第二艦隊)が6月7日に上陸を開始する前に、アメリカ軍基地航空戦力を壊滅させる必要に迫られたからである。午前4時15分(07:15)、南雲司令部は各艦で待機中の攻撃隊に対し、『本日航空機による攻撃を実施する為第二次攻撃隊を編成せよ。兵装は爆装に転換(0415通達、第二次攻撃隊本日実施、待機攻撃隊爆装に換え)』と通知し、陸上攻撃用爆弾への換装を命じた。アメリカの研究調査によれば第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)に対しては特に兵装転換の指示は出されず、爆装しない状態で待機中だったとの意見もある(但しどの記録資料か、誰の研究かについては明記がない)。海戦前に飛龍で行われた実験では、魚雷から爆弾への転換に1時間半から2時間かかっている。燃料補給と弾薬補給を求める直掩戦闘機が着艦するため飛行甲板を開けねばならず、兵装転換作業は各空母格納庫で行われた。その頃、アメリカ海軍第17任務部隊の指揮官フレッチャー少将は、ミッドウェー基地航空隊の活躍によって南雲機動部隊の位置をほぼ特定することに成功し、攻撃するタイミングを窺っていた。午前3時7分(06:07)、フレッチャー少将はスプルーアンス少将に「南西に進み、敵空母を確認せば、それを攻撃せよ」と命じ、これを受けたスプルーアンス少将は午前4時(07:00)過ぎに攻撃隊発進を命令、第16任務部隊は次からなる117機の攻撃隊を発進させた。しかし午前4時28分(7:28)に日本軍の偵察機が艦隊上空に現れたことから、まだ日本側には空母を発見されていなかった上、発艦した飛行隊を小出しにすることは戦術としては非常にまずいにもかかわらず、敢えてスプルーアンス少将は発進を終えた飛行隊から攻撃に向かわせるように指示した。艦をあげての全力攻撃で、全機を飛行甲板に並べて一度に発進させることができなかったのである。結果的に、このスプルーアンス少将の決断が勝因の一つになる。また、日本軍の空母4隻すべての所在を確認した第17任務部隊(フレッチャー少将)も、警戒のために出していた偵察機(当日はヨークタウンが警戒担当)の収容を終えた後の午前5時30分(8:30)に、次からなる35機の攻撃隊を発進させた。ヨークタウンは(09:05)に攻撃隊を発進させると、すぐにウォリー・ショート大尉のSBD爆撃機17機(VS-5)、戦闘機6を甲板に並べ、発進準備を行った。また米潜水艦ノーチラスは日本戦艦を雷撃したあと、午前6時10分(09:10)に「敵巡洋艦(駆逐艦嵐)を雷撃するも命中せず、爆雷6発で攻撃される」と日誌に記録したが、誰にも報告しなかった。午前4時28分(7:28)、利根の4号機(機長は偵察員の甘利洋司 一等飛行兵曹、操縦員は鴨池源 一等飛行兵、電信員は内山博 一等飛行兵)は赤城の南雲機動部隊司令部に対し、『敵らしきもの10隻見ゆ、ミッドウェーより方位10度、240浬 (南雲機動部隊から200浬)』と発信した。ところが、位置報告がずれており、実際の米艦隊の位置は160km北に偏移している。新規に搭載した機体であったため、コンパスの自差修正ができず、コンパスに10度のずれがあった為とされる。約10分後に受信した南雲部隊は、午前4時45分(7:45)、魚雷から陸用爆弾への兵装転換を一時中断した。これについて草鹿参謀長は午前5時(08:00)ちょうどに利根4号機報告を知ったと著作で述べているが、赤城の通信記録とは矛盾している。予期せぬ米艦隊発見報告に、南雲司令部は興奮した。一方で特に動揺

出典:wikipedia

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