内藤 如安(ないとう じょあん) / 内藤 忠俊(ないとう ただとし)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。如安はキリスト教への受洗名ジョアンの音訳名で、諱は忠俊。小西飛騨守とも称す。熱心なキリシタンとして知られ、また茶人としても名高い。丹波の在地領主としてはじまり、小西行長に仕えた後浪人し、最後はキリシタン追放令によりマニラへ追放された。天文19年(1550年)頃、三好氏重臣・松永久秀の弟・松永長頼の子として生まれる。三好氏は三好長慶の代に畿内で強盛を誇り、丹波攻略にも従事しているが、この戦で父・長頼は頭角を現して、八木城を本拠として口丹波の統治を任された。更に長頼は、人心掌握のために丹波守護代・内藤国貞の娘を正室に迎え、国貞の子・内藤貞勝の後見となり、内藤宗勝(備前守)を名乗った。しかし、丹波では在地勢力である赤井氏が勢力を広げ、一時は三好氏に従っていた波多野氏も独立の姿勢を見せていた。永禄7年(1564年)、ルイス・フロイス(またはガスパル・ヴィレラ)によりキリスト教に入信したという。永禄8年(1565年)、赤井直正と交戦中に父・長頼が討死してしまう。この時、内藤家の家督継承について、如安派と貞勝派との間で内紛が起こったという。最終的に貞勝(備前守)が家督を継ぎ、如安(飛騨守)は執政の立場となった。しかし、畿内では親しい三好氏は急速に衰退しており、逆に丹波では国人である赤井氏・波多野氏の攻勢にあって天田郡などの内藤氏の領土は蚕食されていった。さらに畿内では当時、室町幕府15代将軍・足利義昭と織田信長が対立していたが、如安は丹波守護代内藤家として足利義昭を支持し、天正元年(1573年)3月の槇島城の戦いでは、如安は2千の兵を率いて入城した。敗れた如安は内藤家執政の座を失ったらしく、織田信長に敗れた足利義昭が山口に赴くとこれに随行した。更に、天正4年(1576年)から足利義昭が備後・鞆に幕府を移すと、これに従っている。一方、天正6年(1578年)、織田氏の家臣・明智光秀の攻撃に遭い八木城は落城し、内藤本家は所領を没収された。天正13年(1585年)頃に小西行長に仕えるようになった。行長は如安を重用して重臣に取り立て、小西姓を名乗ることを許した。ちなみに小西氏は如安の外曽祖父・内藤貞正の弟・内藤久清に始まる家系にあたるため、この優遇は同族一門としての処遇の可能性もある。文禄の役の際の明との和議交渉では使者となり、北京へ赴いており、この際の明・朝鮮の記録では如安を「小西飛(ソソビ、소서비)」(小西飛騨守の略)として表記している。ところが慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いで主君・行長は西軍の主力として戦って敗れ、斬首された。如安は同じキリシタンである肥前の大名・有馬晴信の手引きで平戸へ逃れ、その後加藤清正や前田利長の客将となった。前田氏の居城・金沢城には同じくキリシタンである高山右近がおり、ともに熱心に布教活動や教会の建設に取り組んだ。しかし慶長18年(1613年)、徳川家康からキリシタン追放令が出されると、慶長19年(1614年)9月24日、如安は高山右近や妹のジュリアと共に呂宋(今のフィリピン)のマニラへ追放された。到着先のマニラでは、総督以下住民の祝砲とともに迎えられるなど、手厚い歓迎を受けた。マニラではイントラムロス近くに日本人キリシタン町サンミゲルを築いた。寛永3年(1626年)、病死。現在はサンミゲル近くの聖ビセンテ・デ・パウル教会に終焉の地の記念の十字架が建っている。なお、如安が縁となり、八木城のあった船井郡旧八木町とマニラは姉妹都市となった。八木町合併後の南丹市も姉妹都市提携を継続している。
出典:wikipedia
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